3.ベッドにつれていっても、いい?

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3.ベッドにつれていっても、いい?

 この国は若き皇帝陛下によって統治されています。  先帝である父君がお亡くなりになり、若干十五歳で急遽帝位を継がれた皇帝陛下は、以来五年、その天性の手腕によってこの国をまとめられています。  統治者としての才覚のみならず、天によって万物を与えられた稀有なお人――それが皇帝陛下という方なのでございます。その気質も物腰も――外見も何もかも、人を惹きつける天性の魅力を有する素晴らしい方なのでございます。  そのため、若き女性のみならず、老いも若きも、国民の誰もが皇帝陛下に敬愛の念を抱いておりました。  ですがただ一つ、国民の多くが不思議に……いえ、不満に思っていることがありました。  それは皇帝陛下がいまだ妃を娶ろうとしないことでした。  ですが国民は知らなかったのです。  皇帝陛下には長年想いを寄せていた女性がいることを――。  最近、その女性とようやく両想いになったばかりだということを。  その女性とはついこの間初めてキスしたばかりで、つまりは相当な奥手だということを。  そして一つの未来を決断したことを――。  ◇◇◇  その皇帝は今宵もひたすら激務をこなしていた。朝から晩まで働きづくめなのは、根が真面目で、任や義務に忠実で、かつ己がなすことに慎重な性格の所以だ。どの特性も国の大事を司るにふさわしいものなのだろうが、当の本人にとっては難儀なこと、このうえない。  それでも、若くして皇帝となったがゆえに、彼は常に己を叱咤し研鑽する日々を過ごしていた。綱渡りのような心境、そうたとえれば彼の内面を理解しやすいかもしれない。しかし、彼は公の場では皇家の人間特有の微笑みを欠くことはなかった。水面に浮かぶ白鳥の優雅さや華やかさを知る者は多くいても、水中でばたばたと動く足を知る者はごく限られた者だけなのである。  そんな彼が突然筆を止め、机の上に置き、 「アラン、困ったことがあるんだが」  などと悩まし気に言い出したものだから、若き騎士アランはおやと思った。 「どうかなされましたか、陛下。……いえ、ハリー様」  今は皇帝と臣下という関係だが、ハリーとアランは学友同士だった。二人きりの時にはこうして名で呼び合う程度には、今も心が通じている。そう、ソフィー以外にも皇帝の名を呼ぶ者はいて、アランはその数少ない人間の一人なのだ。まあ、だからこそ、この年齢で皇帝付の騎士などという破格の地位を得ているわけで。  すると皇帝――ハリーが突如その麗しい顔を机に伏せ、目にも眩しいブロンドの頭を抱えだした。 「どどど、どうされたのですかっ?」 「……かわいすぎるんだ」 「は?」 「ソフィーがかわいすぎるんだよ」 「ソフィー? ああ、あなたの想い人のソフィーのことですね」  アランはハリーを介してソフィーと知り合っていて、その当時から二人が両片想いにあることを見抜いていた。 「ハリー様は本当にソフィーのことをお気に入りですね」  やれやれと眉を八の字にしたアランのことを、ハリーがきっと睨みつけた。 「お気に入りじゃない」  この話は執務を終えたハリーがプライベートルームに戻っても続いた。 「僕はソフィーを心から愛しているんだ。お気に入りだなんて、玩具に対して言うような言葉は不適切だろう」  この部屋までの護衛が終わればお役御免、今日の任務は終了のはずが、アランは帰ることもできずに話に付き合っている。実はこういうことはしばしばあって、ハリーがすっきりするまでは話をさせてやる方がいいことを、アランは経験上知っていた。 「失礼しました」 「うん、分かればいい」 「そういえば。ハリー様は彼女と想いが通じ合ってからもう四か月がたつんですね」  もう、というところに言外に嫌みを込めてみたものの、ハリーにまたも睨みつけられる結果となってしまった。 「もう四か月じゃない。まだ三か月と二十六日だ」  まったく、ソフィーのこととなると面倒な人間になるな、と内心思いつつ、「そうでした。まだ三か月と二十六日でした」と素直に訂正すると、これにハリーが満足気にうなずいた。 「僕のプリンセスは出会った頃から光り輝いていたけれど、その愛らしさと美しさは年々磨きがかかっている。とくにこの頃のソフィーときたら! もう眩しすぎて直視できないくらいだよ!」  