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第20話 私の物語の始まり
あれから、二年の月日が過ぎ去った。
私は今、エフィムの故郷ヴァランデール王国の港町にいて、海が見える少し高い場所に家を買い、二人で穏やかな生活を送っている。
エフィムはカデットリ王国の騎士を辞し、今では何故かヴァランデールの貿易商人になってしまった。
「……商人組合で、また酒を飲む約束をさせられました……」
家に戻ってきたエフィムががくりと肩を落とす。港町の男たちは豪快で、酔いつぶれるとフェイ以上の悪戯が待っている。エフィムはまだ酔いつぶれたことはないものの、他の数々の犠牲者を見て恐れている。
この町に来た当初、港を散歩していた時に海賊商人と呼ばれる男と漁師が揉めているのを仲裁に入ったことがきっかけで、エフィムは海賊商人に気に入られてしまった。
海賊商人は海の向こうから運んでくる珍しい品々をエフィムでなければ売らないと言い出して、困り果てた港町の商人組合から貿易商として登録をするように懇願されて、商人となった。
「商売というのは、本当にわかりません。エミーリヤがいるからやっていけているようなものです」
「それは違うわ。海賊商人が持ってくる物が良い物ばかりだから私でもやっていけるのよ」
頬に大きな傷を持つ海賊商人の目は確か。適正価格も教えてくれるので、私は帳簿付けや注文の受付、発送の指示だけで、特に何もしていない。良い商品ばかりなので、在庫を抱えることもない。
海賊商人は二月に一度やってきて、エフィムとあちこち飲み歩く。その間、私は海賊商人の妻と買い物に行ったり、観劇に出掛けて楽しんでいる。
「メレフが会ったら、きっと喜ぶわね」
先月、メレフはフェイとその妻と一緒に遊びに来た。金色の髪と青い瞳は変わらないけれど、幼い頃のダヴィットとは違って凛々しい顔つきになっていた。何となく、エフィムに似てきたとフェイも思っているらしい。
フェイはメレフを養子にすることで、自分の教育係だった女性と結婚する許しを王から得た。三人は仲睦まじく、メレフも女性を母と呼んでいた。
「メレフに海賊商人の船で冒険の旅に出ると言われたらどうするのです?」
「一緒に行けばいいわ。もちろん私も」
私が笑うとエフィムも笑う。明るい空と海風が心を明るくしてくれる。
ダヴィットのことは、まだ忘れることができない。今、一体どうしているのか、今もあの屋敷で研究を続けているのか、時々気になって考えてしまう。
ダヴィットを愛して尽くし過ぎていたことは、ダヴィットに心理誘導されていたものだと頭で理解できるようになった今も、まだ心が受け入れられない。エフィムは未だに迷う私を温かく包んでくれている。
エフィムはこの国に来てから、ダヴィットのことは何も言わなくなった。王女のことは結婚した日から一度も口にしていない。エフィムは本当に王女のことが好きだったのだろうかと疑問に思うこともある。あれは私の為についた嘘なのかもしれない。
高台にある家は、エフィムと二人で選んだ。淡いベージュ色の石の壁、淡いオレンジ色の屋根。可愛らしいけれど二階建てで、部屋が十五ある。庭も広い。二人では部屋が多すぎると思っていたけれどお客を招くこともあるので、ちょうど良い。
温かい日差しと心地いい風が吹く広いベランダには、テーブルと椅子を置いている。エフィムが私に頻繁に贈ってくれる白い薔薇を見ながら、二人でお茶を飲むのが日課。
「今日はクッキーを焼いたの」
バターをたっぷり使った甘いクッキーは、エフィムの好物の一つになった。
「美味しいです」
クッキーが次々とエフィムの口に消えていく。エフィムは今も毎日庭で鍛えていて、食事量は変わっていない。大量に作るのは少し大変なことでも、美味しいと食べているのを見ると楽しい。
カデットリ王国の騎士でなくなっても、私を護る為に鍛えていると言われると恥ずかしくて嬉しい。あの時の騎士の誓いは一生有効だとエフィムは笑う。
「エフィム、私に白い薔薇を贈る理由はまだ教えてくれないの?」
度々理由を聞くのだけれど、エフィムは耳を赤くして黙ってしまう。
「!」
エフィムが手を止めて、辺りを警戒するように見回した。久しぶりに見る鋭い目つきはとても凛々しくて、胸がときめく。
『おい、エミーリヤ。来てやったぞ』
声と同時に赤い炎のような猫が姿を見せて、エフィムが肩を落として脱力する。
「お久しぶりね。元気だった?」
手を伸ばせば、腕の中に火の精霊が飛び込んできた。ふわふわとした体を初めて抱きしめると温かい。頬を摺り寄せると、エフィムが口を引き結んで眉尻を下げているのが見えた。
『俺は元気に決まっている。ん? 何だエミーリヤ、子供がいるじゃないか。そうか。ならば精霊の守護契約は子供とするか』
精霊の言葉の意味がわからなくて辺りを見回す。私に子供はまだいない。
「まさか……」
エフィムが立ち上がって私の腕の中の精霊を掴み引き剥がして放り投げた。
『おい、エフィム! 俺は猫じゃないぞ!』
精霊は猫のように空中でくるりと回転した後、見事に着地して、しっぽをふりながら怒っている。
