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第六話 短冊
(今年の梅雨は永遠に続くんじゃないかしら…。)
洗濯物を部屋に干しながら、ミホは少し心が重くなっていた。
それは洗濯物が乾かない、といった理由からではない。
この長雨のせいでジョギングが出来なくなっているからである。
元々ジョギング自体が目的ではなかった。
コースの途中で同僚の武田に会えるかも知れないから始めたのだ。
武田の壁打ちテニスに付き合えるかも知れなかったのである。
この雨では、それも叶わない。
雨それ自体は別に嫌いではなかった。
ただ、それにより何かが出来なくなるのは辛い。
それでなくても今年は、出来なくなる事ばかりだからだ。
(皆こんな天気の日は、どうしてるんだろう…。)
反対側の駅改札から続く商店街では、毎年祭りが在る。
七夕祭り。
商店街のアーケード部分を天の川に見立てる。
そして星や月の飾り付けで、通行人の目を楽しませた。
休日の日中には親子連れの為のイベントも開かれる。
ところが今年は全てが中止。
織姫と彦星もソーシャルディスタンスで逢えないらしい。
ソーシャルというよりユニバースではあるが。
毎年、商店街の真ん中の笹の葉に短冊が飾られた。
訪れた客が願い事を書いて下げたのである。
子供達や学生や恋人達が、思いを書き記していったのだ。
それを見ているだけで楽しかった。
なのに今年は笹も飾られずじまいである。
(今年の願い事は、殺伐としそうだもんね…。)
今年も一応、七夕祭りは開催されるらしい。
七夕の日を挟んだ一週間、商店街にてセールが在るのだとか。
勿論イベントも笹も無いのではあるが。
国の宣言が解除されて、店舗は店を開けていた。
それでも多数の人が集まってしまうイベントは中止されている。
何も無い夏の始まりでもあった。
(まぁ、セールだけでも行ってみよっかな…。)
七月に入っても、まだ梅雨は居座ったまま動こうとはしない。
休日のジョギングも殆ど出来ず、ミホも退屈であった。
武田との壁打ちテニスも暫く出来ていない…。
会社でも武田と話す事は多かった。
だがプライベートとは全く気分が違うのである。
また社内で噂になっても申し訳無いし、不本意でもあった。
ミホは公私混同が出来るタイプではなかったのである。
それは片山主任とも同様であった。
(早く梅雨が明けて、また皆で食事でもしたいな…。)
次の土曜日は時短労働で午前中までとなった。
七夕の前週末である。
ミホは商店街でセールを見て帰ろうと思っていた。
(夕飯の買い物が安く済むかも知れないし…。)
再開した図書館で借りてきた本をよんでいると、ラインの着信音。
久し振りの武田からであった。
『土曜日の仕事帰りに七夕祭りに行きません?
短冊に願い事が書けるらしいですよ。』
(武田クンは笹が飾られていない事を知らないんだ…。)
『今年は笹は飾られないみたいですよ。』
ミホは返信を打ちながら、とても残念な気持ちになっていた。
(賑やかな商店街を歩いて、短冊を書きたかったな…。)
ところが武田からの返信は意外なものだった。
『笹は無くても短冊は在るみたいですよ。
商店街のホームページ見て、良ければ返事下さい。』
『分かりました、待ってて下さい。』
(短冊が書ける…、どういう事だろう?)
