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プロローグ
「ごめんね、アンリ……。もう無理なんだ……」
「こんなことやめてよ……。ねえ、こっちに来て」
学校の屋上に制服姿の少女が二人。
転落防止柵を乗り越え、一人は縁ぎりぎりのところに立ち、もう一人は彼女がこれからやることを制止しようとしている。
「もう死ぬしかないのよ……」
「そんなことない! 私がいるでしょ、頼ってよ! 何があったの? 話して。そうすれば力になれる」
「無理だよ。あたしは救われない……」
これから命を絶とうとする少女の目から、涙がこぼれる。
一歩下がれば床がない。真っ逆さまに地上に落ちてしまう。
アンリは少女との距離を保って、懸命に呼びかける。
「お母さんの再婚の話でしょ? アスカにはアスカの人生があるんだから、高校卒業して家を出ればいいよ」
「人生なんか、もう終わってるのよ。失ってしまったの。……あいつに犯され、あたしは……」
アンリは言葉に詰まる。
アスカが家庭問題で苦労していたのは聞いていた。アスカは家庭内暴力で父親が出て行ったため、母子家庭で育つ。貧しく慎ましい生活だったが幸せそうにしていた。母の再婚相手ができたときも、苦労した母が少しでも楽になるならばと喜んでいたのだ。
しかし、再婚相手はろくな人間ではなかったようだった。
アンリは知らされた事実を受け止めきれない。急転直下の出来事に、アスカがどれだけ心を乱されたか、想像にたやすい。女子高生が義理の父に犯されるなど、この世にあっていいことではない。
「……で、でも、やり直せるよ! そいつを訴えてやろう! 刑務所にいれて、嫌なこと全部忘れて、もう一度スタートすればいい!」
アスカを死なせたくない。それはアンリな素直な気持ちだった。
「アンリには分からないよ……。アンリはすばらしい両親がいるし、頭も運動神経もいいんだもん。でも、あたしには何もないんだ……。やり直したところで、親はクズだし、お金もないし、大学にも行けない。ただ汚れちゃってる……。あたしは神様に救ってもらうしかないんだよ。こんな体捨てて……」
「アスカ……」
神様に救ってもらう。それは命を投げ出して天国に行くことだ。
そんなことでしか救われないなんて悲しすぎる。本来ならば、子供が困難にあるとき助けるのは親だ。しかし、親が加害者側に回る場合、誰が子供を助けてくれるのだろう。
アスカはそれをしてくれるのは神だと言う。
「……皮肉だよね。名前は明日香なのに、明日すらないんだから……」
「そんなこと言わないで。私たちは今、生きてるんだよ。死んだってどうしようもないじゃない。嫌な奴に復讐もできないし、楽しいこともできなくなっちゃう。まずは生きなきゃ。確かに、私たちまだ子供だから、自立できないし、親をどうすることもできない。だから今はなんとか生き抜いて、アスカを苦しめる奴を懲らしめてやろうよ! 誰も助けてくれないなら、自分の人生は自分で勝ち取るしかないんだ! ねえ、アスカ。私が力になるから。私と一緒に生きよう!」
そう言ってアンリは、アスカに手を伸ばす。
さあ、こっちに来て。つかまって。
「力って何? あたしを救ってくれるの?」
「なんでも聞くよ。アスカが困っているときはいつでも助ける」
アスカは失望したように首を振る。
「そんなの、力って言わないよ。アンリはあたしの両親を取り替えてくれないし、あたしをキレイにはしてくれない」
アンリは何も返せなかった。
アスカの言う通りだ。自分は神様ではない。魔法や神通力で、人を改心させたり、時間を戻したりできないのだ。
(なんて無力なの……)
アンリは歯がみする。
ただの友達に過ぎず、ただの女子高生に過ぎない自分にできることはほとんどないのだ。せめて自分が大人であれば、自分にお金があれば、もう少しなんとかなるのかもしれない。
