百合

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 連日の雨で最近は非常階段に行けていない。それでも、黒木さんと一緒にサンドイッチを食べた日から、毎日のように美術館に通っていた。だからと言っていつでも彼に会えるわけではないけれど、少しでも彼の近くにいたくて、美術館の中をずっと歩き回っていた。  勇気を出して黒木さんを誘った日、彼の休憩時間に会うことになった。誰かに知られてはいけないような関係ではないけれど、つい人目を避けてしまうのは、彼に対してこれまでそうしてきた癖がなかなか抜けないでいたからだ。だからではないけれど、関係者以外立ち入り禁止の内側は、場所を選べば周りの目を気にせず二人きりになれるのでとてもありがたかった。  別の日には、黒木さんの仕事終わりに美術館の中を散歩した。見慣れた風景も、彼と一緒に見ているというだけで全く別の場所のようだった。まるでデートをしているみたいな感覚になっていたのは私だけかもしれないけれど、隣に並んで歩いているだけで、嬉しくてたまらなかった。  何色とも言いがたい硬い絨毯が、ヒールの音を吸収して鈍い音に変わる。大きな絵画の前で立ち止まり、顔を合わせるなり彼が目だけで微笑んだ。それだけで、ぎゅうっと胸がしめつけられる。私でも知っているこの有名な絵画より、彼の笑顔の方をずっと眺めていたいと思った。  黒木さんは、絵画や美術品にずっと詳しいはずなのに、これは誰の作品だとか、いつの時代なのかとか、そういった説明なんかを言うことは一切なかった。気を遣ってくれていたのか、特別何も考えていなかっただけなのかは分からないけれど、とても居心地がよかった。  ──今朝の空も厚い雲に覆われている。せめて、彼の仕事が終わる夕方まではどうにか持ちこたえてほしい。今日は、久しぶりにいつもの非常階段で会う約束をしている。先月が異常に暑すぎたせいか、今月はまだ暑さが落ち着いているような気がする。それでも、もうそろそろ外で会うには厳しくなってくるだろう。  湿気を含んだコンクリートの階段に座り、ここから見えるノウゼンカズラをぼんやりと眺める。ふたつほど、薄いオレンジ色のつぼみが見えた。 「お待たせ」  鉄の扉が開くと同時に黒木さんが顔を出した。 「あ、お疲れ様です」  背筋をすっと伸ばし、軽く頭を下げる。 「早かったんですね」 「ん、ああ──」  言いながら私の隣に座った。 「切りがないから適当に切り上げてきた。まぁ、ゆりなちゃんが予定入れてくれてたから帰りやすかったんだけどね」  そう言って表情を緩めるから、その笑顔に引き込まれそうになる。  無造作にポケットからたばこを取り出すと、火をつけて遠慮がちに煙を吐き出した。
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