フルーツシェフと記憶の皿

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 ****  香月レイニーが雪夜の店にやって来たのは、ほんの気まぐれだった。かの有名なリストランテ・ミラベルで食事し、複雑な感情を味わったからだ。  ミラベルの料理はどれも噂にたがわぬ一級品だ。味も文句のつけようがない。  マエストロ=トゥーリの片鱗を感じるコース構成も良かったし、使われている食材もすばらしかった。  けれど何かが足りない、そう思ってしまった。  香月自身の肥えた舌は十分に満たすことができた。新進気鋭のシェフ、海堂瞬の料理はいずれも斬新で、盛りつけや意匠の巧みさには良い意味で驚かされた。それでも何かが足りない――それが何なのかわからない。  評論家として、料理を正確に判断できなくなれば終わりだ。なんとなくそのまま帰る気になれず、ふと思い出した。ミラベルの裏手にあるという、話題の小さなレストランを。たしか有名ブロガーのメイヨウが、「高級リストランテより断然いい」と絶賛していた。無名の店だし、さほどの期待もなかった。    それでもランチの時間の終わりに、すべりこむようにして席についたとき、その店の空気を嗅いで直観した。ここは当たりの店だと。  店内には自分を除けば二組しか客がいなかった。  自分と同時に店へ入った男女の客、それに、左手の女性客ふたりはデザートを待っている。  香月自身も軽いデザートを頼もうかとメニューを見た――そのとき、給仕中の青年が悲痛な声を出した。 「あっ、あー……!?」  繊細な盛りつけの卵型のデザートが、白い皿の上で潰れていた。どうやら運ぶ途中でバランスを崩し、壊してしまったらしい。蒼白な表情で固まる青年を、すぐにベテランとおぼしき禿頭のウェイターが、厨房に引きずっていく。  しばらくすると、デザートが運ばれるはずだった女性客ふたりの元へ、禿頭のウェイターが向かった。神妙に謝る声が聞こえてくる。 「申し訳ございません。デザートの内容を変更してもよろしいでしょうか? お詫びと言っては何ですが、シェフ特製プティ・フールをサービスさせて頂きます」  デザートの材料が切れたらしい。女性客ふたりは笑顔で了承したが、香月レイニーはそのとき閃いた。 「私も注文、いいかしら?」 「はい」  禿頭のウェイターに、ランチはいいからメニューにあるデザートだけを持ってくるように伝えた。案の定、ウェイターの彼は渋い顔をする。 「私、どうしてもこのメニューの『湖池(みずち)レモン、エッグパイのマリアージュ』が食べたいのよ。プティ・フールなんて要らないから。ね、せっかくここに来られたのだし。ぜひ頂きたいの。なんとかならないかしら?」  客にこうまで頼まれ、即断できるウェイターはそういない。  かすかに眉を寄せた禿頭のウェイターは、それでもほんのりと微笑みを浮かべた。内心どうあれ、動揺をひた隠しにしているようだ。  厨房へ向かうウェイターの姿を、ほくそ笑み香月は見送った。今ごろ難儀な客がやって来たと、シェフに泣きついているのだろう。さて、どう出るか。 シェフ自ら謝罪にくるか、それとも別のメニューで対応しようとするか。 どんな選択肢をとられても、香月は受け入れる気でいる。そもそも無理を言っているのは香月だ。店側がどう対応するかを検分したい。これはただのお遊びである。  対応を待つ間、手持ち無沙汰であたりを観察していた。目の前の男女の客。その片割れの顔に、香月は目を細める。 「ん?」  見覚えがある。おや? おやおや、あれは。  談笑している男が、折よくうす茶色のサングラスを外す。  瀬津実(せつみ)たつや。有名人だ。  大手事務所に属する、今一番勢いのある若手俳優。  ずいぶんと砕けた調子で、長髪の女性と談笑している。彼女だろうか。これはちょっとしたスキャンダルだ。  都心から離れた郊外の店だし、他に客も少ないからと油断したのかもしれない。香月にスキャンダルを拡散するつもりはないが、不用意な行動だといえる。  香月は素知らぬ顔で、もれ聞こえてくる話に耳を傾けていた。瀬津実たつやの凛とした美声が響いてくる。 「知ってるか? 『美食は剣より人を殺す』――これはフランスの格言で、フランス貴族は美食のために大勢を殺したって意味なんだぜ。