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若王子勝彦はチラシを手に、すぐに雪夜の店へと向かった。
中へ入ろうとしたところで、儀防とはち合わせる。
「どけ。雪夜に話があるんだ」
「お待ちを。お客様がたくさんいらして、雪夜さまは手が離せません。お話でしたら、のちほど」
「待ってられるか!」
「それでは、私がおうかがいしましょう」
頑として進路を譲らない儀防に、勝彦はしかたなくショッキングピンクのチラシを渡した。
「これに雪夜を参加させろ。必ずだ。参加資格は得られるよう、裏から手配しておく」
「これは……料理大会?」
「審査員としてマエストロ=トゥーリも来る。これなら、雪夜も参加を拒まないだろう」
「それは、そうかもしれませんが」
鼻息の荒い若王子勝彦に、儀防はちらりと視線をむけた。
「雪夜がこの大会でうちの海堂に負けたら、強制的に店を畳ませる。もうこの際、手段は問わん。畳ませるといったら必ずそうする」
「勝彦さま。なぜ、そのように焦っておいでなのです。雪夜さまは、おひとりでもうまくやっておられます。今すこし様子を見られては?」
「時間がないんだ!」
若き御曹司は、ストレスのたまった虎のようにその場をうろうろした。ぴたりと動きを止めると、深々と息を吐き出した。
「一か月後に私は渡米する。しばらくはあちらで暮らす」
「なんと」
「雪夜を日本に置いていけるか!? こんな状態で、向こうで仕事なんて手につかない!」
儀防は手元のチラシを見つめた。
けばけばしい紙には、この大会がテレビ協賛であること、審査員のひとりとして来日するマエストロ=トゥーリの写真が大きく載っている。
若王子勝彦は、負け戦はしない。勝機が十分にあると見こみ、この話を持ちかけたのだ。
そういえば、リストランテ・ミラベルの海堂といえば、料理界で期待の寵児ではないか。数ある料理コンテストを総なめにする本物を、若王子勝彦は雇っていたのだった。
もしこの大会で雪夜が勝利すれば――……、
「雪夜様が負ければ、店を畳む。間違いないですね?」
「そうだ。そしてあいつは俺とアメリカへ行く」
「では、雪夜さまが勝った場合には?」
くわっと、若王子勝彦が目を見開く。
「そんなことにはならない!」
「審査が公平であれば、なくはないでしょう」
「お前はどちらの味方だ?」
「もちろん、私は勝彦さまの使用人です。だからこそ申し上げているのです。もし、審査に不正があったとわかれば、雪夜さまは負けをお認めにはならないでしょう。それどころか、勝彦様との関係も一生危うくなるかと」
「わかった、わかった。もちろん審査は公平にする。手出しは一切しない」
「では。雪夜さまが勝った場合には?」
若王子勝彦は深くため息をついた。しばらく黙りこみ、顔を上げたときにはいつもの彼に戻っている。勝利者の顔、負け知らずの辣腕経営者の気概に満ちた表情に。
「雪夜自身に決めさせる。なんでも好きな勝利条件をつけろ」
ただし、負ければ店を畳み、今度こそ若王子家へ戻ること。それが若王子勝彦から言い渡された料理大会の概要だった。
****
「深味(ふかみ)さま、こちらを」
「料理大会?」
厨房で、俺は儀防さんから見せられたチラシに気をとられた。俺の両手には、完成したばかりの料理皿。これからお客さまへお出しする、雪夜作の見事なひと皿だ。
「さようでございます。勝彦さまが、雪夜さまと勝負を、と仰せでした」
「勝負って……あ、マエストロ=トゥーリ!?」
チラシの顔写真に気をとられ、俺は片方の皿を落としてしまった。耳障りな音に、調理中の雪夜が振り返る。その顔は無表情でつめたい。
「深味くん」
「す、すみません」
「もう何皿目?」
「っとぉ」
(たしか五皿目……)
先のブログ効果で、ランチの時間に店は繁盛していた。
儀防さんと俺とで接客と配膳をし、雪夜の驚異的な手さばきでなんとか来客スピードに追いついている。キャパシティ的にはかなりきつい。
俺はあまり要領がよくない。はっきり言うとそそっかしい。今日ほどそれを自覚したことはない。洗った食器や、できたばかりの皿を落としては、雪夜から凍てつく目で見られていた。
「深味くん」
にっこりと、熱々のフライパンを手にした雪夜が不自然に笑う。こわい。
儀防さんがさっと間に立った。
「私が悪うございました」
「べつに怒ってないよ。深味くん、これ味見」
「っ、はい!」
「儀防さん。それ片づけてください」
