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逃亡
異世界で死ぬなら、当然魔物に殺されるものと思っていた。
しかし、思いもよらない展開となっている。アンリは武器を持った人間に襲われていた。
ドロテアが襲撃前に教えてくれたから、なんとか家から脱出できたものの、村人たちはアンリを追いかけてきた。
あちこちから、バーン!と銃声が聞こえる。暗闇での射撃のため、アンリには当たらなかったが、殺そうとする意志は明確だった。
アンリは脇目も振らず、夜道をただ走り続けた。ここの地理には詳しくないので、どこへ走っているのかは全く分からない。だが、とにかく遠くへ逃げなくてはならなかった。
ドロテアはついてこなかった。お願いすればついてきてくれたかもしれない。しかし、アンリが断った。
ドロテアは女神の接待係で、女神にできる限りの便宜を図る立場にある。その役目を優先したから、アンリに襲撃を教えてくれたのだが、ドロテアはこの村の人間である。アンリに協力したことが知れれば、ドロテアは不利な立場に置かれる。それが申し訳なかったのだ。
(なんで悪い方向にばかり進むのよ……)
息を切らしながらも走り続ける。足を止めたら、捕まり殺されてしまう。
正直、人間から攻撃を受けたのはショックだった。明らかに異形の魔物と敵対するのは仕方ないと思う。しかし、そういった魔物がいるのに、手を取り合わなければいけない人はずの間が裏切ったのだ。
(勝手に女神に祭り上げて、偽物なら殺すとか、どういうこと! 身勝手すぎる! くそっ、くそっ、くそおっ!)
逃げ足には自信があった。
アンリは陸上部だったので、走るのには慣れている。舗装されていない道路を走るのは難しいが、手ぶらなので、銃を持って走っている人たちには負けはしない。
これからどうするかなんて分からなかった。逃げたところで、食べ物も武器もない。元の世界に戻る方法もなかった。いずれは人間に殺されるか、魔物に喰われる未来が待っている。
しかし今そんなことを考えても仕方ない。まずは人間から逃げ切ることが重要だ。あとのことはそのときに考えればいい。
相変わらず発砲は続いている。アンリが逃げる方向に適当に撃っているのだ。狙わないで撃った弾は、早々当たるものではない。
けれど、この世界にやはり神はいないのだろう。
流れ弾と言える銃弾が、アンリの左足を撃ち抜いた。
「あああっ!?」
これまで感じたことのない痛みに、声にならない声が上がる。
足がもつれ、アンリは地面に転がった。体中がすりむける。
足が熱い。突き刺されるような痛みが連続して襲ってくる。触るとぬめっとした感覚。血だ。
「はあはあはあ……」
ただでさえ息が切れているのに、呼吸と脈が激しくなり、たらたらと脂汗が流れる。
自分が撃たれたというのが信じられなかった。
日本人は日本にいる限り、自分が撃たれるなんて思うはずがない。それでも当たってしまったのは、ここが日本ではなく、異世界であることを明確に示している。
「当たったぞー!」
「よくやった!」
「追い詰めろー!」
村人たちの声がする。足の容態を確かめているうちに、だいぶ距離を縮められていた。
「逃げなきゃ……」
本当ならばすぐに止血して治療しなければいけない。けれど、この状況では自分の足も気遣っていられなかった。
ハンカチで患部を絞めるとアンリは立ち上がり、左足を引きずりながらも前進を始める。
足が痛い。息がつらい。肺が痛い。それでもアンリは歩き続ける。
灯りが近づいてくる。村人の持ったランプだ。
「いたぞ! あそこだ!」
「殺せ!」
距離はさらに詰まり、ついに見つかってしまった。
この状態では早く動けない。このままでは捕まってしまうだろう。
「はっはっはっはっ……」
なりふり構わず、少しでも前に進むよう体を動かす。逃げられないかもしれない、など考えても仕方ない。何があっても逃げるしかないのだ。
「あっ……」
しかし、アンリはもう逃げられないことを悟ることになる。
道がなかった。
ここは崖。下には漆黒の海が広がっていた。
暗くて下に何があるかは分からない。岩肌かもしれないし、水面かもしれない。高さも不明だ。
「見つけたぞ!」
「囲め囲め!」
振り返ると人影が迫ってきているのが見えた。
数には2、3人。いや、どんどん増えている。10人はいそうだった。
アンリは逃げ道がないか、辺りを見回す。
「ない……」
前には下の見えぬ崖、後ろは銃を構えた村人。絶体絶命であった。
このまま撃たれるか。命乞いをして、生かしてくれる可能性にかけるか。それとも、崖から飛び降りるか……。
考える時間はなかった。村人は銃を構え、トリガーに指をかけていた。
アンリは迷わず飛んだ。下に向かって。
「おい! 飛び降りたぞ!」
村人たちは崖に殺到し、下をのぞき見るが、アンリの姿は見えない。ただ真っ黒の海が広がっているだけであった。
「……うっ。……くあっ……!!」
体の激痛でアンリは目覚めた。
「はあ、はあ、はあ……」
全身がきしむように痛む。銃で撃たれた左足が焼きごてを押されたように熱い。
「ここは……」
周囲はほのかに明るかった。
深夜に夜通しで走っていたはずだが、あれから時間が経っているようだ。それが数時間なのか、数日なのかは分からない。
天井から細い光が差し込んでいるのが見えた。どうやらここは地下のようだった。
「洞窟?」
崖から転落し、地面の亀裂や穴からさらに深くの洞窟へと落ちていた。
そんな高さから落ちたにもかかわらず、生きているのは奇跡と言えるだろう。
「よく落ちる日だな……」
助かると確信があったわけではないが、一度転落した経験があったから、迷うことなく飛び降りることができた。
しかし、無事とは言えない状況だ。すぐに治療を受けなければ、長く持ちそうになかった。
「脱出しないと」
アンリはまだ生きるのを諦めていなかった。這いずるように移動を始める。
けれど、すぐに絶望へと変わった。
「ウソ……でしょ……」
目の前に巨大な悪魔がいた。
あのボリスよりも、一回り二回りも大きい。5メートルぐらいあるのではないだろうか。
ボリスが細身で引き締まったボディをしていたのに対して、この魔物は鎧をまとっているような重厚感があった。素手では傷すらつけられないことが、誰の目でも分かる。手足はがっちりとしていて、その腕に捕まれただけで体をバラバラにされてしまいそうだ。悪魔的な巨大な翼に巨大な爪。いや、もっと生物的でドラゴンの持つそれに近い気もする。そして、強さと恐怖をあおるかのように、全身が黒で染まっていた。
ボリスが魔将ならば、これは魔神といえるのではないだろうか。人知を遙かに超え、魔物、魔将すら凌駕した存在。この世界に神がいて、それが悪い神であるならば、きっとこんな姿をしているに違いない。
死んだ、アンリはそう思った。
女神はいなくとも魔神はいたのだ。偽りの女神は、魔神に殺される運命なのだろう。
「あっ……」
魔神が動いた。
ゆっくり右手を上げて、背中に背負っている剣を引き抜いた。
体ぐらいあろうかという巨大な剣。魔神のボディ自体が大きいので、人間からすれば、身長の2倍はある。
アンリは覚悟を決める。
この足では到底逃げ切れない。全力で走ったところで、歩幅の長い一歩で踏み潰されるか、その剣で両断されてしまいそうだ。
(お父さん、お母さん……ごめんなさい……)
アンリはついに生きることを諦め、その目を閉じた。
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