お前もそう思うだろう、と目線で問われ、アランは苦笑いを浮かべつつ首肯した。 「ですね。確かにソフィーはきれいになりました」  たまに見かける姿は、着飾ってなどいないのに凛とした美しさを纏っていて、さすがは皇帝陛下がその御心を寄せる女性なだけはある、と都度分析してしまう。出会った頃はもっと野暮ったい感じの少女だったのだが、時の流れと恋心とは……恐ろしいものだ。 「だろう? ソフィーは天使か女神なんだろうって本気で疑う時があるよ」  アランは嬉々と語るハリーからそっと目を逸らした。  あなたの方がよっぽど眩しいですよ、と思いながら。  人並みの経験をしてきたアランには、恋に盲目になれる幼馴染のほうこそ眩しく感じられるのだ。自分はとうに失ってしまった純粋さやひたむきさ……同性であり同い年であり、青春のひとときを共に過ごした友であるからこその――複雑な感情。  アランが動かした目線の先、チェストの上には見慣れた二体のうさぎのぬいぐるみがあった。この二体はアランの知る限りいつもここに置いてある。それがハリーの母が手ずから縫った大切なものであることをアランは重々承知している。だから一目見てすぐに気がついた。 「あれ。ベンジャミンの耳、片方曲がってしまったんですね」  あんなにピンと立っていたのに。  それにピーターの背中の縫い目が少しほつれていることにも気がついた。 「あー……それは、な」  口ごもるハリーは珍しく、察したアランはそれとなく話題を元に戻した。 「で、ソフィーがかわいすぎて直視できなくて大変だと、そういうことですか?」 「あ、ああ。そうなんだ。どうすればいいんだろうね」  真剣な面持ちでうなずかれ、アランはやれやれと肩をすくめてみせた。 「だったら目をつむっていればいいじゃないですか」 「なるほど。では今度試してみることにするよ」  ハリーが至極真面目にうなずいてみせた。  *  ああもう、茶番は勝手にやってろ。  こっちはそれどころじゃないんだよ。  ベンジャミンがしくしくと泣いている。  いや、ぬいぐるみだから実際には泣くことはないんだけど、そういう悲しみに包まれた心の波動は伝わってくるわけで。 『……ベンジャミン、泣くなよ』 『泣きたい気分なんだ。放っておいてくれないか』  昨夜からこんな状態がずっとつづいている。  だけど腫れ物に触るかのように接するのにもいい加減限界がきているわけで……。 『耳が折れてもお前はお前だ。だろう?』   綿しかつまっていない頭でようやくひらめいたなぐさめの言葉、それを嘆く友にかけたところ、 『はあ?』  当の友、もとい腐れ縁からはいらっとする応答がかえってきた。 『耳なんてどうでもいいよ』 『はあ? じゃあなんで昨夜からずっと泣いてるんだよ』  これにベンジャミンが見下すような視線を送ってきた。 『また二人のいいところを見逃したからに決まってるじゃないか』 『二人のいいところ……って、ああ、あれか。昨夜のあれのことな』  ハリーとソフィーの修羅場からの大どんでん返しのことだ。 『……ピーターはしっかり見たんだよね』 『そりゃあ見たよ。目の前でやられてたんだぜ?』  これに、限界まで膨らませた風船がぱんっとはじけるように、ベンジャミンがわあわあ叫び出した。 『なんでピーターばっかり! 僕だって見たかった! ハリーがソフィーを押し倒しているところ! ぶちゅーっとしているところ!』 『あのなあ。俺は肝を冷やしながら見ていたんだぜ』  ぬいぐるみには肝はないが、このたとえこそがぴったりと当てはまる――昨夜はそういう出来事のオンパレードだった。 『ものすごく怖かったんだぜ。ハリーがあんなに怒ったところは初めて見たし、あんなふうに俺達やソフィーを乱暴に扱ったこともなかったからさ』  その後、二人は和解したけれど――もう二度とあんなことは起こってほしくない。 『ソフィーが悪いんだぜ。ハリーと別れた方がいい、なんて言うからさ』  思わずソフィーにケチをつけると、 『でもそれはソフィーの立場なら仕方ないよ』  だって一般人だもんね、と続けたベンジャミンの声がやけに冷たく聴こえて、言い出しっぺのくせになぜかかちんときた。 『ソフィーはいい子だ! それにメアリーだって一般人だったじゃないか!』  俺達を作った人間、メアリーは城付きのお針子の一人だった。つまりはただの雑用要員だったんだ。それが時の皇子に見初められて結婚し、皇妃となったわけである。すごいだろ?  俺達を作っている間、メアリーは本当に幸せそうだった。