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「お前、焼津に戻ってこいよ」
謙一は焼津に戻らなかった。
キリノオーシャンホテルの先代が死ぬと謙一の父親は彼の代わりに罰を受けた。桐野に冷遇され、漁師を辞め、今は僅かな年金で暮らしているらしい。友人はそうも教えてくれた。
その夜、謙一は父親に電話をかけた。
「親父…」
「謙一か。この面汚しが。二度とかけてくるな」
電話が切られた。
謙一は畳に寝っ転がり、くっくっ…と笑った。
抄子は、悪魔だったのか。
だが俺の年表のなかで、抄子と過ごしたあの夏だけが燦々と輝いている。
44年の人生のなかで、あの1ヶ月弱の期間のみがいきいきと躍動し、眩しく輝いている。
人生にそのような瞬間を持つ者がどれほどいるだろうか。
俺は自分を不幸だとは思わない。
俺の人生にあれほどの燃焼をくれた抄子を、俺は少しも恨んでいない。
一服終わると謙一は自転車に乗り、夜勤へ向かった。
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