ほら、マリー・アントワネットが言ったろ? パンがないならお菓子を食えって」  売れっ子俳優、瀬津実(せつみ)たつやが得意げに間違った蘊蓄を披露した。  硬派なイメージの瀬津実のファンだった香月は、こっそり失望していた。すると、瀬津実の向かいに座る女性が緩やかに話した。 「それは『食べ過ぎに注意しろ』ってことわざなの」 「そっかぁ? でもフランス人ってたくさん人殺してそうだからさぁ」 「適当ね。でも、一理あるかも」  瀬津実たつやは鼻の下を伸ばしている。  向かいに座る女性の顔は、香月からは見えない。ただ長い栗色の髪と、クリーム色のニットが見えるだけだ。きっと品のよい美人なのだろう。彼女の声は心地よく笑み、柔らかい。 「イギリスにはこんなことわざもあるわよ。『食べるために生きるな、生くために食べよ』。つまり食事とは、ただのカロリー摂取にとどまらない。食べるという行為そのものが、楽しい。美食を楽しむため、生きるべしって」 「ふん?」 「不思議な行為よね。私たちが食べているのは、なにかの死骸だもの。命を失ったものたちの末路なのに。それを得られる瞬間がこんなにも悦ばしいなんて。植物も美味しいけれど、動物もおいしい。それも個体が大きくなるほど、知能の高い動物のほうが素敵な味をしている。これって不思議なことじゃない?」 「お前、普段そんなこと考えながら食ってんの?」  瀬津実たつやはケラケラ笑った。香月は瞬間的に違和感をおぼえた。なぜだろう、この会話にひやりとしたものを感じるのは――。 「そう考えると、瀬津実くんの言うこともあながち間違いじゃないかも」  美食は剣より人を殺す。その格言を上品に口にのせた彼女が、文字通りの意味でそれを使っている気がしたのだ。けれどなんということもない、ただの会話にすぎない――……。  香月の興味は、禿頭のウェイターへ引き戻された。彼は香月のためにデザートをもってきた。 「お待たせしました。シェフ特製、『湖池レモン、エッグパイのマリアージュ』です」  堂々と差し出された皿に香月は息をのむ。そこには――……。  ****  数分前、深味が厨房で無惨に潰れたレモンパイを眺めていたとき、 「深味くん、そこどいて」  雪夜がレモンソースの入った手鍋を持ちやってきた。  白い丸皿をふたつ並べ、無言でそれを睨みつけている。 「うわっ」  べしゃりと、雪夜はお玉ですくったソースを、調理台の上へぶちまけた。クリーム色のソースが皿と調理台に荒々しく飛び散る。  前衛的な絵画のように。白皿に、カナリアンイエローのレモンソースが散らばった。その余波ですぐ真横にいた深味にも大量のソースがかかったが、雪夜は気にもとめなかった。  雪夜は潰れたレモンパイを慎重にすくい上げると、レモンソースをぶちまけた皿へそっと置いた。今まさにレモンパイが潰され、中からソースが飛び散ったように。  あとはつけ合わせのセルフィーユやベリーを添えていくだけだ。  雪夜が行ったのは逆転の発想だった。卵が先か鶏が先か。最初からデザートのデザインをこういうものであったと、思わせられればいいのである。  レモンパイが卵型をしていたことも幸いした。見事に盛られたひと皿は、あるべくしてそうあったかのように美しい。 「なるほど。お見事です。それでは」  儀防さんが優美な動作で出来上がった皿を運んでいく。  深味は店の様子を厨房の丸窓から窺っていた。横に雪夜も来て、儀防さんと香月のやり取りを眺めている。 「……笑ってますね」 「うん。喜んでくれたみたいだ」 「ていうか、喜んでるっていうよりも」  爆笑しているように見えるのだが。  香月は腹を抱えて目元の涙を拭い笑っている。ひと口、スプーンでパイをすくい食べ、香月はにっこりと笑顔になった。  雪夜は黒くうるむ瞳で期待に頬を上気させ、様子を窺っていた。  香月の口が「おいしい」と形づくると、雪夜はふんわり口もとを綻ばせた。心から浮かび上がった喜びの表情だ。 「さ、深味くん。まだ仕事は残ってるよ」 「はい」  忘れかけていたが、もうひと組みお客様がいらしていたのだ。ランチの時間の最後のお客様のために、料理を準備しなければ。  厨房の丸窓から外を見ると、談笑している男女の客の姿が見える。  女性は清楚な雰囲気で、長い栗色の髪に、真っ赤なルージュがよく似合っている。  