序章

1/1
205人が本棚に入れています
本棚に追加
/116ページ

序章

 船頭だけを乗せた高瀬船を、見るともなく見ながら三条小橋を渡る。通りの左右に並んだ宿や茶屋などの前を通り過ぎ、河原町通りに出てすぐ右手の角を曲がる。そこからさらに二軒先へ行った所に、あの人が美味しいと言って食べていた最中屋がある。  店の前まで行き、近藤さんから頂いたお金をもう一度確認した。「買い物ついでに何か好きな物でも食べてきなさい」、そう言って握らせてくれたお金を、あの人のために使おうとしている自分がいた。近藤さんの気遣いには感謝しかない。だから、それに対しては申し訳ないと思うけれど、今の私には、あの人の喜ぶ顔が見たい気持ちの方が勝ってしまっていた。 「すみません、最中二つ下さい」  言ってから、付け加えるように一つは持って帰る事を伝えると、女将さんは、「旦那に?」と嫌味のない笑顔を見せた。旦那と言う言葉に照れてしまい、適当に笑って誤魔化した。  運ばれてきた最中を一つ取り、この為に用意してきた綺麗な手拭いでそれを優しく包む。もう一つの最中は、もちろん美味しく頂いた。  あの人は、今日も朝早くから稽古に勤しんでいる。戻ったら、最中をこっそり部屋まで届けよう。もちろん、温かいお茶も忘れずに持っていくつもりだ。あの人の笑顔を想像するだけで、頬が勝手に緩んでしまう。  どんなに急いでも、あの人はまだ稽古中なのだけれど、気持ちばかりがはやり、自然と早足になって行く。そればかりではないけれど、舗装のされていない道には未だに慣れず、つまずいて転びそうになり、たまたま目の前にいた綺麗な女の人と目が合うと、くすりと笑われてしまった。こんな時は、苦笑いでその場から逃れる他ない。  始めこそ、江戸時代と現代とでは全てが違いすぎて、文字通り毎日が必死だった。便利に慣れすぎた現代の人間がこの時代で生きるという事は、今までの固定観念を全てなかったことしなければ、体も心もついていけない。それくらい、時間というもののすごさを痛感した。それでも今では、ほとんど支障なく生活ができている。つまずくくらいは、ご愛嬌というものだ。  郷に入っては郷に従え、誰が考えたことわざなのか、同感と言うか、そうせざるを得ないと言うか。  遠くの山々を見上げれば、今年もまた、早咲きの桜があちらこちらで咲いている。  季節は確実に巡っている。  今日はまだ、暖かい。
/116ページ

最初のコメントを投稿しよう!