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結
なんだこれは。
何が起こった?
「…………」
俺は事態が飲み込めず、周りの景色を見回す。
見渡す限りどこまでも木々が広がっている。
足場は悪く太い木の根が血管のようにうねっている。
薄暗く、湿気が強く、濃密な木と土の匂いが辺りに満ちている。
人の手の入っていない原生林。
かつて少年期に迷い込み、2年前にも不思議な力で呼び込まれた、故郷の山。
あの恐るべき神様がうろつく、神の庭だ。
「…………」
なんだこれ。
心臓が早鐘を打ち始める。
冷や汗が頬を伝う。
やばいぞ。
その言葉が頭に浮かんだ途端に思考が爆発した。
「……う………あ……………」
やっべえ!やっべえ!なんだこれ!
バクバクと心臓が暴走したように脈打つ。
食われる!ここに来たら食われる!
……これはまずい…!
チリ…とうなじのあたりがザワつく感覚。
振り向いても原生林しか見えない。
薄暗い森がどこまでも続いている。
だがその奥から、とんでもない気配が漂ってくる。
例えば猛獣の檻に放り込まれたような気持ち。
だれも助けに来ない状態で猛獣と俺だけが檻の中にいる状況。
食われないはずがない。
例えばクマ。
目の前にヒグマがいたら希望はあるだろうか。
まさに今から俺を食おうとしているヒグマがすぐそこに。
そんな恐怖が込み上げてくる。
目の前に広がる原生林。
辺りを包む木と土の匂いに混じって漂ってくるのは、死の匂いだ。
うねった木々の向こうに、抗えない死がある。
ここに俺を呼んだ存在。
逃げるなんてできやしない。
九州からここまで一瞬で連れてこられた。
なんで?
山には入っていないのに。
「…………」
祈祷だ。
篠宮母が俺を通じて呼びかけたから、繋がってしまった。
逃げられない。
ここに来たら今度こそ食われる。
そう言われていたのに。
迂闊だった。
まさかこんなことになるとは。
「…………」
近づいてくる気配はない。
枝を踏む音もなく、あの恐ろしい笑い声も聞こえない。
静寂が満ちている。
山にいるはずの獣が立てる音すらしない。
無音ではない。
かすかに風が木の葉を揺らす音だけが聞こえている。
まるでこの山にいる全ての獣が、この恐ろしい気配に恐れをなして息を潜めているようだ。
「…………」
なぜ近づいてこないのだろう。
いつも容赦なく追い詰めてくるのに。
子供だった時も、2年前も。
今だって強制的に連れてこられた。
逃げられないのは分かりきっている。
「…………」
来いということだろうか。
ガタガタと全身が震えている。
つばを飲み込もうとするも喉が乾いて仕方ない。
かろうじて一歩踏み出す。
逃げられないなら謝るしかない。
来いというのだから行くしかない。
「…………」
一歩踏み出すごとに膝が笑う。
木の根に足を取られて何度も転ぶ。
誰かの声が聞こえた気がする。
耳をこらすとすぐに聞こえなくなってしまった。
木々の間を縫って進んでいくと、視界の端に赤い着物の裾が見えた。
いる。
もう、すぐそこにいる。
俺の死がそこにある。
恐る恐る顔を向ける。
アメノタラチヒメ様。
木々が少し開けたところに立っている。
俺を見ている。
黙って立ったまま俺を見ている。
2年前のようにクスクス笑っているかと思ったが、まったく笑っていない。
それどころかあの目は。
「…………」
なんて冷たい。
なんて冷ややかな目で俺を見るんだろう。
存在そのものを忌むような目。
あんな目で見られたら、生きていられる存在なんてない。
「…あ…あの……」
言葉が出てこない。
よろめきながら跪く。
こうなってしまった以上、ひれ伏すしかない。
何も言えないまま、手をついて頭を下げる。
息が苦しい。
呼吸がうまくいかない。
それでもそうするほかない。
「おい」
そう声をかけられ飛び上がるほど震えた。
いっそう頭を低く、土に額を擦り付けるほどに平伏する。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!!
全力で謝罪の気持ちを念じる。
伝わってくれと祈りながらごめんなさいと繰り返し念じる。
神様は黙っている。
言葉で伝えないとダメか?
俺にはテレパシー能力なんかない。
念じてるだけじゃダメかもしれない。
ようし、言うぞ…言うぞ……。
「お前……「申し訳ありませんでした!!!」
あれ?
今…何か言われたような……。
ドッと汗が噴き出す。
言われた?
何か言いかけた?
神様が?
それに俺は………被せた?
神の言葉を遮ってしまった……!?
頭から吹き出した汗が雫となって顔に伝う。
やばいやばいやばいやばい。
こんなこと有り得ない。
神様の言葉に被せるなんて、無礼打ちどころの話ではない。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!
食われる!もう食われる!生きたままぐちゃぐちゃに食われる!!
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!
くく
と声が聞こえた。
思考が止まる。
頭が真っ白になる。
耳に全ての神経を集中する。
く…くく……
続いて、
あーっはっはっはっははははははははは!!
大きな笑い声が響いた。
「…………」
恐る恐る顔を上げる。
少しだけ顔を上げて神様を見上げる。
あはははははははは!!
