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『棚整理してたら出てきた。餞別な餞別。有り難く受け取って』
元上司の気の抜けた声が甦ってきた。言葉以上の意味はないはずだ。よくよく見れば有り難き餞別の品は資格試験の参考書で、しかも10年近く前の年度のものだった。まったく参考にならないお古である。ぱらぱらとページをめくる。びっしりと書き込まれた蛍光ペンのラインや小さな文字は大雑把な元上司のものとは到底思えない。大方持ち主不詳で処分に困ったとか、そんなところだろう。
ぱたん、と参考書を閉じる。先ほどまで店を埋め尽くしていた出勤前のサラリーマンたちの姿が消えていた。広々とした空間を見渡しながら、光はすっかり冷たくなったコーヒーを啜る。やっぱり、家に帰る気にはなれない。かろうじて繋がっている糸が切れてしまう予感がした。本屋が開くまでまだだいぶ時間がある。せっかくだから足を伸ばして大きめの本屋へ行こう。参考書を買うなら選択肢が多いに越したことはない。そして受験生さながらに図書館にでも行って勉学に励もう。たまには目を休めて徹底的に紙と向き合ってみるのも悪くない。
『たまにはぱーっと休んだら?』
昨夜、べろべろに酔った元上司はへらりと笑ってそう言った。
『走ってなきゃ死ぬって訳じゃないんだから』
そうですね、と光は笑った。
そうですね、貴方は平気でしょうね。走り続けた結果、尻尾巻いて逃げる私が滑稽で仕方ないんでしょうね。腹が立った。味方のふりをした面の下で自分を見下す元上司にも、聞こえない振りでジョッキを傾ける元同僚にも、脳内だけでヒステリックに叫ぶ自分自身にも。見返してやる、と思った。必ず、近い将来。明確な決意は殺意に近い。
半分以上残したコーヒーカップを叩きつけ、鼻息荒く立ち上がった光の隣、のんびり新聞を読んでいた老人が驚き水をひっくり返していたが知ったことではない。腹の底でふつふつと煮えたぎる怒りに追い立てられるように、光は駅を目指して大股で歩き始めるのだった。
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