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前田さんと実家に到着して、ものの1時間ほどで遥拝の準備ができた。 ゆっくりする間もなく、前田さんは冷水で体を清めて、笑ってしまうほどにガタガタ震えながら、白い着物を着せられて戻ってきた。 神職見習いの橋本君が用意してくれたベンチコートを羽織り、境内に持ち出された屋外用の石油ストーブに手をかざして震えている前田さんに声をかける。 「前田さーん、大丈夫です?」 ギギギと音がするほどのぎこちなさで振り向いた前田さん、よく見ると鼻が垂れている。 「ま…まだ11月なのに…やたら寒いっすね…」 「冷水は効きますからねー。ウチのは山から水を引いてるんでめちゃくちゃ冷たいんですよ」 ううーと唸る前田さんにティッシュを手渡して鼻をかませる。 橋本君が目ざとくティッシュを回収してくれる。 「…………」 さて、あとは母次第だ。 祈祷の準備をしている母を見やる。 落ち着いた様子で目を閉じている。 心が整ったら祈祷が始まる。 関西にある前田さんの故郷はウチから見て北東になる。 鬼門の方角だ。 特に気にする必要もないかもしれないが、どことなく不穏な引っかかりを覚える。 天垂血比売(アメノタラチヒメ)様。 前田さんの故郷の山をうろつき、神隠しをする神様。 人を護りながら人を食らう、不思議な神様だ。 その神様を遥拝するための祭壇。 簡易的とは思えないほど立派に設えられている。 母が挨拶をし、ベンチコートを脱がされた前田さんが招かれ、祭壇の前に立つ母の横に並ぶように立つ。 少女と老人は私達と同じように並んで参加している。 神様が祈祷に参列する光景というのは貴重だ。 これは次月号のネタに使えると確信した。 寒さか緊張か、ガチガチに固まっている前田さんを尻目に、母が大幣を振る。 祝詞が始まると、あたりの静寂が濃くなった気がする。 いつも感じているウチの神様の気配とは違う、異質な気配が漂い始めた。 少女だ。 並々ならぬ気配、神気というのだろうか、その気配が少女から溢れるように漏れ出ている。 オーラが見える人は、少女に何色のオーラを見るのだろう。 残念なことに未熟な私にはオーラの色は見えない。 父や母には見えているだろう。 あとで聞いてみよう。 そん呑気なことを考えていたから、ソレが起こったことに気づくのが一瞬遅れてしまった。 祈祷が始まって数分も経っただろうか。 あ…と息を飲む音がいくつか、神職さんの並ぶ列から聞こえた。 違和感の正体を求めて目線を彷徨わせ、すぐに気がついた。 母の隣にいたはずの前田さんの姿が消えていた。 だれが最初に気づいただろうか。 みんな同時に気づいたのかもしれない。 父は驚いた様子で前田さんのいた辺りを凝視している。 少女の表情は変わらない。 母は構わずに祝詞の奏上を続けている。 前田さんが消えた。 どこに行ったのかは大体想像がつくが、かなりマズい事態が起きたことは間違いない。 祈祷が続く中、聞こえるか聞こえないかの声で少女が「持っていかれた」と呟いた。
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