フルーツシェフと記憶の皿

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「遅くまで悪かったね。うちで働く話は真剣に考えてみて」 「はあ。ありがとうございました」  夜の九時過ぎだった。片づけを手伝ううち、こんな時間になってしまった。  箱ごと譲ってもらったレモンを抱えて、俺はそのままミラベルの店へ走った。  まだオーナーはいるだろうか。  もし間に合えば、これで料理を作ってもらえる。八嶋支配人の機嫌もなおって、クビを撤回してもらえるかもしれない。  俺の望みはしかし、店の裏口から中へ入ったところでついえた。  厨房の雰囲気が殺気だっている。異様に慌ただしい。絶対になにかあった。  邪魔にならないように厨房には入らず、そのまま静かに俺は店のほうへ進んだ。狭い廊下で支配人と鉢合わせ、あやうくぶつかりそうになる。 「まだいたの!? 邪魔!」 「あの! 『湖池レモン』です。オーナーに頼まれてた……」 「今それどころじゃない! おい、新メニューできたか!? 海堂!」  八嶋支配人はメモを手に厨房へ入っていってしまった。  厨房では海堂瞬が、フライパンで炒めたソースを味見している。なんだか難しい表情だ。調理に悩む海堂の姿なんてはじめて見た。何があったのか知らないが、急いで新しいメニューを考えているらしい。  俺は店から出てきたギャルソンを捕まえて事情を聞いた。 「オーナー? とっくに帰ったよ。逆鱗に触れて厨房は大忙し」 「料理に満足されなかったんですか? やっぱり食材に問題が?」 「ちがう違う。今忙しいから、検索して」 「検索?」  迷惑そうに腕を払われた俺は、慌ただしい廊下の隅でギャルソンから教えられた単語を打ちこんだ。 『メイヨウ、ブログ』  有名なグルメブログにミラベルの店の批判と、雪夜の店への絶賛が載っていた。  グルメリポーター・メイヨウの写真に俺は絶句する。なんと今日、雪夜の店へ来ていたあの女性だ。  雪夜の店がいかにすばらしい料理を提供したか。反対に高級店、ミラベルがどれだけお客様をないがしろにしたかが、解説つき写真とともに親しみやすい文章で縷々と綴られていた。 「アクセス、五万……!?」  全国的な有名店の醜聞とあり、記事へのアクセスはうなぎのぼりだ。  ミラベルへの批判とともに、雪夜の店を訪れてみたいというコメントが何十件と書かれている。  記事を眺めていると、廊下の向こうからギャルソンたちの噂話が聞こえてきた。 「うち、どうなっちゃうんだろうね」 「大丈夫でしょ。それより裏に店なんてあった?」 「さあ」 「うちはともかく、そっちの店のほうがやばいんじゃね?」 「なんで。叩かれてるのはミラベルなのに」 「うちのオーナー、あの若王子グループの御曹司だぞ。若王子(わかおうじ)勝彦」 「わかおうじ?」 「知らない? 有名な話。気に入らない店を金で買い取ってくの」 「えぇぇ?」 「小さな店のひとつくらい、金にものいわせてどうとでもするっしょ。今ごろ殴りこみにでも行ってんじゃね。すげぇ剣幕で怒ってたから」  フライパンがシンクに叩きつけられ、噂話が途切れた。 「くそっ!」  海堂瞬が厨房で頭を抱えていた。八嶋支配人が横でなだめようと必死になっている。  俺は急いでミラベルの店を出た。湖池レモンの段ボールを抱えたままで。雪夜の店へ駆けこむと、カトラリーを片づけていた儀防さんが「おや?」という顔をする。 「なにか忘れ物ですか?」 「そ、そうじゃなくて! これっ」  件のブログをスマホで見せると、儀防さんはなんともいえない顔をした。 「これはまた。雪夜さまはお喜びになるでしょうが」 「それで、大変なんです。これを見たうちのオーナーが、こっちに来るかもっていま――」  バダン、と勢いよく店のドアが開かれた。 「邪魔するぞ」  現れた人物に俺は固まった。嘘だろ。  若王子勝彦。  リストランテ・ミラベルのオーナーにして、天下の若王子財閥の御曹司。  写真でしか俺は姿を見たことがないが、さすがにこの存在感は忘れられない。  すべてをくらいつくす威厳と気高さ。経営者としてのオーラを持つカリスマ。  とびきり険しい顔つきで、若王子勝彦は店内を見回し告げた。 「雪夜はどこだ?」
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