フルーツシェフと記憶の皿

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「どうして、お兄さんに料理してあげないんですか?」  厨房でふたりきり残されると、俺は聞かずにいられなかった。雪夜は魂が抜けるようなため息をつく。 「駄目なんだ。兄さん相手だと、『美味しい、美味しい』って。あんまり言ってくれるもんだから、つい作り過ぎちゃって」  そんなことってあるだろうか。 「兄さんは優しいから。そばにいるとどうしても駄目になる。自分がどんどん駄目になっていく気がする。でも兄さんが悪いわけじゃないし」 「過保護そうでしたもんねぇ」  問題の本質は、つまりそこなのだろう。料理だけでなく、雪夜の自立の話なのだ。  すでにピカピカの調理台をさらに磨きつつ、雪夜は遠くを見る。 「深味くん、どうしてシェフになろうと思ったの?」 「なんですか、急に」 「気になってさ。兄さんの剣幕を見たら、なんだか」  またひとつため息を落とし、雪夜は微笑みを浮かべた。取りつくろうように。 「僕は、誰かが喜んでくれるのが嬉しかったから。笑顔を見るとほっとして、すこし楽になるって気がついたから――だからシェフでいたいんだ。けど、ああも否定されると、自分が間違っているみたいで不安になる」  雪夜のアーモンド形の瞳はじっと宙を見つめていた。透明な空気のなかに、目には見えない輝く答えを探しているみたいだ。  祈るような沈黙が重たくて、俺は口を開いていた。フランスで、マエストロの料理を食べたときのこと。俺がシェフになろうと思った理由。 「マエストロの料理を食べて、そのときすごくびっくりして。美味しいとか、そんな言葉にはおさまらない。そういうの、自分でも作れないかと思って。ミラベルに入ったんです。けど」  半年足らずでクビになってしまった。落胆が声に滲んでいたのかもしれない。雪夜の声は慰めるように暖かくなった。 「なら、僕が教えてあげようか」 「えっ」 「マエストロ=トゥーリのレシピは、いくつか持ってる。味はかなり再現できてると思うよ。他のレストランへ移るのは、それを習得してからでも遅くないだろう」 「いいんですか?」 「いいもなにも」  雪夜はにっこり笑う。笑うと中性的な線の弱さが消え、年相応の青年らしくなった。 「味見なしで料理は出せないからね。いずれにしろ、僕には君が必要なんだ」  **** 「どうなってる! 裏手の店に負けない、新メニューを開発しろと言ったろ!?」  ランチに入る前、まだ午前中だ。怒気をまき散らす若王子勝彦は、ミラベルの厨房へ入るなり八嶋支配人につめよっていた。 「い、いま海堂が作ってます。ご覧のように、見た目もすばらしい出来映えの料理ばかりで」 「味はどうだ。あの店のシェフを叩きのめせるのか!?」 「それはもう!」  厨房では、ミラベルのシェフ・海堂瞬が、新メニューの開発を進めている。作業台の上は工芸品じみた料理で埋めつくされていた。  たとえば、本物の植物を模したデザート。または、木箱の中から神秘的な紫煙が湧き出すアントレ。あるいは、目の前でキャンプファイヤーのように焼き上げる、葉に包まれたソルベなど――いずれも前衛的で世界に類をみない。誇りをもって提供できるひと皿だった。  海堂はいかんなく才能を発揮し、オーナーの要望に応えようとしていた。  昨日の今日でこれだけ成果を出せるのは、若くして天才と認められた彼だけだろう。  けれど、オーナーは納得していない。隣にある「アレグリア」という小規模店への怒りで、海堂の料理を評する理性も失われている。そのことに不満を募らせているのは、厨房や店のスタッフ、なによりほかならぬシェフ・海堂自身だった。 「あっ、そうだ! いいニュースもありますよ」  支配人が気遣いで出した明るい声は、厨房にひんやり響いた。スタッフたちは背筋を凍らせたが、若王子勝彦はとりあえず怒りをおさめた。 「なんだ?」 「今日、グルメ評論家の香月レイニー様が来られます。いかがでしょう、新作のメニューを試してみては?」 「香月?」 