何の話をしているのか知らないが、真向かいに座る男性を見る瞳はやわらかく、表情はたおやかだった。美術品を愛おしげに眺めているようにも見える。 「綺麗な人だなー」  声が聞こえたわけでもなかろうが、彼女がこちらを向いた。ふんわりと笑まれた瞬間、雪夜の怒号が飛んだ。 「深味くん!」 「あっ、はい!」  味見、と皿を差し出して、雪夜はじろりと俺を見る。 「それ以上皿には近づかないで、適度な距離をとって味だけを見るように」 「あ、……はい」  俺はできるだけ雪夜の邪魔にならぬよう、慎重に味見を繰り返した。 「おいしかった。それに面白かった。また来るわね」 「お待ちしております」  香月がご機嫌で帰った後、儀防さんと三人で厨房の片づけをしていると、残るひと組のお客様が席を立つのが見えた。 「あ、俺行きます!」  拭いていた皿を置き、厨房を出る。今日は失敗続きですでに何枚も皿を割ってしまっていた。割れ物から離れたい一心で対応に出ると、男性がカードで支払おうとしていた。断る間もなく、女性にたしなめられている。 「こういう店はカード使えないのよ」 「え、でも現金持ってねぇ」 「私が。次の機会に奢ってね」  支払いを済ませた後で、彼女は俺の白いシェフ服をじっと見つめた。 「あなたがお料理を?」 「あ、いえ。シェフは別にいるんです」 「とても美味しかった。シェフさんにすこし会えないかしら?」 「あー……いや、すいません。雪夜さんたぶん、出てこないと思います」  雪夜は人見知りだ。店に知人以外の誰かが来ているときには絶対に厨房から出てこない。雪夜は料理を食べてもらうことは好きだが、基本的に人を恐れているらしい。とくに見知らぬ人に対しては病原菌のような対応をしている。  女性は愛らしく瞬きをした。 「雪夜さんっていうの?」 「あ、はい。うちのシェフです」  我が物顔で「うちの」と言うことに照れていると、女性は「ふうん」と頷いた。 「雪夜。雪夜さん……変わった名前ね。どこかで会ったかも」 「え?」 「おい、行くぞ」  待ちくたびれた男性に連れられて、女性は「またね」と手を振ってくれた。光に蕩ける笑顔が戸外の春の陽気になんとも美しかった。   ****  五月、ゴールデンウィークも終われば、初夏の気配がみえはじめる。  雪夜はかわらず厨房にこもり、一日中料理をつくり続けていた。  ミラベルのオーナー、若王子(わかおうじ)勝彦が「必ず参加するように」と、料理大会のチラシを渡してきてから一か月。雪夜は大会に参加するつもりらしい。レストランの営業時間以外に、厨房で試作品を調理している。  チラシにあった大会まではあと二週間だ。  俺こと、味見しか任せてもらえない深味は、本日のディナーのために作業中の雪夜の手元を覗きこんだ。 「うまくないんですか?」 「ん、……方向性がね。わからなくて」  大量に並べられた見事な料理を前に、雪夜はしかめ面になっている。 俺が店で働きはじめてからひと月。その間、雪夜の調理を横で見させてもらったが、見事なものだった。  焼き、味つけ、すべての工程の加減を見極め、隙のない完璧な手さばきで盛りつける。味つけや料理の手順、レシピは雪夜に教えてもらえる機会があったが、他の技術はそう簡単に真似できない。  雪夜が味見なしですばらしい料理を作れるのは、熟練の技と天性の才によるところが大きい。焼き加減を音と触感で判断する。芸術的センスをいかんなく発揮し、彩り豊かに盛りつける。出来上がった料理はとても美味しい。なのに、これ以上何が不満なのだろう。 「深味くん。おいしい料理って何かな」 「雪夜さんの料理は十分に美味しいですよ」 「そうじゃなくて。たとえば、君がいま心から食べたい料理は? おいしいということ以外でもいいんだけど」 「それは……」  マエストロ=トゥーリの料理だ。俺にとっての「おいしい」は、すべてそこを起点にしている。  俺は雪夜にそれがどんな料理であったか、話してきかせた。味、触感、驚きと固定観念をくつがえす発想の斬新さ。雪夜ならよくわかっているだろうが、俺の体感としての話だ。 「あのときの、テーブルクロスの色まで憶えてますよ。冷たいフォークの感触も、靴底と床のこすれ合う固い音も――それくらい心に残りました」 「心に残る?」  逡巡した雪夜は、やがて目を瞠る。 