フルーツシェフと記憶の皿

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 若王子勝彦はライオンのような男だった。  鋭い目つき、いかめしい唇、鷲鼻、眉間に深く刻まれたしわ。力強い眉は怒りでつりあがっている。  意思の強さ、信念を持つ人であるのがひと目でわかる。  歳は三十代の中頃。浅黒く健康的に日焼けしていて、ペールグレイの高級スーツがよく似合う。  儀防さんを「待て」と若王子勝彦は引き止めた。 「今日、ブロガーのメイヨウが客として来たそうだな。このレストランで、素晴らしい料理を食べたと」 「はい。たしかにいらっしゃいました」 「ということは、雪夜自ら食べたのか?」 「いいえ」 「なら、お前が試食を?」  ギロリと凶相で睨まれた儀防さんがなぜか慌てだす。 「滅相もございません! 私はただのひと口も味見しておりません。代わりに彼が」  若王子勝彦は、するとものすごい剣幕で俺を見た。 「お前は? む。その服はうちの――」 「あ、あああの俺」  その時だった。厨房の銀扉が開けられて、雪夜がまろび出てきた。 「兄さん!?」  雪夜は唇をわなわな震わせた。 「来ないでって言ったのに! なにしに来たの?」 「もちろん、お前を連れ帰りにきた。雪夜、もういいだろう。こんなことをして何になる?」 「こんなこと? 別にいいだろ、放っておいてよ!」 「よくない! 見ろこの店を。採算も取れない、客のひとりも来てないじゃないか!」 「僕は、っ――、シェフとしてここで、料理が作りたいんだ!」 「料理が作りたいなら家で作ればいい。お前が外に出る必要はない、俺のために料理を作っていればいい」 「嫌だ、僕はもう二度と兄さんに料理は作らないから」  俺はこっそり儀防さんのそばへにじりよる。 「……おふたり、ご兄弟なんですか?」  儀防さんは重々しく頷く。 「ご説明いたしましょう」    雪夜と若王子勝彦は、実の従弟だという。  五歳のとき、雪夜の両親は他界してしまった。遠縁で唯一の肉親である若王子家へと、雪夜は引き取られる運びとなった。 「勝彦さまは、雪夜さまをたいそう慈しみ、実の弟のようにお育てになりました」  若王子家は古くからある名家だという。ありがちなことに、一族内での家族仲は疎遠だそうだ。  若王子家の当主夫妻は海外に居を構えている。日本へ帰ってくるのは数年おきで、若王子勝彦は孤独な日々を使用人とともに過ごしてきたという。  そこへ雪夜がやってきた。  ふた親を亡くした雪夜は、傷つき疲れはてていた。ろくに食事もとれない状態だったそうだ。 「そこで、勝彦さまは一計を案じられました。世界的に有名なシェフ、マエストロ=トゥーリを当家にお招きしたのです。期間限定ではありましたが、若王子家専属の料理人として雇い入れることができました」  俺はその話に度肝をぬかれていた。あのマエストロ=トゥーリを、個人が専属で雇うとは。財力のある若王子家ならではの話だった。そこにどれだけの巨富がつぎこまれたか、考えるのすらおそろしい。  雪夜の料理にマエストロ=トゥーリの味が感じられるのは、おそらくそのせいだろう。  儀防さんによると、マエストロ=トゥーリのおかげもあり、雪夜はしだいに食べ物を口にするようになったという。生きるのに最低限、必要な栄養分を摂取するようになったのだ――主にフルーツから。  両親を失った雪夜の心の傷は深かった。マエストロの尽力をもってしても、果物以外の食べ物を口にさせることはできなかったのだ。  代わりに雪夜は料理をおぼえたという。  世界最高峰のシェフのもと、毎日厨房に立った。雪夜の手料理は、主に若王子勝彦の口へ入ることになった。 「来る日も来る日も、雪夜さまは料理をつくられました。それを毎日、勝彦さまはあますことなく食べきられました」  はじめは不格好にしかならなかった手料理は、鍛錬により驚くほどに質を向上させた。ついには食通である勝彦をも唸らせるまでに成長したのだ。 「しかし、それがすべての悲劇のはじまりでした」 「――と、いうと?」  若王子勝彦は食べ過ぎたのだ。  カロリーを全く考慮しないフルコースは、いくら美味であっても過ぎれば体に毒となる。  平たく言えば、数年前まで若王子勝彦はとても太っていた。生活習慣病を患いかけていたという。  雪夜はそれに気づき、料理を作らなくなった。納得しなかったのは勝彦のほうだ。雪夜の料理は絶品である。一度肥えてしまった舌はもう元には戻せない。ふたりは言い争うようになった。 「雪夜さまは料理がとてもお好きです。そして勝彦さまは、雪夜さまのお料理を召し上がることがとてもお好きなのです。