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「それじゃあ──」
とは切り出してみたものの、頭の中は真っ白だった。
「黒木さんの呼びやすい言い方なら、なんでもいいですよ」
気を使うそぶりを見せながらも、内心では動悸が激しくなる一方だった。
「友達からは何て呼ばれてるの?」
聞かれてすぐ、小町さんに呼ばれる声が耳の奥で聞こえた。いつも聞き慣れている彼女の声を振り払い、呼ばれ慣れていない自分の名前にすり替える。
「そう、ですね。ゆりなちゃんとか、ゆりな、とかですかね」
「そっか。じゃあ、ゆりなちゃんで。いきなり呼び捨てって言うのもあれだし、ゆりなちゃんで、いいかな?」
何度も名前を呼ばれ、それだけでどうかすれば気を失ってしまいそうだと思った。
笑顔が眩しいという表現を聞いたことはあっても、まさか自分がそれを使うとは思いもしなかった。彼自身は何も変わっていないのに、その笑顔はキラキラと私に降り注ぐ。ちょうどいい例えが浮かんでこないけれど、なんというか、今日くらいの曇り空なら一瞬で吹き飛ばせそうだと思った。
「ゆりなちゃんは食べないの?」
「えっ、ああ、それじゃあ──」
小声でいただきますを言い、隣からの視線を感じながらサンドイッチを一口食べた。あれだけ何度も作り直し、味見もたくさんして、なんとか自分の納得できるものができたはずなのに、一口食べたそれの味は、正直よく分からなかった。まずいとか、そういうことではなくて、本当に味が分からなかったのだ。
隣で美味しいと言ってくれる彼が、まるで嘘を言っているみたいな、不思議な感覚だった。
空っぽになったランチボックスのふたを丁寧に閉めると、黒木さんは手を合わせて「ごちそうさま」と言った。残さずに食べてくれただけでも十分なのに、彼のごちそうさまが私に価値を付けてくれたみたいで嬉しくなる。
「──たばこ吸ってもいい?」
ポケットをごそごそしながら言い、私が返事をするよりも先に立ち上がった。
つられて自分も立ち上がり、彼の隣で一人分ほどの距離をあけてそこに立った。
煙をくゆらせ、遠くを見つめている。その横顔をちらりと盗み見ては、胸が苦しくなった。
「──こういう中途半端な空、嫌いじゃないんだよね」
「空、ですか?」
ふうっと煙を吐き出すと、コンクリートの手すりに両腕を乗せて背中を丸めた。
「そう。今日みたいな薄い雲に覆われてる空って、どちらかと言えば気持ちが沈みそうなものだけど、俺はこっちの方が好きなんだよね。太陽の光が届きそうで届かないみたいな、雨が降りそうで降らないっていうか、何かをこう、ぐっと堪えてるように見えるこの感じが、どうしてか落ち着くんだよね」
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