早速、ミホはパソコンを開いてアクセスしてみた。
そして少し驚いた。
そこにはオンライン短冊のお知らせがトップだったからである。
要約すると…。
笹の葉に短冊を下げるのは今年は取り止めに。
だけど願い事をメールで送ると大型モニターで短冊になる、と。
それが商店街内に設置されたモニターに映るのである。
願い事が書かれた短冊のCGとして。
それは次のメールが送られるまで映され続けるらしい。
(うわぁ、素敵な事を思い付く人がいるもんだな…。)
その短冊は、ホームページでも同時に見れるのだ。
つまり離れていて会えない人にも見て貰えるのである。
ミホは直ぐに武田にラインを返した。
『楽しそう、行きましょう!』
『じゃ、土曜日に。』
これで実際の空模様よりも、心の中が晴れてきた。
やはり楽しみな予定が一つでも入ると気分が軽くなる。
ミホは片山主任にもメールした、一緒に行きたかったのである。
ところが主任は午後から打ち合わせであった。
『短冊には名前も書くんでしょ?』
『はい、そうみたいです。』
『じゃあ、ホームページで見てるから。』
『はい、見てて下さい。』
(主任が来られないのは残念だけど、仕方が無い…。)
そして土曜日の当日、ほんの少し霧雨が降っていた。
午前中のミホは仕事が疎かになりがちであった。
願い事を何にするか、そればっかり考えていたからである。
武田にも目の前で見られるし、主任にも見られる。
具体的にどんな願い事を、どう書けば良いのか悩んでいた。
早い終業時間が来てミホは退社した。
フロアを出る時に片山主任に手を振る。
資料を作っていた主任は、気付いて振り返してくれた。
駅のホームに降りると、武田がベンチで待っていてくれた。
どうしても女性の方が支度に時間を取られるので、先発していたのだ。
武田はスマホでデジタル短冊を見て楽しんでいる。
「みんな一生懸命に書いてますね、割と真面目に。」
「特に今は真剣になっちゃいますよね…。」
「うん、うん。」
改札を出た二人は商店街へと歩き始める。
もう霧雨は傘が要らないぐらいの弱さになっていた。
「願い事、思い付きました?」
「それが多過ぎて選べなくて、仕事中も悩んでしまって…。」
その言葉に武田は吹き出してしまった。
ミホの表情が余りに真剣で、答えとのギャップに耐えられなかったのだ。
そうこうしている内に、デジタル短冊のモニター前に着いた。
短冊が一枚また一枚とモニターに映されている。
『早く前の生活に戻れますように』
『がっこうでおしゃべりできますように』
『主人の在宅が早く終わって欲しい』
『転職が上手くいきます様に』
『さっさと給付金が振り込まれるように』
『おじいちゃんとおばあちゃんにあいたい』
大まかに、この類似パターンが目立っていた。
いつもの年とは様相が違う願い事ばかりである。
デジタル短冊を見ながら、二人は喋り続けていた。
久し振りのプライベートでのお喋りはミホにとって幸せであった。
(そっか、私の願い事はこれが続いてくれる事だ…。)
それをどうやったら上手く短冊に書けるかを考え始めた。
武田がミホに尋ねた。
「それじゃ、そろそろボク書いてもいいですか?」
「はい、お先にどうぞ。」
(武田クンの願い事って何だろう…?)
ミホは自分の願い事を考えながら、モニターを見ていた。
武田はスマホから、願い事を送信する。
「上手く反映されればいいんだけど。」
ほんの少しのタイムラグで武田の願い事は短冊になった。
『森さん、ボクと付き合って下さい。
TKD』
流石に照れくさいのか、名前はイニシャルにされている。
読んで直ぐに、ミホは頭の中が真っ白になった。
考えていた願い事は木っ端微塵に吹っ飛んだ。
久し振りの緊急事態宣言である。
モニターを見つめたまま動けなくなってしまっている。
武田は照れて隣で挙動不審になっている。
先程、小さな幸せが続いて欲しいと思った。
それが実現しそうなのだ、より大きな幸せとなって。
まだ短冊に願ってもいないのに。
「あっそうか、書かなきゃ…。」
ようやくミホはスマホに文字を打ち込み始めた。
武田がモニターの方に向き直る。
ミホが願い事を送信した。
モニターに新しいデジタル短冊が映し出される。
『喜んで。
ミホ』
たった一言。
だがそれは、確実に二人の人生を変える一言であった。
答えが映し出されてから、ミホは武田に笑顔を向ける。
武田は照れて俯いてしまっていた。
ミホの長かった梅雨は、たった今明けた。
その時、ミホにメールの着信音が聴こえる。
ラインではなくて、メール。
「あああっ、大変!
片山主任からですっ!」
「大変って、主任に何か在ったんですか?」
ミホは申し訳無さそうな表情を武田に向ける。
そして言いにくそうに告げた。
「この短冊、実は主任も見てるんです。」
「…!」
武田は絶句してしまった。
ミホは主任からのメールを読む。
そこには笑顔の絵文字と共に、こう書かれていた。
「近々、TKDのオゴリで焼肉行こう。」
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