神様は体をよじりながら大笑いしている。
体をくの字に折って、文字通り腹を抱えて笑っているのだ。
俺は相変わらず頭が真っ白だ。
ひとしきり笑った神様は「あー」とため息みたいな声を出した。
「あー可笑し。可笑しいったらないよ」
そう言って俺を見た。
「あ……あの…」
言葉が出ない。
ごめんなさいとか申し訳ありませんとか言わなければいけないのに、頭が真っ白で何も出てこない。
「気に入らないねえ」
そう言われてまた心臓が締め付けられる気がした。
再び頭を土に擦り付ける。
やっぱり!怒ってる!怒ってらっしゃる!
「気に入らないから食べちまおうかと思ったけど、興が冷めたねえ」
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!
必死に念じる。
「うるさいよ。黙ってな」
うぅ…。
やばい。
どうなるんだ俺は。
またどこからか誰かの声が聞こえる。
さっきよりも聞き取れる。
これは……篠宮母が祝詞を唱える声だ。
風に乗って聞こえてくるような、出元がわからない声がかすかに響いている。
「うるさいと言っている」
神様がそう言うと祝詞は聞こえなくなった。
再び静寂が満ちる。
土しか見えない視界が不意にぼやけて、白い砂利に変わった。
何が起きたのか理解できないまま耳をすますと、静寂の代わりに俺を取り囲む大勢の声が聞こえてきた。
「前田さん!」
名前を呼ばれて顔を上げると、篠宮さんや神職さん達が俺を取り囲んでいた。
周りを見渡すと、そこは篠宮神社の境内だった。
篠宮母は気を失っているようで、篠宮父が介抱している。
綺麗に設えられていた祭壇がめちゃくちゃになっているのが見えた。
篠宮さんは真っ青な顔で俺を見ていたが、俺が無事だとわかったようでホッとため息をついた。
そして「前田さん、おでこに土ついてますよ」と言って笑った。
立ち上がると、懐に急にモゾモゾ動くモノがあって、ギョッとして着物をはだけると小さなイタチが飛び出した。
シャカシャカーっと走り回ったかと思ったら、少女の体を駆け上がって肩にちょこんと座った。
少女がイタチの顔を撫で、ふふ、と笑った。
無愛想な少女が笑うところを見て、なんだか気が抜けてしまった。
「眷属が戻ってきた。ありがとう」
少女が俺を見てそう言った。
程なくして篠宮母が目を覚ましたので、先ほど起こったことを話し合った。
訳もわからず気がついたら故郷の山にいて、尋常じゃない気配が漂っていたと説明すると、篠宮母が後を継いで話し始めた。
「ご祈祷を通じてタラチヒメ様にお伺いを立ててみたのだけど、どうも怒ってらっしゃったようで、依り代の前田さんを取られちゃったんです」
「はあ」
「それでもタラチヒメ様とは繋がったままだったので、祝詞を上げながらお許しをお願いしていたんです。そうしたら「うるさい」って言われちゃって」
ああ、2度目のあれは篠宮母に言ったのか。
「そうしたら前田さんを戻してくれて、眷属さんも一緒に。前田さん、あちらでタラチヒメ様にお願いしてくれたんですか?」
そう聞いてきた。
「いや、俺はただ単に土下座してただけです。頭真っ白でお願いどころじゃなかった」
俺はあの時のことを一から説明した。
ただただビビって渾身の土下座をしただけで、あとは何もしていないこと。
初めはめちゃめちゃ怒ってる風だったタラチヒメ様が、俺の空気の読めなさと間の悪さで興が削がれたと言って機嫌を直してくれたようだったこと。
篠宮母の祝詞が聞こえてきたが、タラチヒメ様がうるさいと言うと聞こえなくなくなったこと。
その直後ここに戻ってきたこと。
すると少女が話し始めた。
「自分の眷属を勝手に使われて怒ったのだろう。タラチヒメは元からお前を食おうと思って持っていったわけじゃない。嫌味の1つでも言いたかったのだと思う」
嫌味どころじゃないぞ。
あの気配、あの目。
文字通り、死ぬほどビビらされたのだ。
そう言うと篠宮さんが吹き出した。
「怒ってるぞ感を漂わせて、ギロッとひと睨みされた訳ですね?神様にそれやられると怖いなあ」
そう言って笑った。
「絶対に死ぬと思いましたからね。怖いなんてものじゃないっすよ」
いつだったか笠根さんが言っていた「祟り殺すぞボケ」という感覚がついて回るって話。
あれもそんな感じだったのかもしれない。
「いやあ怖い怖い。前田さん、また伝説作っちゃいましたねー」
ニヤニヤしながら言う篠宮さんにカチンと来て言い返す。
「あのね、俺を連れてきたのは篠宮さんですよ?少し言い方ってもんがあるでしょうよ」
うっと呻いた篠宮さんは肩を落として、「ご、ごめんなさい」と素直に謝った。
ニヤニヤからのギャップが面白くて吹き出してしまった。
タラチヒメ様が俺を見て滑稽だと思ったのも同じような感じだったのだろうか。
「まあこれで一件落着…ですよね?」
そう聞いたら篠宮さんは笑顔で頷いた。
眷属を助けた礼に少女の神様が不思議アイテムを授けてくれるということもなく、その日は普通に篠宮神社に泊まって翌日普通に東京行きの飛行機に乗った。
飛行機の中の大きなモニターに地図が表示されており、現在飛んでいる場所がわかるようになっている。
故郷の上空に差し掛かり、窓から山並みを眺めていると、ふと強い視線を感じた気がした。
あの目。
今も見られているのだろうか。
ブルっと体が震えたのは一瞬のことで、すぐに雲海に阻まれて山々は見えなくなった。
できればもう会わずに済みますように。
そう祈ったら、どこかで誰かがクスクスと笑う声が聞こえた。
〜終わり〜
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