おふたりの方向性が隙間なく合致し、悲劇的にもかみ合ってしまいました。雪夜さまはいたたまれなくなり、若王子家を出られたのです」 「いや、ふたりとも自重すればいいでしょ」  雪夜は勝彦の前で料理をしなければいい。勝彦は食べるのを控え、運動すればいいのだ。 「おふたりは『ほどほど』という言葉をご存じありません。特に勝彦さまは」  儀防さんによると、雪夜は一度料理に没頭してしまうと際限なく調理し続けてしまうという。天才シェフにはままあるが、集中するとまわりが見えなくなるのだ。  勝彦は、財力と天性の才がゆえ、欲望に対し足るを知らない。欲しいと思ったものを入手するまでけして諦めない。執念深く機を待てる性質だそうだ。 「いや、だからって。そんな馬鹿なことが」 「本当なのです。勝彦さまは、雪夜さまが家を出られた後、満足のいく味を求めてリストランテをいくつも訪われました」  それでも勝彦は納得がいかなかった。しびれを切らし、ついにはミラベルの店を開業させた。自らの舌を納得させる料理を作らせるために。  雪夜の店のすぐ隣に敷地を構えたのは、ひとえに勝彦が過保護だからだ。 「雪夜さまに困りごとがあれば、すぐに店から助けをだせるように。また、その動きを逐一見守れるようにと、リストランテ・ミラベルをこの地に開業されました」  俺は開いた口が塞がらなくなった。引きつり笑いのように乾いた声が出てしまう。 「それじゃ、ミラベルのオーナーは……てか、えっ? 今さらですけど、儀防さんはどの立ち位置の人ですか?」 「私は雪夜さまのそば仕え。兼、勝彦さまの使用人です。ですので、立場としては板挟みですな」  俺たちがこそこそ話をしている間にも、雪夜と勝彦の喧嘩はヒートアップしていた。 「もう放っておいてよ! 僕はひとりで店を切り盛りしていける!」 「お前に何ができる!? 料理の味見すらできない、ひ弱なお前に」 「味見なら心配ない、代わりにやってくれる人を見つけたから」  ちらりと雪夜が俺たちを見る。儀防さんから俺へと視線が行き来する。若王子勝彦が吼えた。 「儀防は駄目だぞ! お前の料理は一切口にしないよう、厳命してある!」 「どうしてそんな意地悪するの!」 「俺がお前の料理を食べられないからに決まってるだろうが! どうして他の人間が食えるのに俺はだめなんだ、許せん!」  それは横暴すぎるのではないか。  昔は太っていたという若王子勝彦は、今は十分にスリムなので体調にも気をつかっているのだろう。ミラベルの店で望みの料理を作らせているなら、雪夜の料理を食べるのとカロリー的には大差ない。  若王子勝彦は体面をかなぐり捨てていた。 「家に戻ってこい! ろくに味見もできないのに、フルータリアンのくせにシェフなんて無理だ。家にいればこんな苦労しなくていいんだぞ。俺が望みのものはなんでも手に入れてやる。最新の調理器具だって、高級食材だって――そうだ、手伝いが要るならシェフを雇ってもいい。だから若王子の家に戻って、俺のために料理を作れ」 「……兄さん、何もわかってない」  肩をふるわせた雪夜は、濡れた瞳で若王子勝彦を睨みつけた。涙こそ零れないが、その剣幕に歴戦のオーナーが肩をひるませる。 「僕は帰らないよ。味見はそこの深味くんにしてもらう」 「雪夜!?」 「帰らない。兄さんのところへは絶対に」  悲鳴のような若王子勝彦の声を、悲しげな雪夜の表情がすっぱり切り捨てた。 「あいつは分かってない! こんなセキュリティの甘いところで、分かってないんだ!」  店の外に出た若王子勝彦は激怒していた。  春の宵は穏やかで、むら雲に満月が出ている。暖かな風に優しい虫の音が聞こえる。月明かりだけでも十分に周囲を見渡せる、今宵は美しい夜だった。  見送りについて出た儀防は、心得顔で控えていた。  勝彦はていねいに整えられた髪をぐしゃぐしゃにかき乱し、犬の威嚇のように唸った。 「いいか! あいつをよく見張っておけ。家へ連れ帰るまで安心できん!」 「承知しました。しかし、さようにご心配なさらずとも。あれからもう十七年もたつのですし、雪夜さまは」 「黙れ」  儀防が黙ると、虫の音がいっそう大きく聞こえた。若王子勝彦は重く息を落とした。 「雪夜には言うなよ。奴のことは」  凶悪殺人鬼・薔薇鬼(ローズ・ディッシュ)。  雪夜の両親を殺した犯人は、今なお捕まっていない。その上、活動範囲を広めていると、勝彦は告げた。手を広げ探しても、たどれるのは残虐で、狡猾な犯罪者の足跡のみ。  雪夜の両親を殺した犯人は、この日本で野放しのままになっている。
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