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思い返してみれば、確かに今日は朝から散々だった。
スマホを充電しないまま寝落ちしたせいでアラームが鳴らず寝坊。もちろん朝飯は食いっぱぐれるし、体操服を持ってくるのは忘れるし、なんとか遅刻は回避出来そうだと安心していたのも束の間、途中で自転車のタイヤはパンクするし、昼休み売店に行ったらお気に入りのクリームパンは売り切れているし。自業自得が大半だという自覚はあるが、とにかく朝から散々だったのだ。
おまけに先日行われたテストで赤点をとったせいで今日は六限目のあと、さらに補講……どこまで追い打ちを掛ければ気が済むんだ神様。こういうのは小出しでいいんだよ。一度に出すもんじゃないし、こんな出血大サービスはお断りしたい。
ようやっと補講から解放されたのは六時を過ぎたあたり。この時期のこの時間帯はまだ明るい。とは言え、帰宅部で、授業が終わったらとっとと帰っていた俺にしてみたらどんなに明るくたって十分遅い時間だ。
「やべ、カバン置いてきたんだった」
補講を終えその足でまっすぐ正面玄関に向かっていく奴らを見て、自分が教科書、ノートと筆記用具だけ抱えてこの空き教室まで来ていたことを思い出す。手間だなあ、と思いながらも自分の教室へ戻るしかない。補講で疲れた頭はひどく重たく感じる。
「腹減った~、甘いもん食いてえ~」
階段をトントン、とあがる音と共に、虚しく響く自分の声。この時間、教室に残っている生徒はごく僅かだと、同じクラスで生徒会所属の友人、橘が前に言っていたなあ、なんてふいに思い出す。確かに、放課後になれば部活動の奴らは遅れちゃいけないとばかりにみんな慌てて教室を出て行くし、バイトをしてる奴らもいそいそと帰っていく。俺のような帰宅部たちも、無駄に学校に残るくらいなら真っすぐ家に帰るか、友達とわいわい近所のファミレスで課題をこなした方が楽しいからとさっさと帰る。
こんな時間まで教室に残っているのは何か特別な理由のある奴らか、教師の目を盗んでイチャコラしたいお年頃のバカップルくらいだろう。
などと言ってるそばから、聞こえてきた声に俺は顔を上げた。
「もお~~、ちょっと、やだあ~。変なとこ触ってる~」
「え~? どこが変なのー? 好きでしょ~こういうの」
なんと頭の悪そうな会話だろうか。なんて、恐らく中にいる奴らも赤点常習者の俺には思われたくないだろう。心中お察しします。
俺はドアの上部についた小窓からこっそりと教室の中をのぞいてギョッとした。西日の差し込んだ教室の窓際では、俺と同じクラスの山野と白川さんがふたり、肩を寄せ合ってはクスクスと笑いあってるではないか。そのさまはまさしくカップルのソレだったし、あと5分もしないうちにもっと濃厚な行為が始まりそうなことは想像するに容易い。世間じゃ女の勘は~なんて言われているけれど、男の勘、もとい、男の観察眼も舐めないでいただきたい。現に白川さんの頭に置かれていた山野の手は、白川さんの腰から下の方へスルスルと降下している。
いかん、これは、まずい。非常事態だ。まずい。大変まずい。
何がまずいのか。教室に入るタイミングがなくなった、なんて簡単なことではない。そう、問題はそこではない。
この、一見、傍から見れば、大変熱々で場所をわきまえないバカップルに見えるふたりだが、実はこの白川さん、あろうことか先述した俺の友人、橘の彼女だ。
今日だって休み時間はふたり、廊下で身を寄せ合って楽しそうに話をしていたし、昼休みは橘に手作り弁当を渡していた。橘はいいよなあ、愛されてて~! 俺も可愛い彼女欲しい~! なんて大声で嘆いていた俺は一体何だったのか。いや、まじで。あの時間返してくれよ、白川さん。
「……マジかよ」
今年一、自分史上ショッキングな事件かもしれない……友人の恋人がクラスの奴と浮気してる現場を目撃だよ? 親の浮気現場目撃の次くらいにはショッキングじゃない? いや、それはさすがに言い過ぎかもしれないけれど、それくらいショックだった。
だって、こんなの橘に言えるわけないし……橘が知ったらどう思う? ていうかさあ! 大体! どっちが先に誘ったんだか知らんけども! 山野だって橘が白川さんの彼氏だって知ってるのになんでわざわざちょっかい出すかね⁉ 白川さんも山野が好きになったんならきちんとケジメつけてからにしろよ! 成績優秀、教師陣からの信頼も厚く、顔だって良いし身長だって俺よりデカい。そんな橘を彼氏にしておきながら浮気なんてしてんじゃねえよ! 去年、ミスコン出たからって調子乗りやがって~! くそー! かわいいは正義ですってか? はあ~? 知らねえよ!