日々膨らんでいくお腹をなでながら、丁寧に布を裁ち、針を刺し、綿をつめ――そしてハリーを産んだ。それから十日後には亡くなってしまったけれど、俺達を作っている時のメアリーはいつも笑顔を浮かべていた。  その隣にはメアリーと同じくらいにこやかにほほ笑むオリヴァー――ハリーの父親もいて、オリヴァーも心底幸せそうに微笑んでいたんだ。  絵に描いたような幸せなひとときがそこにはあったんだ。 『ハリーが幸せになるためには絶対にソフィーが必要なんだ。それくらいお前だって分かっているだろう、ベンジャミン?』 『……だね』  しぶしぶうなずいたのは、こいつだってハリーとソフィーの幸福を願っているからだ。きっと内心、嫌なことを言っちゃったな、と自己嫌悪にひたっているはずだから、 『まあまあ。それはそうとして』  話題を変えてやることにした。 『なんか背中がすーすーするんだけど、俺、変じゃね?』 『あ、ピーターの背中、縫い目がほつれてるよ』 『なにい?』 『白い綿が見えてる』 『ななな、なんだと?』  せっかくメアリーが詰めてくれた綿なのに。 『あれ? なんか奥が光った。ね、ピーター。縫い目の奥に何かあるよ。銀色の何かが』 『あ、これか?』  俺は少しばかり自慢したくなって胸を張ってみせた。いや、そんな雰囲気を醸し出してみたってだけなんだけど。 『これ、婚約指輪なんだぜ』 『婚約指輪?』 『その昔、メアリーがオリヴァーからもらった指輪だよ。懐かしいなあ、メアリーが入れたいって言い出してさ、オリヴァーが止める間もなく詰め込んで、さっさと背中を縫い上げちまったんだ』  言い出したら意外に頑固な奴だったんだよな、と遠い目になりかける。  そんな俺のことを現実に引き戻したのは、ベンジャミンの恨みがましい声だった。 『……僕にはそんなもの入ってない』 『そうなのか?』 『だって僕の体、軽いもん』 『ああ、だからお前、すぐに落っこちたり遠くに吹き飛ばされちゃうのか。おっと、アランがまたこっちに来たぞ』  ずっと向こうでハリーと話し込んでいたアランが、俺達に向かって歩いてくる。  * 「で、そろそろこのうさぎの出番というわけですか?」  アランの目があらためてうさぎ達に向く。  二十年前に造られたものだから、布の色は褪せつつあるし、ところどころに汚れが染みついているが――このぬいぐるみの真価は別のところにある。それを知るものはごくわずかだ。ソフィーですら知らない。 「ああ。そのような未来を紡ぎたいと考えている」  背を向けていても、ハリーの意志の強さと覚悟のほどは伝わってくるようであった。 「どうすればスムーズに事を成せるかずっと考えてきたけれど……僕と彼女の意志さえ強ければ他のことはどうとでもなると、それを確信するに至ったんだ」 「確かに。あなた様は今ではそれだけの力を有しておりますからね。で、それはいつ実行されるおつもりなのですか?」 「今夜だ」 「今夜? それはまた……急ですね」 「急ではないよ。それ自体は昔から決めていたことだからね」  アランが振り返ると、視線を受けたハリーがやや首をかしげてみせた。どうした、とその目が疑問を語っている。自分の発言に間違いがないことを確信しているがゆえの仕草だ。  あの奥手な友が……と、アランが感慨深い気持ちになったところで、コンコン、と控えめなノックの音がした。 「失礼します……アラン様?」 「やあ、ソフィー」  話題の女性、ソフィーの登場だ。 「アラン様もいらしてたんですね」  嬉しそうに、でもほんの少し寂しそうになる辺りが初々しいな、と思いつつ、 「ああ。皇帝陛下からためになるお話を伺っていたところだよ」  そうアランが答えると、ソフィーがスカイブルーの瞳をきらめかせた。 「どんなお話ですか?」  これにアランがさらりと言った。 「この国の未来に関わる重要な決断について、かな」 「おい、アラン!」  目をぱちくりとするソフィーは、元々察しのいいタイプではないこともあり、話の真意は読めていない。 「もういい。下がれ」  語気を強めたハリーに、アランは素直に従った。 「はい。それではこれにて。ソフィー、またな」 「はい。お疲れ様でした。おやすみなさい」  お辞儀をしながら扉が閉まるまで頭を下げていたソフィーは、突然背後から抱きすくめられて、小さく声を上げてしまった。 「きゃっ」  振り返ると、すぐ横にすねた表情をするハリーがいた。 「こら、ソフィー。