「グルメ雑誌の編集長です。彼女に記事を書いてもらえば、うちの評判はうなぎのぼりに」 「ふん。好きにしろ」  オーナーは心底どうでもよさそうだった。その目はきらびやかに並ぶ料理へ向けられている。真価を疑うような眼差しで――気づいているだろうに、海堂はただ黙々と作業していた。歯噛みする海堂の屈辱の音が、支配人には聞こえてくるようだった。プライドの高い海堂のことだ、なんとしてもオーナーを納得させるだろう。内心は隣の店への憎悪で煮えくり返っているはず。店の雰囲気は最悪だった。全部、オーナーの機嫌を損ねた裏手の店のせいである。  一時間後、グルメ評論家の香月レイニーがやってきた。  平身低頭で出迎えた支配人にむかい、彼女はチラシを差し出した。 「今度、うちの協会で料理大会を開くことになったの。テレビ協賛のやつね。協会員が推薦する店は参加できるから、推薦しておいたわ。出るでしょう?」 「はっ、はい。ありがとうございます! なんたる光栄――」 「じゃぁ、さっそく料理をお願い。日本で唯一、マエストロ=トゥーリのレシピを受けつぐ店ですもの。期待してるわ」 「お任せください、すぐにご用意いたします」  バックヤードに引っこんだ支配人は、慌てて厨房へ指示を出した。ついでに、消沈した様子でうなだれているオーナーの様子を見に行った。 「オーナー、香月様がいらっしゃいましたよ! ご挨拶よろしいのですか?」 「ああ……いや、いい」  先ほどまであんなに怒っていたのに。若王子勝彦は、なぜかひどく落ちこんでいるようだった。どうしたのだろう。情緒不安定すぎる。遠巻きに、スタッフたちも不安そうに見ている。 「――八嶋。お前、子どもはいるか?」 「いえ、未婚です」 「だよな」  オーナーも未婚のはずだが。支配人はそこには触れずにおいた。どこに地雷があるかわからない。 「どうしたんです。何かお悩みでも?」 「いや、ふと思ったんだ。反抗期の子どもには、どう接すればいいのかって」  オーナーは深々と肩を落としている。 「あんなに可愛がってやったのに。蝶よ花よと大切にして、望むものはなんでも与えてやったんだぞ。昔はあいつも俺を慕ってた。なのにどうして、肝心な時にあれは――」 「よく、分かりませんが……反抗期の子どもには、ある程度自由を認めてあげるのがいいんじゃないですか」 「自由?」 「好きにさせてやって、その上で頼れる存在だってことをアピールするんですよ。たとえば仕事ぶりを見せるとか。その子が得意なことや趣味について、オーナーも得意であることを見せつけるとか。要するに、相手を尊重しつつ、オーナーが尊敬できる上位の存在であるとわからせてやればいいんです。そうですねぇ……最近の子はゲームが好きですから、そういった方面で何か」 「お前、それは何だ?」 「え? ああ」  ショッキングピンクのチラシを手渡すと、オーナーは食い入るようにそれを見つめた。血走った目つきに、支配人は内心、今すぐこの場を離れたくなった。 「グルメ協会の催しで、テレビ協賛だそうです。うちにもぜひ参加をと」 「これだ!!」  勢いよく立ち上がったオーナーは、チラシを凝視したまま厨房へ入っていった。 「海堂、これに出なさい!」  厨房で忙しく働いていた海堂は、すこし迷惑そうな表情をみせた。今度は何だと、その顔に書いてある。 「料理大会?」 「そう。この大会で、君の料理が日本一であることを知らしめろ。隣の小さな店のシェフより凄いことを証明してくれ。君ならできる!」  チラシを手に戸惑う海堂に、オーナーは真摯な瞳で語りかけた。 「期待している。私が厳しいことを言うのは、君ならできると思っているからだ。やってくれるね?」 「っ、はい……」  海堂は顔をぷいとそむけた。照れている。普段ひねくれているが、意外と素直なところもあるのだ。  一部始終を見ていた八嶋支配人は「やれやれ」と肩をすくめた。 「さーぁ、みんな仕事仕事! 香月様のランチと、その他のランチ。夜の準備も、忙しいよー!」
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