一話 古民家カフェの優男

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「禅一さん、お待たせしました」  声を掛けると、またしても本に視線を落としていた禅一が振り向く。本当に暇そうだ。 「コーヒーでも飲む?」 「あ、じゃあやります」 「いや大丈夫……一つも二つも一緒だから。――珠雨、ここに来てどれくらい経つんだっけ」  禅一が立ち上がり、サーバーにコーヒーを落とし始める。 「三ヶ月目ですね」  この春から大学に通う為に、居候を始めた。珠雨の実家は大学に通うには少し遠かったので、元々アパートでも借りようかと考えてはいたが、母が知人である禅一に口を利いてくれた。家賃代わりのアルバイトだった。 「……そんな経ったんだ。早いねえ。前も言ったか忘れたけど、敬語、止めない? 正直もうちょっと距離を詰めたいかな」 「距離?」 「仲良くなりたいってこと」 「そこそこ仲良いと思いますけど? 禅一さんのこと好きですよ」 「ありがとうね。でも精神的なことじゃなくて、話し方」  禅一は口をへの字に曲げて見せた。ここに来た時から敬語で話しているが、それは相手の希望には沿っていないらしい。 「そういえば禅一さんは、最初から俺の……私のこと珠雨って呼び捨てにしてますよね」  先日軽く禅一に注意されたことを思い出し、言い直す。 「僕がこの前指摘したのは、お客さんの前では『私』の方がいいよってだけで、普段は『俺』でもなんでもいいよ。一人称くらい好きにしたらいい」 「……はい」 「僕はねえ、氷彩(ひいろ)さんの名前もだけど、書いた時の印象が美しいから、二人とも好きな名前だな」 「人の名前が美しいとかすんなり出てくる人、周りにいない……ですね」  照れもせずにそんなことを言う人も、珠雨の周りにはいない。けれど禅一の言葉は柔らかく、自然で優しい。 「そう? 美しいって言わない?」 「あんまり」 「そっかー……まあ、それはそれとして、徐々にでいいので、もっと気楽に話せるようになろうよ」 「そうですね、徐々に」  氷彩は珠雨の母で、たまにパートナーを変えながらも、大体一人で珠雨を育ててくれた。今は子供が手元にいないので、また好きに生きているに違いない。気ままな女だ。  天然木の切り株で出来たテーブルに、コーヒーカップが置かれた。 「ありがとうございます」 「いえいえ、こんなおっさんの相手してくれて、こちらがありがとう」 「おっさんって、別にそんなには……一体いくつなんですか?」 「31だよ。ほら、大学生から見たらおっさんかなあという、いわゆる自虐」  苦笑いしてカップに口を付けている禅一は、確かに珠雨の年齢から10歳以上離れていたが、別段老けているわけではない。むしろ年齢より若く見える。 「そうだ珠雨。さっき……」  禅一が何か言い掛けた時、  ――ちりん  入り口の方から鈴の音がして、客が二人入ってきた。 「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」  珠雨は世間話を即座に止め、女子高生と思われる二人を接客する。禅一がなんだか物言いたげな顔をしていたが、今は接客が第一だった。
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