僕という男がいるのに他の男とばかり話しているなんてひどくないかい?」  肩の上に載せられた顎の感触、頬に感じるさらさらした髪の動き、鼻腔が捉える魅惑的な香り、そして背中一面に感じる体温――。  もう一度横を見れば至近距離でハリーと目が合って、ソフィーの心臓がさらに跳ねた。  これだけ距離が近いと、どうしても昨夜のことを思い出してしまう。  突然押し倒されたのにはすごく驚いたし、怖かった。でも、相手はハリーだったから……この世界で一番好きな人だから……それだけでどきどきしてしまう単純な自分がいたのだ。……今もそう。  ――とても強引なキスだったな、と思い出す。  キスにもいろいろあることは知っていたけれど、実際に体験してみれば頭が真っ白になった。跳ねまくる心臓は口から飛び出しそうだったし、このまま死んでしまうんじゃないかと思うほど苦しくて――なのにやめてほしくなくて。ずっとずっと、キスしていたくて。触れていてほしくて。  だから昨夜は自分からキスの続きをねだってしまった――。  かああ、とソフィーの顔が赤くなっていく。  やや本気ですねていたハリーだったが、ソフィーの変化に気づけば留飲を下げるほかなかった。自分とのキスを思い出して頬を染めてくれるなんて、本当にかわいい人だ……と。  やれやれといった具合にハリーの眉が下がっていく。 「まあいいよ。ね、こっちに来てくれる?」  ソフィーの手を引いてソファーに座らせる。  そこにハリーがチェストの上に置いてあったうさぎを一体持ってきた。  * 『ええっ! 僕は連れていってくれないの?!』  チェストの上ではベンジャミンがショックで呆然としている。  俺はそれに申し訳ない思いを抱いた。  ごめんよ。でも俺の体の中には婚約指輪が入っているんだ。ハリーが大きくなったら婚約者に贈ってほしいの、そう生前のメアリーが言っていた大切な指輪が。 『この指輪には贈り主のことも贈られた相手のことも、どちらも幸せにする力があるんですよ』  そうメアリーが幾度となく言っていたのを、俺もオリヴァーも確かに聞いている。  この時のメアリーの願いはオリヴァーからハリーに伝わっている。本当に幸せにする力があるかはわからないけどね……と、悲し気に付け加えられてしまったけれど。  * 「ソフィー、聞いてほしい話があるんだ」  真剣な面持ちで告げたハリーに、ソフィーの顔から笑みが消えた。  その胸に苦い何かが広がっていく。  昨日まで、ソフィーはハリーとの関係に悩んでいた。このまま自分のような庶民が皇帝であるハリーと恋をしていてもいいのだろうか、と。もう別れた方がいいのではないか、と。それゆえ、ハリーの表情一つで不安になってしまったのだ。  ハリーはソフィーの様子に気づくや、ふっと笑みを浮かべてみせた。 「大丈夫。ソフィーの心配するような話じゃないから」 「そう……なんですか?」 「うん。このうさぎの話をしたいんだ」  まだ少し硬さの残る表情でハリーが唐突に言い出した。 「ピーターの、ですか?」 「そう。母上は僕にピーターとベンジャミンを遺してくれたけど、でもそれだけじゃなくてね」  言うや、大胆にぬいぐるみの背のほつれた部分に指を突っ込んだ。  そして澄んだ大粒のダイヤの指輪を取り出してみせた。 「これは……?」  ソフィーは思わず息を飲んだ。 「こんなに大きなダイヤ……見たことがないです」  庶民には一生縁のない代物だ。 「これは父上が母上に渡した婚約指輪なんだ」 「婚約、指輪……」 「ソフィー」  急にハリーがあらたまった声を出した。 「君にこの指輪を受け取ってほしい」 「ハリー様?!」 「僕と結婚してくれないか」  まん丸に目を見開いたソフィーだったが、ハリーが本気であることを察するとその両手を胸の前で握りしめた。  みるみるまにその両手が震えだす。  さっきまで紅潮していた頬から血の気が失せていく。  事の重大さに――何も言えなくなっている。  ハリーはソフィーの手をとると、その硬直した指を、硬い蕾をほぐすように丹念にひらきながら語り出した。 「……母上はこう言っていたそうだ。この指輪には人を幸せにする力があると。贈り主のことも、贈られた相手のことも……どちらも幸せにする力があるのだと」  ぽつり、ぽつりと語っていく。 「父上はそうは思っていなかったようだし、僕も母上の言葉には賛同しかねていたけれど……でも分かったんだ。母上はやっぱり幸せだったんだなって」  言葉を重ねていくとともに、ソフィーの指がゆっくりとひらかれていく。  