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第十話 香水の匂い
「ここだ」
そう言われて見上げた薄い茶色の石で出来た建物は、扉の前に従僕が立つ立派なお店。重厚な扉の造りからして、庶民のお店とは程遠い。
「……この店は?」
「入ればわかる。行くぞ」
従僕が扉が開いた瞬間に様々な香りの渦に巻き込まれる。ここは香水屋だとわかった。町の雑貨屋や化粧品屋に売っている物とは明らかに違う香りを胸に吸い込む。
黒い艶やかな石が敷かれた店内に魔法灯が輝き、飴色の棚に並ぶガラス瓶がきらきらと七色の光を放っている。
「凄い……」
時間を掛けて柔らかく香る香油とは違って香水の香りは揮発性が高くて攻撃的。店の棚に並ぶガラス瓶はしっかりとフタが閉められているのに、店内には匂いが漂う。
出迎えた店主の男性の視線が明らかに私たちを値踏みしていて、クレイグが私を着替えさせた理由がようやくわかった。香水といえば、貴族か裕福な商人が使うもので、元の格好なら相手にもされなかっただろう。
「俺に香水を見繕ってくれないか。職務中に使うから、あまりキツイのは困る」
「香水を?」
貴族ならいざ知らず、騎士が香水というのは聞いたことがない。
「ああ。一度着けてみたかったんだ」
そう言われると責任感が湧く。私も一度でいいから香水屋に入ってみたかった。その願いを叶えてくれたのだから、クレイグの願いも叶えたい。
「男性向けですと、こちらなどいかがでしょうか」
ほんの少しの量を染み込ませた紙片がガラスの皿に置かれ、立ち昇った香気を手であおいでかぐ。壁に飾られたガラス瓶は飾りで、実物は戸棚の中から出された。光で変質するのを避けているらしい。
「……これは……光り苔? それから杉苔……白竹と薔薇も感じます」
香水は数種類の香油が使われていて、揮発する時間が違うので香りが変化していくものが多い。微かな香りと記憶を頼りに何が入っているのか感じ取っていく。
「お詳しいのですね。ご専門ですか?」
店主の目が鋭くなり、同業者と思われたかもしれないと焦る。香水の配合比はその店独自の物で、同業者が盗みに来たと思われても仕方ない。
「いいえ。祖母が香水好きだったので懐かしくて。亡くなる前にはいろいろと話を聞いたのですが、もう十年以上昔になります」
少し嘘が混ざっている。祖母は香水だけでなく香油や香木、ありとあらゆる香りの元を扱っていた。
「そうですか。それは良いご趣味をお持ちの方だったのですね」
途端に店主の雰囲気が柔らかくなって、内心ほっとする。人に敵意を向けられることは苦手。
数種類試しただけで、鼻の奥が痛みだす。昔から憧れていた香水が、こんなに強い香りだとは思わなかった。祖母が扱っていた香水は、もっと柔らかく刺激の少ないものばかりだった。正直に言えば、騎士がこの香水を使うのは推奨できない。
「気に入るのがないか? じゃ、お前が使うのを買うか」
「え?」
聞き返すと、何も買わずに出られないと耳打ちされた。そうか。これだけ試香しておいて買わないのは気が引ける。
悩みに悩んで、女神の涙と呼ばれる花の香水を選んだ。一種類の花だけで作られているとは思えない豊かな香りが気に入った。実物を見たことはなく絵を見たことがあるだけで、お嬢様が異世界に咲くスズランに似ていると言っていたのを思い出す。
可愛らしい小瓶に入れられた香水を手に、私たちは店を後にした。
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