「そうか……!」  猛烈な勢いでスケッチブックにアイデアを描きはじめた。唖然と見ていると、しきりに頷く雪夜は繰り返した。 「記憶、記憶だよ! 食べた人の記憶を刺激する料理をつくればいい、そうすれば喜んでもらえる」 「はぁ」  天才の考えることはわからない。今の会話で何をどうすればそんな発想になるのか。  前菜に使うサラダ菜の準備を終えて、魚の下処理をはじめたとき、儀防さんが大きな籐籠(とうかご)を持ち厨房に現れた。 「失礼いたします。雪夜さま、お食事をお持ちしました」  籐籠にはありとあらゆるフルーツが入っていた。林檎、レモン、蜜柑、イチゴ、ブドウに洋梨。雪夜は無造作にブドウをつまんで、そのまま口へ運んだ。 「あの、食事ってこれだけですか?」 「雪夜さまは、フルーツや種子類以外のものを食されません。カロリーは計算済みですし、その他必要な栄養はタブレットで補われます」  雪夜は黙々とフルーツをつまみ、新作メニューのスケッチに没頭している。 「でもせっかくだし。皿に盛りつけでもした方がいいんじゃ」  味気なくつまむより、盛りつけてソースでも添えたほうが美味しく感じるはずだ。とっさに動こうとしたのを、儀防さんが視線で制した。こっそりそばに寄ってきて、小声で教えてくれた。 「必要ないかと。雪夜さまは、皿に盛りつけられた料理をいっさい召し上がりませんので」 「――そもそも、なんでフルーツしか食べないんですか?」  雪夜がフルータリアンだという話は聞いている。だから料理を味見する人が必要で、俺がそのために雇われた。  儀防さんはちらりと雪夜を見やった。考えに没頭していて、こちらの話は一切聞こえていなさそうだ。儀防さんは静かに俺を店へと連れていった。十分に聞こえないところまで来て、それでも儀防さんはさらに声を落とした。 「昔はフルーツ以外のものも食されていました」  フルータリアンは選択的になるものだ。宗教的理由や体質的理由、思想・信条などから、個人が生きる過程で選び取るライフスタイルの一環である。雪夜も例外ではなく、生まれ落ちたときよりフルーツしか食べないというわけではなかった。 「雪夜さまがああなられたのは、五歳のときです。実のご両親を亡くされた衝撃が非常に大きかったのでしょう」  雪夜が従兄である若王子勝彦の庇護下に移ったのは、幼くして両親を亡くしたからだ。しかしそれが、フルータリアンになる話とどう繋がるのか。 「事故やご病気ではなく、殺人事件でした」 「え、なにが」 「雪夜さまのご両親は殺されたのです」  二十年以上も前のことだという。連続殺人鬼が世を騒がせたことがあった。 「当時、犯人はその残虐な手口から薔薇鬼(ローズ・ディッシュ)と渾名されておりました」  凶悪殺人犯・薔薇鬼。  俺はすでに嫌な予感をおぼえたが、儀防さんが教えてくれたのは予想を上回る話だった。 「犯人は、有名人や一般人を殺害し、犠牲者は数十名にも及びました。しかしなにより当時のマスコミを騒がせたのは、かの殺人鬼の特殊嗜好、その凶悪な手口にございました」  殺人犯・薔薇鬼は遺体を解体し、料理のように皿へ盛りつけて、それを食したという。遺体が見つからないため手がかりが少なく、捜査は当時難航した。  あまりの話に固まっていると、儀防さんは続きを口ごもった。 「申し訳ございません、このような話を」 「いえ。いいんです、続けてください」  ここで話を止められても困る。そもそも話を振ったのは俺だ。儀防さんは一拍間をおき、躊躇いがちに話してくれた。 「雪夜さまのご両親は、――殺害されました。殺害場所はご自宅のリビングだったそうです。雪夜さまは、それを一部始終ご覧になっていました」  リビングのクローゼットの中で。  両親に隠れて遊んでいた雪夜は、凶行のすべてを目撃した。  自分の両親が殺され解体され、そして素材として調理されるさまを――。 「う」  思わずよろついた俺を、儀防さんがそっと店の椅子に座らせてくれる。 「申し訳ございません」 「大丈夫、大丈夫です。けど」  俺はおぞましい考えを締め出そうとした。凶行がどのように行われて、幼い雪夜がどのような思いでそれを見たか。 「よく……それで、シェフになれましたね」  言ってから後悔した。なにかのはずみで俺自身、調理中に嫌な思いをしそうだ。 