百合

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 ふわふわとした霧雨(きりさめ)が石畳を濡らしていく。  美術館の入口の門が遠くに見えるこの場所は、二階の東側にある非常階段だ。  偶然この場所の存在を知ったのは、もうずいぶん前になる。  たまたま目の端に映った非常扉が、その時なぜだか気になって仕方なかった。しばらくの間、少し離れた場所から非常扉を見つめていると、既視感に襲われた。  ──あの場所を、私は知っている?  そうなると、迷いもなにもなかった。足早に非常扉の前までくると、勢いで押し開けていた。一気に冷気が流れ込み、反射的に体が縮こまる。それもそのはずで、その日は朝から雪が舞っていたのを覚えている。息をするたびに体の中が冷えていく。それなのに、すぐにその場所から立ち去ることができなかった。  あの日から、なんとなく気になるというだけで何度も非常階段へ足を運んでいた。美術館の利用客はもちろん、スタッフすら出入りすることがなく、誰にも気を使わずにひとりの時間を過ごせると分かってからは、多い時には週の半分をここで過ごしていたこともあった。  湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくのもお構い無しに、わざわざ踊り場の先へ出て霧雨の中に視線を投げる。そのままゆっくりと視線を持ち上げ、どんよりとしたグラデーションの空を見ていると、次第に感傷的になっていく。  遠くのもやがかかったような濃いグレーの空の下は、もしかするとこの場所よりも強い雨が降っているのかもしれない。そんな、どうでもいいことを思った。  昨日も一昨日も、閉館時間ぎりぎりに美術館の中に入った。もちろん足元は、お気に入りのヒールのパンプスだ。オフホワイトのオープントゥのヒールに決まるまで、何度鏡の前に立ったか分からない。ただ、こんなにも一生懸命おしゃれをしたところで、それを見せたいとは、今の今まで言葉すら交わしたことがない。今日こそはと、何十回、何百回と自分に言い聞かせてきたけれど、あと一歩がどうしても踏み出せない。   こっそりと見つめるのが、私には精一杯だった。  風向きが変わり思わず顔をしかめた。大した雨避けのないこの場所は、そのうち完全に濡れてしまうだろう。  くすんだドアノブに手をかけ、重たい鉄の扉を手前に引こうと力を込めた、次の瞬間、簡単に開くものだから驚いて手を離した。 「あ、すみません」  出てきたその人に言われ、反射的に頭を下げた。  その人は、私が頭を上げるよりも先に私の横を通り過ぎた。  背後から、カチッと乾いた音がした。顔だけでそっと振り向くと、霧雨の中に白い煙が混じって見えた。
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