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おまけ2. ハリーの母親のお話
「君は若くして死ぬ」
のちに少女の師となる男はその少女を一目見て少女の抱く避けがたき未来を告げた。
これに少女は驚くことも泣くこともしなかった。目をしばたくことも唇をふるわせることもしなかった。ただ、いかにも怪しげな男に向かってこう言った。「分かりきったことを言わないで」と。
「今日明日には私は死ぬ。そうでしょ?」
実際、少女は限界にあった。力なく教会の床に横たわり、なけなしの命のかけらを消耗しながらこの初対面の男に語りかけている有様だったのである。
「戦争で街の人間はみんないなくなってしまったし、教会のみんなも昨夜の空襲で死んじゃったわ。……パトリシアもキャシーも、ドロレス神父も、シスター・マリアも」
逃げ遅れた、もとい他に行き場のない孤児達は、体を寄せ合うようにして比較的頑丈な聖堂で祈りを捧げていた瞬間を狙われた。
爆撃で天井にはぽっかりと穴が開いている。空は目に沁みるほど青い。今日はまれにみる快晴だ。
「でもみんなラッキーだったのよ」
空襲はあっという間のことだったから、孤児達のほとんどは恐怖を感じる間もなく天に召されたはずだ。クロスを握りしめた神父と孤児達を包み抱くシスターも……きっとそう。
今や息をするものは少女しかおらず、苦しんでいるのも少女一人となっていた。
それゆえだろう、奇跡的に生き残ったものの、少女はその奇跡を放棄しようとしていた。もうどうでもよくなっていたのだ。
これ以上何も考えたくなかった。
このままここで何一つ口にせずにいたら――みんなのように楽になれるはず。
「……いえ、死ぬ以前に私はもうおかしいのかもしれないわね」
ふふっと、少女が笑った。
それは昨夜の惨劇を目の当たりにして以来の笑みだった。
「どうして?」
不思議そうに問う男に「だってあなた、空に浮いているじゃない」と少女は言った。
男は少女の視線の先にいる。
つまり、仰向けの少女の真上――穴の開いた天井を背にしていた。
「あなた、死神? それとも天使?」
どっちだっていい。
私を現実から連れ出してくれるなら――。
だが縋るような視線を向けてきた少女に男は首を振った。
「いいや。私は魔法使いだ」
「……魔法使い?」
銃や大砲、戦闘機が普通に存在するこの時代に何を言っているんだろう。だがその疑問を口にするよりも早く、少女は自分の異変に『ようやく』気がついた。
目のくらむような虚脱感が嘘のように消えている。
喉の渇きも空腹感も消えている。
感覚すら失っていた四肢に力が湧いている――。
ぼんやりとしていた頭が活発に動く――。
ああそうだ、どうしてさっきから霞んでいた視界がクリアになっているのだろう。言葉をはっきりと口に出せていたのだろう。
「あなた……誰?」
これに男がほほ笑んだ。
「私はデイヴィッド。この世界に現存する四人の魔法使いの一人だよ。君の名は?」
「メアリー」
メアリー、とデイヴィッドが口の中で確かめるようにその名を呼んだ。
「私と一緒においで」
「あなたと一緒に?」
「嫌でなければ。けれど君が若くして死ぬことには変わりはないよ」
だがここでこのまま死ぬよりももっと幸福な死が君を待っている、そうデイヴィッドは言った。だからメアリーは差し出された手をとった。
*
それから長くも短くもない時が流れ――。
森の隠れ家で師と共に暮らしていたメアリーだったが、本人たっての希望で他国へと一人旅立つこととなった。
「師匠、今までありがとうございました」
旅立ちの前夜、深々とお辞儀をする弟子にデイヴィッドは苦笑いをする。
「大したことはしていないよ」
「ですが師匠は私の命を救ってくださいました。それにこうやって住むところと食事を与えてくださいました。魔法も教えてくださいましたし、それで無事住み込みの仕事を見つけることもできました」
力説する弟子にデイヴィッドがいよいよ困ったように頭をかいた。
「でも君が覚えた魔法って、出来のいい縫物を作れることだけだろう?」
「それは私に才能がなかったからです。師匠のせいではありません。それに私には雑用くらいが似合っているんです」
メアリーが他国の、しかも王宮にてお針子の仕事を得られたのは、まさに覚えた唯一の魔法のおかげだった。そんじょそこらの腕達者にひけをとらない制作物の数々を持参し面談に望んだ結果、平民、かつ孤児であるというマイナス要素を抜きにして無事採用を勝ち取ることができたのである。
ふ、とデイヴィッドがその顔を曇らせた。
「……けれど残念だね。もうあと二年でその命が終わるなんて」
魔法使いだからだろうか、デイヴィッドは普通の人間が口ごもるような事実を平気で口に出す。それはメアリーと出会ったあの日から今も変わっていなかった。
だがそういう師匠にメアリーは慣れていた。そして自分の残りの人生をすでに当たり前のこととして受け入れていた。だから今も困ったように笑っただけだった。
「もっと長く生きられたら、君はきっと素晴らしい職人になれただろうに」