雪夜が「それ」と示したのが、俺が落とした皿なのか、儀防さんが持ってきた料理大会のチラシだったのかは分からない。たぶん両方だろう。若王子勝彦の名が出ただけで、雪夜は眉をひそめている。
けれど、儀防さんは静かに料理大会のチラシを調理台の上へ置いた。雪夜が手にとりやすい場所へ、わざわざ見えるようにして。
「味見、オッケーです」
「私が運びましょう」
儀防さんが素早くソテーの皿を俺から遠ざけ、運んでいく。俺は落としてしまった皿の処理にかかっていた。
「深味君、慌てると駄目だね。ゆっくりでいいから」
「すいません……」
こっそり見上げると、雪夜は調理の手を止め、チラシの文面を追っていた。
チラシには、マエストロ=トゥーリが腕組みしている写真、大会がテレビ協賛の企画であること、日時、それに大会のテーマが記されていた。テーマはすこし変わっていて、たしか――『記憶』と。
「兄さんのことだ。きっと負けたら、僕に店を畳めって言うんだろ」
「参加しないんですか?」
「どうかな。暇があるかも、わからないし」
鍋で野菜を炒めつつ、雪夜はそれでも遠く考えこんでいた。夢見るような瞳の奥で、雪夜はおそらく大会について思いを馳せていた。
ランチも終わりかけの時間に、品のよい女性が店にやってきた。
歳は四十くらい。女政治家のような、派手なピンクのジャケットを着ている。ひと目でアクが強いと伝わる装いだった。
「失礼、まだ間にあうかしら?」
「もちろんでございます。どうぞ、奥のお席へ」
儀防さんが案内した女性を見て、俺は厨房の入り口で飛び上がった。
「香月、レイニー……!?」
料理界で名の知らぬ者のない、有名なグルメ評論家だ。
彼女が否定した店はことごとく潰される。良い評価を得られれば、ミシュランの星がもらえるという噂もある――リストランテにとって最も恐ろしい評論家。
動転し、皿の上でエッグパイが転がり落ちた。卵形のパイはバランスをとるのが難しい。雪夜から「運ぶときにはくれぐれも」と注意されていたのに。
「あっ、あー……!?」
異変を察した儀防さんがすぐ駆けつけてきた。
「深味さん、とりあえず中へ」
「どっ、どうしましょう、これ」
本日のランチに供されるデザートのエッグパイ。ジェンガに似た飴細工の上に、卵型のパイがちょこんと置かれていた――それが、皿の上でころげ落ち、割れてしまった。俺が手にしていた皿のふたつとも、卵型のパイはぐしゃりと潰れている。
床へ落ちたわけではない。皿の上にあるのだから、まかないとしては問題ない。けれど、これをお客様へ出すわけにはいかない。見事に形を崩し、今まさに壊れましたといわんばかりのパイを出すのは。
「どうしたの?」
雪夜がパイを見て束の間、沈黙する。
「す、すみません。また――」
「困ったな。もう材料がないんだ」
「えっ」
血の気が引く。これが最後のエッグパイだったのだ。
「私がお客さまに、メニューの変更をお願いして参ります」
儀防さんがお客様ふたりにお願いに行ってくれた。
店内の客足は落ちつき、残るはエッグパイを出す予定だったふたり。それに、香月レイニーと、男女のお客様がひと組だけだった。香月レイニーと男女のお客様はまだ注文を受けていない。多少変更があっても大丈夫だ。
「心配いらないよ。儀防さんがうまくおさめてくれる」
「っ、すいません」
「いいよ。でも次にやったら」
にっこり笑う雪夜の目は笑っていなかった。「次やったら殺す」と、心の声が聞こえた。
「今日はもう完成した皿には近づかないで」
「はい……」
「慌てないでって言ったのに。何をそんなに驚いてたの?」
「そ、そう! たった今、香月レイニーが来たんです!」
「誰それ」
俺は雪夜を厨房の丸窓まで引っ張っていった。けばけばしいピンクの服を着た女性を示す。儀防さんがなぜかそちらへ行き、難しい顔で香月と話をしていた。
「あの人、有名なグルメ評論家ですよ。料理をこき下ろされた店は潰れるって噂の」
「へぇ?」
「知らないんですか?」
「知らない。僕、あんまりテレビ見ないし」
香月レイニーと会話を終え、儀防さんが厨房へ戻ってきた。難しい表情だ。
「困ったことになりました。あちらのお客様、有名なグルメ評論家だそうですが、デザートをご所望です」
「……というと?」
「エッグパイがどうしても食べたいと。それだけがほしいと仰って」
俺たちは調理台の上を見つめた。
無惨にも皿の上で潰れたエッグパイ。これを修復することは不可能だ。
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