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ただ、するりと小さな窓から差し出されたのは、細い指の白い女の手だった。
ほとんど光のないそこに現れた手は、手の甲に引き攣れたような傷跡があった。
「……!」
息を呑む俺の目の前で、その手はただ、そこにそっと置かれた。
招くでなく、掌一つ分だけ区切られた窓から差し出された、左手。
「……」
昼間じゃなければ、怪談話だ。
そう胸の内だけで笑って、俺はその手の上に俺の手のひらを重ねた。
その手は、逃げない。
ただじっと、俺の手の中でおとなしくしている。
俺は、そっと指先を絡ませるようにして握った。
伝わるのは体温だけで、それ以外の何もない。
声も、気配も、すぐ隣にあるのだろうそれにどれほど耳をそばだてても、何も聞こえない。
名前を呼びそうになった口を、閉じる。
そうして互いに黙ったまま、俺たちは暫くそうしていた。
やがて、向こうの部屋のドアが開く音がした。
ぼそぼそと何かの声が聞こえる。
すると、彼女の手は少しだけ名残を惜しんで俺の手を握る指先に力を込めた。
するりと離れた手を、今は追わない。
衣擦れの音。そして、ドアの閉まる音。
隣室から消えた気配を探して、俺は立ち上がれずにいた。
手の中に、残されていったものを体温ごと握りこんだ。
ゆっくりと指を開いて、目の高さにあげたものを確かめる。
何かの紋章が刻み込まれた古い指環は、記憶の片隅にあるものだった。
あの歓楽街で手を引いた時に。
「……追いかけるよ。こっちは各駅停車だけどな」
それは懺悔ではない、最後の言葉。
<終>
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