「どうしたの?」
椅子に座る私の前に跪いたエフィムは、泣きそうな顔をしていた。
「嬉しくて言葉が出てきません」
私の両手をエフィムが大きな手で優しく包む。
「え?」
『ん? なんだエミーリヤ、自分で気が付いていないのか。腹に子供がいるぞ』
性別を言おうとした精霊をエフィムが止め、精霊がにやにやと意地悪な笑顔を見せている。猫の笑い顔を初めて見た。
「家族が増えますね」
「そうね。新しい家族が増えるのね」
恐る恐るエフィムが私のお腹を撫でるけれど、まだ全然膨らんでもいないし、私自身も感じない。
「エミーリヤ、私を幸せにしてくれて、本当にありがとう」
微笑むエフィムの言葉を聞いた途端、急に世界が明るくなったように思えた。
「あ……」
私はダヴィットから一度もお礼を言われたことがなかったと、今、初めて気が付いた。そう、それはダヴィットが王女に恋する前から。だからそれが当たり前だと思っていた。
お礼の言葉なんて要らないと思っていた。お礼が欲しくて世話をしている訳ではないと思っていたけれど、ありがとうという一言は、こんなにも心を明るくしてくれる。
「……お礼を言わなければならないのは私の方よ、エフィム」
心のこもったエフィムの一言で、目が覚めた。
エフィムはいつも私にありがとうと言って感謝してくれた。私もエフィムにありがとうと言って感謝していた。
「ありがとう。エフィムがいなければ、笑って、お互いに感謝してお礼を言い合えることが、こんなに幸せなことだなんて知ることも無かった」
「私、やっと目が覚めた。貴方がいなければ、私は自分の世界の中で閉じこもるだけだった」
愛されなくても自分が愛していればいいというのは、自分一人だけの幸せだったと、今、ようやく心が受け入れた。
「一方的に尽くすことが愛だと思い込んでいたけれど、違う愛もあるのね」
「そうですね。いろんな愛がありますが、お互いを認め合い、支え合う愛というものもあります」
エフィムの笑顔は優しくて、エフィムの腕は温かい。
私がダヴィットに向けていた愛は、一方的に尽くすだけのものだった。ダヴィットが私を愛していなくても、私が二人分の愛で埋めればいいと思っていた。それも幸せだったけれど、私が本当に欲しい愛ではなかった。
私は自分の望んでいた愛とは違うものが理想の愛だと信じていた。
お互いを想い合い、支え合う愛は本当に温かい。これが私が本当に望んでいた愛だった。
「今までごめんなさい。私、本当にどうかしてた。どうしてこんなことがわからなかったのかしら」
ありがとうと一言も言えない人に、私の心は捕らわれていた。受け取るだけで言葉すら返そうとしないダヴィットは、私とは価値観が全く違う人だった。
「悪い魔法使いが掛けた夢の魔法から、覚めたようなものです」
微笑むエフィムは私と価値観が似ている。もしくは合わせてくれている。
私はエフィムからたくさんの思いやりと、たくさんの愛を受けていた。それを少しでも返そうと、私は自然に行動していた。それは言葉や痛みによる誘導ではなく、心の中から湧き上がる感謝の気持ちからだった。
やっとわかった。これが愛されているということ。そして、この自然に沸き上がる気持ちが愛しているということ。
愛を受け取って、愛を返す。それは無限に続く愛のやり取り。
大切な相手の幸せを願い、互いを支えあう。
これが私が望んでいた温かい愛。人間の血が通った愛。
一方的にささげるだけの愛は、私が望んでいた愛ではなかった。
私の心は無理をして、私の心は歪に抑え込まれていた。
エフィムが私を抱き上げた。笑い声をあげ、ゆっくりと踊るように回ると世界が祝福してくれているように思える。精霊も笑っている。
相手に感謝することが自然なことだと気が付けば、世界はこんなにも明るくて優しい。ダヴィットへの気持ちとは全く違うエフィムへの気持ちが、私が本当に望んでいた愛だとようやく気が付いた。
「エフィム、……私、エフィムを愛してるわ」
「私も愛しています。エミーリヤ」
エフィムの笑顔はどこまでも優しくて明るい。その腕は優しくて力強くて安心できる。
「白い薔薇を贈るのは、永遠の愛を貴女に誓うという意味です」
耳を赤くしたエフィムが優しく囁く。
私が登場することの無かった美しく残酷なお伽話は、遠い過去に消え去った。
エフィムという騎士は、愚かな愛に囚われていた女である私を救い、私が見たことのない新しい愛の世界へと誘う。それはまるでお伽話のようだと気が付いた。
お伽話に取り残された私には、とても素敵な別のお伽話が用意されていた。
「必ず幸せにします。一緒に幸せになりましょう」
微笑む私の騎士は、優しく私を抱きしめる。
「ええ。私もエフィムを幸せにするわ」
幸せなお伽話を、幸せなまま続けるには努力が必要なこともあるだろう。どんな難問が立ちふさがっても、二人でなら乗り越えていけると信じることができる。
幸せなお伽話は、まだまだ続く。
きっと、これからが私の物語の始まり。私の人生の再出発。
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