百合

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 ゆっくりと鉄の扉を引き、人ひとりが通れるほどの隙間から、体を横にして館内へ戻った。  「確かこの場所は禁煙のはずだ」、冷静にそんなことを思ってからすぐ、「そうじゃなくて!」、心の中で自分に向かって叫んだ。今、扉の向こう側にいるのは、今まで見つめることしかできなかった地下室の彼だ。彼のことを認識した途端、声が出そうになって両手で口を覆った。驚きと動揺がごちゃ混ぜになると、たぶんこんな感情なのかもしれない。     大きく深呼吸をする。細く、長く、ゆっくりと息を吐き出しながら、一応は冷静な自分もいた。待っていればそのうちここから出てくるはずだろうし、これは間違いなく声をかけるチャンスだ。自分に言い聞かせるようにそんなことを思ってはみるけれど、でも、どうやって、どんな一言をかければいいのか全く検討がつかない。鉄の扉を穴が開くほど見つめながら、それらしい言葉をいくつか呟いてみる。「こんにちは」「お疲れ様です」「雨止みそうにないですね」「ここのスタッフの方ですか?」「もうすぐ閉館時間ですね」、どれもこれもありきたりで、口にしたそばから消えていく。  記憶にすら残らないような一言を、投げ掛けたところで意味などあるのだろうか。と、自信のなさから言い訳がましく思ってしまったところで、再び鉄の扉が開き、彼が館内に戻ってきた。  心臓が大きくはね、一気に鼓動が早くなる。  彼に気付かれないように、咄嗟に物陰に隠れた。  結局は、大股に立ち去る彼の足音に、耳を傾けるのがやっとだった。  声をかける勇気もないくせに、自己嫌悪に陥る資格はない。それは、十分に分かっている。  彼の足音が聞こえなくなった頃、隠れている場所からこそこそと顔を覗かせた。まるで、いたずらが見つかってしまった子供のようだ。  一向に前に進まないこの状況と、想いばかりが募るだけの毎日が、かれこれ二年近く続いている。  だから、今の出来事は、私にとっては昨日とは違いすぎるわけで、もしもこれを、一歩前に進んだと言ってもいいのなら、初めて彼に声をかけられ、おまけに目まで合った。偶然と呼ぶのもおこがましいくらいの出来事だけれど、その偶然のせいで一向に動悸が治まらない。気持ちを落ち着かせるために、外の空気でも吸おうと重い鉄の扉をもう一度開けた。  さっきよりも雨足が強くなっている。さすがに外に出るには足元が濡れすぎていた。細かい雨粒がかかるのもお構い無しに、二、三度その場で深呼吸をしてから、ゆっくりと扉を閉めた。
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