「よし、こうなったら俺が一発ガツンとあいつらに喝を入れてやる!」
恐らく巷ではこういう俺みたいなやつを正義中毒とか言うんだろう。大丈夫、自覚はある。
ぐ、と拳を握りドアに手を掛けた時だった。
「あれ、吉野。残ってたんだ?」
「わーーーーー!」
背後から声を掛けられ絶叫と共に俺の体は大きく跳ね上がった。聞き覚えのある声に振り返ってみれば、まさしく今は会いたくなかった人物ナンバーワン、橘。生徒会の仕事で残っていたのだろう。
「え、そんな驚かなくても」
いやいや無理無理。驚く。驚くに決まってる。心臓に悪い。確実に15年は寿命縮んだ、マジで。
目を見開きドアに背中を張り付けた俺を見て、ホラー映画かよ、と付け加える橘。
「ワー! ダレカト オモッタラ タチバナカズキクン ジャ ナイデスカ~!」
「なんでカタコトだよ。日本語覚えたてか」
お前らマジで頼むから離れとけよ……⁉
教室の中にまでハッキリと聞こえるくらい声を張り上げる。
今、ここにはアンタの彼氏がいます! ハイスペックな彼氏様が! ここに! います! 気づけよコラ!
「吉野がこの時間までいるなんて珍しいじゃん……ああ、フッ……補講だっけ」
「おい、待て。てめー今、鼻で笑ったろ」
「もう終わったん?」
「え、あ、まあ」
「じゃあ駅まで一緒に帰ろ。俺も生徒会終わって帰るとこだし」
「おう! もち! いいけ……ど! いいけど!今はよくない!」
「ハア~?」
さりげなく背伸びをして頭部でドアについた小窓を隠す。今、中を見たら色々終わる気がする。いや、俺があんだけデカい声出したんだからやましいことはしていないだろう。していないだろうけど、こんな時間までふたりで残ってること自体怪しすぎる。察しの良い橘が変に思わないはずがない。ここはなんとか……せめてあと5分……あと5分だけでも時間を稼いで、その間にコイツらには教室を出て行ってもらって……
「あ、ほら、なんていうか~、その、と、トイレ、行きたいなって」
「行って来れば。俺、教室で待ってるわ」
「いや! そこは! 橘も一緒に!」
「なんでだよ、やだよ。ていうか俺、さっき行ったばっかだし」
「わかんないじゃん! 行ったら出るかもよ⁉ 出かける前は出なくても一応行けって昔親に言われただろ⁉ 忘れちまったのか⁉ なあ友よ!」
「お前のテンションどうなってんだよ」
だめだ、連れション作戦はダメだ! 別の方法を……
「ていうか、いい加減、中に入りたいんだけど」
「へっ⁉」
「どいてよ」
「断る!」
「なんでだよ」
「断る!」
ああ、だめだ。俺の赤点しか取れない小さな脳みそじゃ、この状況を回避できる作戦が思い浮かばない。最後の最後まで散々すぎんだろこんなの~! もし神様がいるのなら全力で恨ませてもらうぞ。
「……じゃあ、前から入る」
そっちがあったかー!
「ままままま待て!」
歩き出した橘の腕を掴んで引き留める。何か言わねーと! なにかっ……
「ほっ! 本当は橘に話があって! 聞いてほしくて!」
これだから行動力のあるバカは困る。もちろん俺のことである。我ながら大した考えもないのに突っ込んでく性格が憎い。何度も言うが自覚はあるのだ。そう、ちゃんと自覚がある。
「……はなし?」
ほら言わんこっちゃない。無事、目的の『橘の気を引いて引き留めること』はできたけども、この先どうする? どうするつもりだ俺!
「わかった。じゃあ帰りどっか寄ってこ」
「え⁉」
ちがう! そういうことじゃないんだよ橘!
「駅前のファミレスでいい?」
このままじゃ話が終わる! あと5分! せめてあと5分でいいから気の引ける話題! この場所から遠ざける話題!