「それにね。アンリの言う復讐、もうやっちゃったの」
「え……?」
「殺しちゃった。寝ているときに包丁で」
「な、なんでそんなこと……」
包丁で誰に何をしたかなんて、聞かなくても分かる。
「スッキリしたよ。これまでの恨みを晴らせたような感じがして。でもね、快感は一瞬だけだったよ。……すぐ分かったんだ。あたしは、人としてやっちゃいけないことしたんだって……。復讐なんてほんと意味ないんだね……」
アスカは殺人を犯していた。登校前、母親の再婚相手である男性と言い争いになり、包丁でめった刺しにした。母は夜の仕事から帰ってきていなかった。男性の遺体は自宅にあり、まだ誰にも発見されていない。
「どう? あたしってとんでもなく汚れてるでしょ?」
アスカの自嘲しながらも、自分の罪深さに声を震わせていた。
殺人が真実だと認められるほどにリアルな言動だった。アンリは言葉を失ってしまう。
ドラマだったら、「罪を償えばいい。そしてやり直すんだ」というところだろう。しかし、どうしてアスカにそんな言葉をかけられるだろうか。それは殺人犯を諭すものだ。アスカは何も悪くない。男がそんなことをしなければ、殺すこともなかったのだ。
アスカは悪い犯罪者ではない。どうして自分の友達が罪を償うのを望んだり勧めたりするだろうか。
「助けてくれるといったよね?」
アスカの言葉に、はっとする。
「う、うん。言ったよ」
「じゃあ、一緒に死んで」
「え?」
一瞬、アスカがなんと言ったか分からなかった。いや、ちゃんと聞こえていたが、理解したくない意味だったのだ。
「なに……言ってるの……」
「あたしだって死にたくないよ……。死ぬのは怖いの。……だから一緒に死のう?」
「アスカ! それなら死ぬのやめようよ! アスカが死ぬ必要なんてない!」
「アンリ、嫌なの? あたしと死ぬのが」
死ぬのは嫌に決まっている。アンリのことは大事だし、申し訳ないが、一緒に死ぬのは承服できそうになかった。
しかし、ここで嫌だと答えれば、アスカは飛び降りてしまうだろう。アンリはなんて答えていいのか分からなかった。
「……そう。アンリもあたしを見放すのね」
「そうじゃない! そうじゃないよ! 私、アスカのことが好きだよ。すごく心配してる。生きて欲しいと思ってる! やめてよ、自殺なんて!」
アスカの顔が変わる。
アンリの心からの叫びに、アスカは心を打たれたようだった。
「……ごめん。ひどいこと言っちゃった。アンリだって人間なんだから、自分の命差し出してまで、人助けしたくないよね。アンリはいつもあたしのことを思ってくれてる。そんなアンリには感謝してるよ」
アスカは涙を袖でごしごしぬぐって、にこりとアンリに微笑んだ。
アンリはアスカが分かってくれたのだと、ほっとして胸をなで下ろす。
アスカは手のひらを差し出してくる。
「アンリ」
「アスカ!」
アンリは友達であるアスカの手を喜んで取る。
「ごめんね」
その笑顔から出たとは思えない凍り付いた声。
アスカは強引にアンリの手を引っ張った。
アンリは思わぬ出来事に反応できず、引き込まれてしまう。足は床から離れていた。そしてそのまま遠心力で放り出される。
体が宙に浮いている。足下には何もない。
アンリが投げ出された反動で、手をつないでいるアスカの体もまた飛んでいた。
「これでずっと一緒だね」
アスカは泣いていた。しかし同時に笑っていた。それは幸福そうで、ようやく苦しみから解放されたと言っている笑顔だった。
けれど、アンリは真逆だ。自殺に巻き込まれて死んでしまう。
「嫌っ! 死にたくないっ!」
体が自由落下していく。
アンリはなんとか助かろうともがくが、両手はアスカに握られているため、校舎の壁をつかむことができない。
二人は固い地面に叩きつけられた。
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