「マエストロ=トゥーリのおかげです。あの方は、雪夜さまに料理がおそろしくないと教えてくださいました」  若王子家に引き取られた雪夜はしばらく、なにも口にできない状態だったという。  勝彦はそれを案じ、有名なマエストロ=トゥーリをシェフとして呼び寄せた。  この上なく美味しいものであれば食べられるのではという計らいだったが、雪夜は皿に盛られたものに手をつけようとしなかった。当然だ。自らの両親が殺され、皿に盛られたところを目にすればトラウマにもなる。料理自体に恐怖心があったのだろう。  マエストロ=トゥーリは、雪夜自身に調理を学ばせた。  動物でなく植物やフルーツに触れさせた。包丁を使う必要のない簡単な料理から練習させた。皿に盛りつけず、清潔な白いテーブルクロスの上に料理をじか置きにさせたそうだ。好きなようにソースや果物を配し、絵を描(えが)くように料理に接することで、雪夜自身の内面の傷を癒すセラピー代わりにした。 「雪夜さまの心身が回復されたのは、ひとえにマエストロ=トゥーリと、勝彦さまのご尽力が大きいでしょう」  恐怖心を拭うには、雪夜の調理したものを食べる人間も大切だった。  雪夜が信頼をよせる人物で、やさしく包みこんでくれる度量の広さをもつ人間が。  つくられた料理が万全の形で受け入れられることで、トラウマが消えていくだろうとマエストロ=トゥーリは考えていた。 「勝彦さまは、雪夜さまのつくられたものをすべておいしいと言ってお召し上がりになりました。どれほど拙い調理であっても、けしてお口に合わないものだったとしてもです」  そうすることで、雪夜の調理への恐怖心は薄れゆき、代わりに作ることに喜びを見出せた。料理をつくれば、若王子勝彦が「おいしい」と笑い、褒めてくれる――それが雪夜の生きる糧となったのだ。 「しかし、雪夜さまは料理をつくることはできても、いまだに皿に盛られたものを召し上がることができません。本当はもっと、滋養のあるものをとって頂きたいのですが」  マエストロ=トゥーリは料理の楽しさを教えたが、雪夜の食べることへの恐怖心を消すことはできなかった。調理された何かの死骸を食べること――すべからく人が無意識にできる行いが、雪夜には莫大な苦痛となってしまう。  そこで、マエストロ=トゥーリは幼い雪夜を果樹園へ連れていった。地面に落ちたフルーツのことを教えるために。誰が殺したものでもなく、引力で地へ落ちる自然の恵み。以来、雪夜はフルーツを口にできるようになった。果物と、わずかばかりの種子のみを食すフルータリアンとして、今日まで生き延びてきた。 「マエストロ=トゥーリがいなければ、雪夜さまはほどなく落命されていたでしょう。おそばにいた勝彦さまの心労は当時並々ならず、夜も眠れぬほどでした。勝彦さまはありとあらゆる手段を使い、雪夜さまを守ると決意されたのです」  だから若王子勝彦は、あれほどに過保護なのかもしれない。今は仲たがいしているが、本来とても仲のよい兄弟だったに違いない。 「じゃあ、料理大会の話もひょっとして」 「はい。雪夜さまに店を諦めさせ、安全なご実家に連れ戻すための方策です。勝彦さまには財力がございます。雪夜さまが働かれる必要は、本来ならございません。料理が作りたいならご実家ですればよいと、勝彦さまは考えられています」 「はぁー」  なんともスケールのある話だ。突飛過ぎて理解が追いつかない。  間抜けた声をどうっとったのか、儀防さんは重々しく頷く。 「もちろん、成人した男子に対しいささか過保護だとは承知しております。けれど、勝彦さまのご心配もあながち杞憂ではないのです。深味さまにお話したのも、それを知っておいて頂きたかったからです」  フルーツばかりを食す雪夜は、貧弱で病気にかかりやすい。たしかに、いつかある日突然倒れるかもしれない。  儀防さんは笑みを消し、声をひそめた。 「まだ捕まっておりません」  何が、と聞きかけて息をのむ。 「雪夜さまのご両親を殺した犯人は、いまだ捕まっておりません。そして厄介なことに、どうやらその足跡は雪夜さまを追っているようなのです」  殺害現場を目撃してなお生き延びた少年。犯人の見目形を知る雪夜は、常に狙われているのだと。
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