「あそこならゆっくり話せるし……」
「おっ! 俺! 橘のことスゲー好きなんだけどーーーっ!」
それはもう、人気のない放課後には相応しくない、疾走感のある告白だった。
詰んだ。これは詰んだ。さすがに終わった。無茶だ……無茶すぎる。勢いあまって叫んだものの顔をあげられそうにない。だってこえぇぇ……橘の反応が。
「……は」
ほら見たことか。頭上から降ってきたワントーン低い声。いや、本当、おっしゃる通り、は? ですよ。自分に、は? って俺も言いたい。苦し紛れにも程がある。終わりは? これ、どうやって終わらせるつもりだ、俺。起承転結の結はどうするつもりだ? 頭がぐるぐるする。補講ですでにエネルギー使ってる俺には考える力などもう残っておらず今にも倒れてしまいそうだった。
ふいに、がら、と教室の前のドアが開く。おう、橘に吉野じゃん、何騒いでんの? なんて白々しく出てきた山野。俺に見られてたことは多分気づいていない。白川、お前のこと待ってたぞ~、なんてどの口が言ってんだボケ、みたいなことを言い残して山野は足早に階段を下りていった。ひとまず窮地は脱したらしいことを知り、全身から力が抜け俺はその場に膝から崩れ落ちた。
よ、よかったああああああ~~~~~。
二人に喝を入れられなかったのは心残りではあるが、なんとか橘には現場を見られなくて済んだ……橘と白川さんの関係がこのまま進むのはどうかとは思うけど、今日のところはこれでいい。今後のことはまた明日考えればいい。自分にできることがあるかはまだわかんねーけど、とりあえず今日はこれでいい。そう、これでいい。
「ちょ、吉野⁉ 大丈夫か?」
へたり、とその場にしゃがみこんだ俺に驚き、身をかがめる橘。
「はは、叫んで、ちょっと、低血糖になっただけです」
「……」
なんて、軽く笑って流せば、橘の手がふいに俺の腕をつかんだ。思ったよりも熱い手の熱にびっくりして顔をあげる。途端にドクン、と心臓が大きく脈を打つ。
「……吉野」
いやいやいや、気のせいだ。これは、気のせいだ。橘の顔が赤いのは西日のせい。妙にさっきの雰囲気と違って、マジなトーンに見えるのも俺が疲れてるだけ。顔が近いような気がするけれど橘はきっと目が悪いんだ。そうに違いない。腕を掴む手に力が入ってるのも俺を立たせようとしてくれてるだけで。ははは、そう、気のせい。だって、そんなのおかしいじゃん。橘、白川さんと付き合ってるし。え? 付き合ってるよね? え? ちがうの?
ていうか、そもそもさっきのは、なんも考えなしに勢い余って言っちゃっただけなんだからさ、真剣に受け止めなくていいんだよ。大体わかるじゃん。ノリってわかるじゃん? 男子高校生なんてそういう生き物じゃないですか。大体突然叫んで告白するやつなんて早々いないでしょ。その時点で冗談だってわかるよね? 何言ってんだって流してくれていいんだよ? むしろ流してくれ。
そんなことを考える間も、何故だか心臓はドクンドクンと激しく脈を打つ。そういえば小学生の頃、好きな子に告白した時もこんな感覚だったなあ、なんて……
え?
「なあ……さっきの話って、マジ?」
熱を帯びた橘の視線が俺を捉える。橘の綺麗で真っすぐな瞳の奥で、困惑した表情の自分の顔。少しでも動けば触れてしまいそうなそんな距離。
訂正するなら今だ。今しかない。うそうそ、さっきのはそういうんじゃない、そう言えばいいだけじゃん。大丈夫、今ならまだ訂正出来る。訂正しろよ、俺。
そう思うのに言葉が出てこない。心臓の音が耳障りなほどうるさい。ありもしないのに、橘に聞こえてたらどうしようと心配になる。
「答えないのは、マジってことでいいんだよね?」
ああ、俺は疲れてるんだ。そう、疲労困憊なんだ! だから答えられないんだ! 訂正できないのも、心臓がうるさいのも、橘にドキドキしているような気がするのも、妙に自分の顔が熱いのも、目が合って恥ずかしいのも、全部全部疲れているからだ。
だってそういうことにしておかなきゃ、こんなのおかしいじゃん。俺と橘は友達で、橘にはかわいい彼女がいて、なのに、こんなの、おかしいだろ。こんなの……
「吉野……実は俺も、お前に話しておきたいこと、あるんだけど……聞いてくれる?」
ああ、神様仏様。もうこの際なんだっていい。ありとあらゆる神と崇められるすべての皆様。どうか、どうか願いを叶えてください。
お願いだから、5分前に時間を戻してはくれないでしょうか。5分前までの健全な友人関係だった俺たちに戻してください!
じゃないと、たぶん俺たちは、
「俺、実は吉野のこと──」
5分後、きっと、恋してる。
《終》
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