百合

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 ひとつ、有名な話を知っている。ヨーロッパのどこだったか、全くの無名だった画家が、死後になってようやく作品の価値を認められ、最終的に数百億円という破格で落札されたのだ。  自分のいない世界で突然有名人にされるのはいったいどんな気分なのだろう。少なからず、その事実を皮肉だと思ってしまう。とは言え、そうなってしまう世の中の原理を理解できなくもないけれど、そもそもそれらの価値は、誰が、何を基準として、どうやって付けたのだろうか。もしかすると、誰もが知っている有名画家の絵画より、大いに評価されるべき無名画家の作品の方がたくさんあるのかもしれない。けれど、付加価値がないというだけで、埋もれてしまっている可能性は否定できない。  「作品に価値が付く瞬間がたまらなく好きだ」と祖父がよく言っていた。誰からも見向きもされなかった無名の画家の作品に、突如として光が当たる瞬間。  生と死、未来と過去、偶然と必然といった決して相容れないふたつに不思議な力が働いて、それらが同じ場所にあるような、とにかく、誰も想像できないような奇跡が起こると、そこには相応の価値が生まれるらしい。と、力説されたところでなかなか理解が難しい部分もある。そもそも、相応の価値に対する考え方は個々で違うのでは、と思ったけれど、祖父と同意見の人間からすれば、私の考えなど誤差に過ぎないのだろう。  感性は人それぞれで、ちもろん否定はしない。私だけの意見を言うならば、多くの人たちは知らず知らずのうちに付加価値に踊らされているだけなのではないだろうか。付加価値に興奮し、期待し、自分自身で膨らませすぎた魅力に操られているだけなのだと。考えたところで、答えなど出てこなければ、答えらしき何かに近付けた試しもないけれど。  虚しく聞こえるかもしれないけれど、表面的に見えているものの印象しか受け取ることをせず、そのずっと奥にある作り手の想いに馳せたり、作品の意味を理解しようというところまではまだまだたどり着けていない。と言えば聞こえはいいけれど、もうすでに、自分自身にあきらめている。  自分は本当に祖父の孫なのだろうかと、疑ったことは一度や二度ではない。単純な感性しか持ち合わせていないことを祖父に対して申し訳なく思うけれど、こればかりは仕方がないとしか言いようがない。それでも、祖父が作ってくれた〈如月美術館〉は、私にとっては特別な場所だ。
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