ひと夏の幕開け

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 眠り込んでしまったようだった。大学の最寄駅の一駅手前辺りまで、電車はもう来ていた。スマートフォンを確認すると、16時過ぎだった。ユナからの返事はない。リクヤさんからは今日夜飲み行くっしょ、と来ていたが、呆れて返す気にもならない。今日はさすがに寝かせてくれ。  学校は予想よりも多くの人がいた。とりあえずパソコンが多く置いてある図書館に向かう。図書館の入り口で、学生証を出そうと鞄を探っていると、 「あれ〜、はるとさん?」 「おお、ユナお疲れ」 後輩のユナが、陽人の知らない女子達と図書館から出てくるところだった。うわ、偶然とか嬉しい。いや、俺、この間会った時と同じ服だ、最悪。 「この間は楽しかったです。ありがとうございました」 ユナはちらっと友人達の方を見ながら、陽人に話しかける。ユナに話しかけられるのは正直嬉しい。が、こんな偶然今でなくても。思わず陽人は時間が気になって、スマートフォンを見てしまう。 「あれ、もしかして、はるとさん、レポート今から?」 「あと印刷するだけなんだけどね。まじぎりぎり極めたわ」 「ほんとはるとさん面白すぎですよ。今、プリンター混んでたから急いだほうがいいですよ」 まじか、ありがとう、と返しながら、俺はずっと急いでたけどねと思ってしまう。 「レポート、頑張ってくださいね。じゃあ、また、来週、合宿楽しみです」 じゃあね、と手を振りながら、女の子達を見送る。1人女の子がユナを小突いているのを見て、ああ、あれ絶対俺の話してるなと思う。ああ、せっかくユナと話せたのに、ろくな返事もできなかったと凹む。  いや、それよりもプリンター混んでたって言ってたよな。陽人は急いで中に入り、パソコンが置いてあるフロアへ行く。すると、陽人にとって絶望の光景が広がっていた。  100台はあるであろうパソコンの前には、それぞれ人が座っている上に、プリンター5台全ての前には15人程の列ができていた。うわ、締め切りぎりぎりでこんなに人いるのかよ。陽人は自分のことを棚に上げて、引いた。だめもとで図書館にあるパソコンの貸し出しカウンターをちらっと見るも、全台貸し出し中の文字が。  図書館はだめそうだ。そうだ、2号館ならパソコン空いているかも、と考え、足を向ける。2号館は、主にパソコン授業を行う棟で、ほとんどの教室にパソコンが並ぶ。  2号館前は、図書館前に比べると人が少ないように見えた。これはもしかして穴場だったかもしれない。2階から5階までがパソコンの置いてある教室なので、とりあえず階段で2階に上がる。すると、全ての教室の前に「調整中」の張り紙がしてあった。希望を捨てずに3階へ上がるも、同じ張り紙が一目でわかるように貼られている。なんで今調整するんだ、明日じゃだめなのか。結局念の為5階まで階段を昇るも何も進展なく、陽人はさすがに疲れてエレベーターで1階まで降りる。すると、エレベーターホールの横に、2号館の全てのパソコンの使用状況がわかる液晶が備え付けてあった。最初からこれを見ていれば体力も時間も浪費せず済んだのに。  時刻は16時30分。あと30分。じわじわと迫る期限に、焦りがイラつきに変わる。あと印刷するだけなのに。とりあえず可能性の高い図書館前に戻る。図書館。そういえば、陽人はあまり使わないが、とりあえず入れてある学校のアプリで、図書館のパソコンの使用状況を見れたはず。よく思い出した。図書館に向かいながら、アプリを起動させると、開いたページは、真っ赤だった。つまり、空きはない。  もうだめかもしれない。あと30分を切った。それなのにもう手はない。家で印刷できていれば、こんなことにはならなかったのに。図書館前のベンチに座り、真っ赤なページを見ているのも辛いので閉じる。無意識にSNSを開くも、友人達がそれぞれの夏休みを迎えているのを見るのが耐え難い。周りの人の声が耳に入るのも、陽人のイライラを加速させる。  開きっ放しだったSNSに、新しい投稿が表示される。見覚えのある図書館の写真に、「おれにも夏休みが来たー!」と添えられている。サークルの同期のカズキの投稿だ。思わず顔を上げて辺りを見渡すと、図書館の入り口前で、今まさに投稿したという感じのカズキの姿があった。カズキが手に持っているものを見て、慌てて、 「おい、カズキ!」 と呼びかける。 「ハルトじゃん。お疲れ。何やってんの?」 「お前まじいいところに来た!それ貸してくれ!」 陽人はカズキが手に持っている、それ、学校の貸し出し用パソコンを指差した。 「パソコンなくて困ってたんだよ。助けてくれ」 急死に一生とはこのこと。