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目を開けると5時55分だった。いつもアラームの鳴るきっかり5分前に目が覚める。そろそろ活動を始めようかと体を起こしかけた光はそのまま枕に突っ伏した。
「変な夢だったなあ」
妙にはっきりと記憶に残っている。可愛らしい少年の笑顔、草の香り、どこまでも続く星空、静かで穏やかな世界。このところ味わったことのない平和な空気の余韻は、残念ながら意識の覚醒と共に呆気なく消え去っていた。どうしようか、と思案しながら無意識にアラームをオフにする。光はいそいそと体を起こした。長年の習慣を変えることはなかなか難しい。
洗顔を終え鏡に映った顔は酷いものだった。いかにも三十代に突入しましたという肌、アルコールが抜けず充血したままの目とくっきり残る隈。こうしてまじまじと見つめるとなかなかの代物だ。皮肉な笑いを浮かべたつもりの口元は僅かにひきつっただけだった。耳を澄ませると雨音がする。せっかくだから一気に洗濯でもするかと思っていたのに、天気予報は外れたらしい。6月の後半、梅雨の最中とあれば仕方のないことだ。ため息を飲み込み、化粧水を染み込ませながらカレンダーを見つめる。今日は水曜日だった。四半期末の近づくド平日、通常であれば鬼のような忙しさでのんびり鏡と向かい合うような余裕はない。
光は今月で9年勤めた職場を退職する。引き継ぎを終え、送別会も終え、今日からは残った有給を消化するのみ。実質、昨日が最後の出社だった。次の職場は決まっていない。
猪石(いのいし)光、31歳、今日は記念すべきニート生活の初日であった。
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