第十九話 氷スミレの砂糖漬け

1/1
前へ
/62ページ
次へ

第十九話 氷スミレの砂糖漬け

 作業台の上、大人が埋もれてしまいそうな紫の花の山からは強い芳香が漂っている。部屋の中で充満していても、不快にはならない。 「氷スミレ! こんなにたくさん!?」  匂いでわかった。一年中氷で閉ざされた場所でしか咲かないスミレの一種で、母も数年に一度しか扱えなかった希少な花のはず。 「よくわかったね。普通のスミレと見分けができない人も多いのに」 「匂いが違います。スミレの香りの中に、桃に似た香りを感じます」  スミレの爽やかな甘い香りと桃の甘さが絶妙な配分で香る。幸せな気分にしてくれる香り。 「これを砂糖漬けにするんですね!」  花自体は小さくても、香りは強い。どうやって作るのだろうか。 「そう。今、ゴミ取りと掃除が終わった所。これに一つずつ筆でこの液を塗る」  アラステアが花を一つ手に取って、筆で透明な液体を塗る。濡れたスミレは濃い色になってきらきらと輝く。 「最初に表を塗って、乾かしてから裏を塗る。これを二回繰り返す」  金属の四角いお盆に一つずつ花が並べられていく。 「全部お一人で、ですか?」  慣れていて素早くても丁寧な作業。それでもこの山のような花すべてに同じことをするのなら、長い時間が掛かってしまうだろう。 「そうだよ。私は、私が作ることができる量しか作らない。他の者を雇うつもりもないし、教えるつもりもない。この液も私独自で開発したものだ。普通の砂糖漬けには卵白を使う。でも、それでは輝きと透け感が得られない」  話す間にも、次々と花が並べられていく。繊細で正確な手つきは、優しさを伴いながら花を扱う。 「手間と技術を掛けた宝石のような花と果物。これは私の芸術作品なんだ。この価値を理解してくれる人にしか売らないし、理解されないのなら売れなくていい」  美しい物を作りだし、その絶対の価値を信じて疑わない。この人は芸術家なのだと素直に感心する。 「こいつの作る果実宝石は、うちの王族や貴族だけでなく、外国の王族も好んでいるからな。出来上がるとすぐに売れていく。これも予約が入っているんだろ?」  クレイグの問いにアラステアが肩をすくめる。 「まぁね。この氷スミレは五年待ちのお客様もいるよ。この花は注文してもなかなか入荷しないから仕方ない」 「普通のスミレでは作らないのですか?」 「君の指摘通り、普通のスミレと氷スミレでは香りが違い過ぎるんだ。普通のスミレの砂糖漬けは、他の店の職人たちが作ってる。わざわざ私が他人の商売の邪魔をすることはないからね」  大きなお盆いっぱいにスミレの花が並べられた。アラステアは立ち上がり、お盆を壁際の棚へと置く。 「どうせ作るなら、誰にも真似できない物を作りたい。そう思っているだけさ」  自信に満ちた優美な笑顔に、どきりと胸が高鳴った。 「さて、この次の工程を教えてあげようか。液を二度塗って乾かした花は半透明になる。綺麗だろ?」  棚に置かれていた別のお盆には、赤い薔薇の花びらが並んでいた。透ける赤がガラスのようで美しい。 「これをカジロの糖液に浸けてから、砕いた岩糖をまぶす」  白い陶器の大きな壺の中には透明な液体。糖液は澄んでいて、大きな壺の底まで見える。 「カジロ……蔓草の?」  魔道具屋で買った油の原料だった。あれは実を絞った油。 「そう。夕方にカジロの蔓を切って、瓶に差しておくと翌朝にはいっぱい取れる。その液を濾して、ほんの少しの塩を混ぜる」  隣りに置かれた壺の中には、白いさらさらとした細かな結晶。 「これが砕いて砂状にした岩糖。元はあれだ」  アラステアが示した先には、岩塩のような塊が棚に置かれていた。 「岩糖というものを初めて見ましたが、岩塩と区別がつきませんね」 「そうだね。混ざるときっとわからない。ただ、希少で値段が違い過ぎるから、そんなことにはならないと思うよ」  掘れば誰でも採取可能な岩糖の正確な産地は隠されていて、岩を作る原因と思われる植物の名前も秘されている。 「白い砂糖なのですね」 「これは無漂白。外国では色を漂白した白砂糖がもてはやされてるらしいけど、私は苦手でね。折角の旨味がなくなってる気がするんだ」  茶色の砂糖は安く庶民のお茶の時間には欠かせない。白い砂糖も話には聞いたことはあっても、貴族のお茶会でも見たことはなかった。 「箱詰め前の完成品も見せてあげよう。こちらにおいで」 「おい。アラステア、今日はえらく上機嫌だな」  クレイグは先程から口を引き結んでいる。 「そりゃあ、機嫌も良くなるよ。私の仕事を理解してくれる女性は、氷スミレのように希少だからね」  アラステアは咲き誇る花のような美しい笑顔を見せた。
/62ページ

最初のコメントを投稿しよう!

180人が本棚に入れています
本棚に追加