これで印刷できる。 「まじかよ。おれは今レポート出してきて、まあこれ返しに来たんだけどさ。これ充電なくなっちゃったんよ」 一瞬にして光が消えた。目に見えて落ち込む陽人に、いやすまん、とカズキは律儀に謝る。 「…どこもパソコン空いてなくて。あと印刷するだけなのにな。もう絶望しかねえわ、まじで」 陽人は笑ってみせようとして、失敗した。 「え、あと印刷だけなん?それなら別に学校じゃなくてもいいじゃん」 「いや、そうだけど。家のプリンターがだめで、いやもうこの時間ならどっちにしろだめだけど」 軽く言うカズキに、イライラしながら説明する。 「コンビニでも印刷はできるじゃん。まあ、金はかかるけど」 「まじか!」 その発想はなかった。学校に固執しすぎていた。カズキの案で、思考も心も急に晴れ渡るようだった。 「ありがとうカズキ!俺の6単位の救世主だぜ!まじ今度何か奢らせろ!」 おう、というカズキの返事を聞くか聞かないかのうちに、陽人は背を向けて歩き出した。1番近くのコンビニまで、5分程。スマートフォンを確認すると、16時39分。あと20分。17時までに、提出場所である講堂に入れば、もしくは列に並べば良いのだ。いける。  早歩き気味でコンビニに向かい、一直線にコピー機に向かう。お金を入れてタッチパネルを操作し、USBを挿す。サブカルチャー論、印刷。文学講義114、印刷。人文学入門、印刷。全てのレポートを印刷し終えた。順調に。あとは学校に帰るだけだ。  往復の早歩きが功を奏し、講堂前には16時50分に着いた。レポート提出の生徒の列に並び、長い1日も漸く終わろうとしている。並びながらスマートフォンを見ると、リクヤさんから、今日の飲み美咲ちゃんも来るって、と更にメッセージが届いていた。ミサキちゃんが来るのはアツいが、正直今は一刻も早く帰りたい気分だった。サークルのグループトークでは、合宿のタイムテーブルが共有されたところだった。毎年、海に花火に、最高の夏の始まりとなる。陽人は思い出して、8月頭の天気予報を確認する。  列は進み、途中でそれぞれのレポートに表紙を付けてホチキスで閉じる。後はもう、係の人に提出するだけだ。  時刻は17時5分。次の方どうぞ、と呼ばれ、陽人はレポート3部を渡した。 「3部でお間違いないですか?学籍番号、氏名、それぞれお間違いはないですか?」 「はい、間違いありません」 「それでは、金曜3時限目、京田先生、文学講義114。木曜4時限目、堺先生、サブカルチャー論。火曜2時限目、上田先生、人文学入門。それぞれ間違いはないですね?」 全学部共通授業、学部の選択授業、学部の必修授業、間違いない。 「念の為、確認ですが、この上田先生の人文学入門は、紙媒体提出と、web上のデータ提出のセットとシラバスに記載されています。データの提出はお済みですか?」  え?  え?  データ?きいてないなにそれしらない。 「え…っと……。データの締め切りって、いつですかねえ?」 「紙媒体のレポート試験と同じ、本日29日午後5時までと記載されています」 「ま、…まじですか…。はい、わかりました、大丈夫です…」 何も大丈夫ではないが。知らなかったので、もちろん出していない。 「あら、出してないの。先生に確認してみな!一応ね。せっかく頑張って書いたんだから。ね!もうちょっと早く気付いてたらねえ。他の2部は間違いなく受け取りましたよ」 係員も、あまりの陽人の気の抜け方に、事務口調を崩す。 「わかりました…。お願いします、はい」  提出できなかった1部を手に、陽人は講堂を後にする。  シラバスをきちんと読んでいなかったのが悔やまれる。いや、それでも、係の人が言っていたように、もう少し早く提出に来ていたら、間に合ったかもしれない。17時から過ぎてしまった5分が悔やまれる。  いや、悪いのは5分だけでない。もっと早くコンビニで印刷できることに気付いていたら。土曜ダイヤを調べて、急行電車に乗れていたら。プリンターのインク切れに気付いていたら。もっと早く起きていたら。昨日飲みに行かなければ。バイトを入れなければ。  いや、試験科目が発表されたのは、もう3週間も前のことである。陽人が無駄にしたのはたったの5分なんかではない。その3週間、無駄に無駄を重ねて、ずるずると先延ばしにした結果がこれなのだ。  必修科目を落としてしまったかもしれない。いや、でも担当の先生に掛け合えば、もしかしたら。今から、は遅いからまた今度にしよう。  陽人はスマートフォンを取り出し、例の先輩に漸く返事を返した。 『もち行くっす!』
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