残念がるデイヴィッドに「しょうがないですよ」とメアリーは言う。
「そういう運命なんですから」
「でもねえ」
「短い人生だと分かっているからこそ毎日が楽しいんです」
「……だったら残りの人生もここで私と過ごせばいいのに」
「嫌ですよ。いろいろな世界を見たいし、いろいろな経験を積みたいんです」
すまし顔で言うメアリーにデイヴィッドが目を細めた。
「ではせめて君の残りの人生に幸多からんことを祈ろう」
「お祈りは結構です」
「どうして。私の祈りはただの祈りじゃないよ?」
「でも師匠が言ったんですよ? 私には幸福な死が待っているんですよね。それで充分です」
「……そういえば。どうして君は私の言葉をそうも信じるんだ?」
出会った日から、今まで――。
これにメアリーが迷いなく答えた。「信じたいからです」と。
「信じてきたものすべてに裏切られ、大切なものもすべて壊されてきました。いい子にしていれば戻ってくると言っていた両親も、信じていれば救われると書かれていた聖書も、絶対に負けないと叫んでいた政治家も。……でも師匠は違いました。師匠のおかげで私は信じる気持ちを取り戻せたんです」
訝し気な表情になったデイヴィッドにメアリーがにこりと笑った。
「誰でもいい、何でもいい……何か一つでも信じられるものがあればそれが力になるんです。それがないともう一日、一秒だって生きていけないんです。それを教えてくれたのも師匠です」
あの日差し出された手の温もりをメアリーは忘れていない。
「師匠は私に生きる勇気をくれました。……この勇気があればなんでもできるって思えるんです」
「なんでも?」
「ええ。あと二年しか、じゃないんです。あと二年もあるんです。私の人生は。ここにいてもすごく幸せだけど、もっともっと幸せになってみたいんです。幸せってすごく嬉しいものだから。それを教えてくれたのも師匠です」
ありがとうございます――再度感謝の気持ちを伝え、メアリーは長くも短くもない時を過ごしたデイヴィッドの家から巣立っていった。
*
デイヴィッドが知り得ていた未来図のとおり、その後メアリーは皇子と恋をした。身分を超えたその恋は皇子の強い願いのもとに婚姻という形で成就した。
そしてメアリーは死んだ。
産まれたばかりの息子と愛する夫を遺して――。
デイヴィッドは今も隠れ家に住み続けている。太陽のような笑顔を振りまき続けた少女のいない、闇色の使役猫が一匹いるだけの薄暗い家に。
「これでも私は君の幸せを心から祈っていたんだよ……メアリー」
あの日――。
十数名の遺体の横に無表情で横たわるメアリーを見た瞬間、デイヴィッドは迷った。
このまま放置すれば、この少女は明日には死ぬだろう。
だが自分が拾っても十数年後には――死ぬ。
だったら今すぐ楽に死なせてやるべきではないだろうか――?
今、痛みなく眠るように死ぬ方がよほど幸福なのではないか――?
デイヴィッドは悩んだ。
だが――命の灯火を消す直前でありながらも少女は美しかった。
そう、メアリーは皇子が心惹かれるのも当然というべき美少女だったのだ。
惜しい、と思った。
美しいものが消えゆく様を――惜しいと。
だから生かした。
なのに――。
「……まったく、弟子のくせに生意気だ。こんなにも私に悲しい思いをさせるなんて」
あと二年で死ぬ、と忠告したのに。
なのにどうして結婚なんて。
しかも子を成すなんて――。
デイヴィッドが深いため息をついた。誰も聞く者はいなかったが、そのため息には魔法使いの嘘偽らざる哀悼と悲哀の気持ちが含まれていた。
『にゃああ』
膝の上で使役猫が不機嫌そうな声で鳴いた。
「ああ、すまないね。ジャスパー」
背中をなでてやると使役猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「だが君の兄弟はあの子の天使のそばにいるんだろう?」
『にゃああ』
「だったら大丈夫だ。あの子の天使もあの子と同様に孤独の星を背負って生まれているが、君の兄弟達が守護していればその星を砕く運命を引き寄せることができるだろうからね」
『にゃああ!』
大きな声をあげた使役猫――だが実はこの猫、先程から一度も口を開いていない。それどころかぴくりとも動いていない。ジャスパーはメアリーが初めて縫い上げたぬいぐるみだった。
とある想いを込めて縫うことでぬいぐるみに不思議な力を与えるこの魔法、実はメアリー自身は発動していることすら気づいていなかった。
贈り主のことを想って一針一針縫っていく――それだけがコツの、デイヴィッドには絶対に真似できない魔法。
まぶしくて、こそばゆくて、でも何よりも尊い想いを込められたぬいぐるみ――。
「ジャスパーはずっとそばにいてくれるんだろう?」
このぬいぐるみは私のために、私一人のために縫われたものだとデイヴィッドは知っている。
『にゃあああ!』
ひときわ大きく使役猫が鳴いた。
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