1.ニート初日

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 せっかく早く起きたし。雨だから洗濯もできないし。ひとりきりの部屋でぶつぶつ言い訳をする。フルメイクを終え仕事着に身を包んだ光は結局いつも通りの時間に家を出た。防水のショートブーツが一歩踏み出す度耳障りな音を立てる。  半ば意識を飛ばした状態で歩き続け、やがて最寄りの駅が見えてきた。通勤ラッシュより少し早い時間帯。まばらな人影は皆一様に傘を振りかざし、水飛沫を跳ね上げながら駅舎へと吸い込まれていく。雨音の向こうから電車の発車音が響いてくる。  無数の乗客を急かす甲高い音が目覚ましのアラームのように聴こえた。どん、と乱暴にぶつかってきたサラリーマンが苛立たしげに舌打ちをして光の真横を追い越していく。ビニール傘に弾かれた傘がくるんと90度ほど回るのを見て、自分が道のど真ん中で足を止めていることに気がついた。  光は踵を返した。次々に駅へと向かう人の波に抗って歩く。邪魔そうに押し退けてくる青い傘、雨に濡れた大きなバックを振りかぶる赤い傘、一定のスピードで和を乱さず進み続ける黒い傘。ほんの昨日まで、光はあの波の中にいた。今の光は異分子だった。  雨足が強まっている。ますます密度を増していく通勤、通学の動線をこれ以上逆流し続けるつもりにもなれず、光は駅前のカフェに入ることにした。店内はほぼ満席だった。意外とこの時間帯は混み合うらしい。  テーブルの上、ホットコーヒーから立ち上る湯気をぼんやり見つめる。  どうしよう。  ここにきて初めて、光は自問した。午前7時15分。これからどうしよう。家に帰ったらまずい気がした。最後の勤務日である昨日のギリギリまで引き継ぎに追われ、これから先のことなんてまるで考える余裕などなかった。部署での送別会は先週にひっそりと行われ、昨日はごく数人のみで集まった。そう言えば、と鞄を漁る。直属の上司から手渡された包みをまだ開けていなかった。薄茶色の湿った紙袋を破る。中身は本だった。付箋があちこちに貼り付いていて、ページも黄ばんでよれている。表紙を見ると「広報・PR」の文字が飛び込んできた。
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