気づけば、ソフィーは語るハリーの横顔を食い入るように見つめていた。 「父上も母上と出会ったことを後悔していなかった。僕もこうしてこの世に生を受けることができて幸せだ。だからみんな……幸せなんだ……」  ひらききったソフィーの両手を、より大きなハリーの手が包み込んだ。 「僕は父上のことが好きだ。それに、たとえ声を聞いたことがなくても、触れた記憶もなくても……母上のことが好きだ。二人とももう亡くなっているけれど、そんなことは関係ないんだよ。好きだって思う気持ちは確かにここにあるんだから」  握るソフィーの両手ごと、自分の胸の中央をとん、と叩いてみせた。 「僕はね、この国のことも好きだよ。僕が皇帝であろうとなかろうと関係なく、ね」  そして、恋人の独白にずっと言葉を失っているソフィーのことを、その紺青の瞳で覗き込んできた。 「それにね……僕は皇子であったからこそ君と出会えたんだと思っている。この広い世界の中で、君というすばらしい人に」 「ハリー様……」 「今、僕は僕の好きなもののために、好きな人々のために皇帝を務めているんだよ。嫌々でも義務だからでもなく。だからこれからも僕は皇帝で在り続ける。それが僕の幸せに繋がるんだ」 「は、い」 「でもそれだけじゃまだ足りないんだ。ソフィー、僕は君がほしい」  ソフィーの薬指に、不似合いなほどに豪奢な指輪が滑るようにはめられた。  重みで下がりかけた手は、ハリーによってしっかりと支えられた。 「色々とわがままでごめん。でも僕は君が欲しいんだ。ずっとそばにいてほしい。苦労させることも、嫌な思いをさせることもないとは言い切れない。でも僕が全力で君を護るから」  最初は分からない程度だったが、段々と早口になってきた。 「神や月に誓わなくても生涯君一人を愛し抜けるし、約束を違えることも決してしない。君だけだよ、僕が心から愛しいと思える人は」  だがアランが感極まったハリーの男気も、ここにきて限界が来たようだった。 「あ、あのさ」  先ほどまでの立派と称えることのできる告白から一転、あわあわと取り繕うように語っていく。 「答えはいつでもいいから。ずっと待ってるから。あ、でも断るのはなしだよ。僕はソフィー以外には愛せないんだから。十年でも二十年でも、いい返事をもらえるまでおとなしく待てるから。だから断るのはなしだよ。うん」  もう自分でも何を言っているか分からなくなっている。 「あ、でもキスしたりハグしたりするのはゆるしてくれる? それに今までどおり会ってほしい。もう会えないなんて言われたら……僕……」  最悪の状況を想像してしまい、語尾がかすれた。 「昨夜も……僕と別れるなんて言うから……すごくショックで……」  ごめん、と、様々な事柄に対する自責を込めてうなだれたハリーだったが、 「私達、二人で幸せになりましょう」 「……え?」  思いがけない即答にぱっと顔をあげると、目が合った瞬間、ソフィーがほほ笑んだ。 「今も幸せですけれど、もっともっと幸せになりましょう? この指輪にはハリー様と……そして私を幸せにしてくれる力があるんですよね。だったら私達、きっともっと幸せになれます。その幸せって、私達が共に生きることで得られるもの……なんですよね?」  ほほ笑みながらも、ソフィーの目がゆっくりと潤んでいく。  スカイブルーの瞳が真摯にハリーを見つめている。 「ああ……! そうだよ、ソフィー! 愛している。絶対にもっと幸せになろう。きっとできる。僕達二人ならきっと……!」  * 『うわーん、よかったよおー』  チェストの上でベンジャミンが泣きだした。  雄のくせにかっこ悪いと思わないでもなかったが、俺は何も言わずにおいた。こんな時に水を差したら悪いだろう? いや別に、俺も泣きそうになっているわけじゃないから。声が出なくなっているわけじゃないから。うん、本当だぜ。嘘言ってないから。……言ってないから。 『ハリー! ソフィー! おめでとう……!』  常にクールを気取っているベンジャミンが感極まって号泣しだした。  でも、その気持ちは俺にもよく分かった。  指輪がなくなった分、体が軽くなったし、穴の開いた背中はすーすーしっぱなしだけど、ぽっと温かいものを体の奥の方で感じるのは――きっとすごく嬉しいからだ。  ――あとでピーターの背中を縫ってあげないといけませんね。  おお、こんなときだというのにソフィーは相変わらず優しいなあ。  ――ところでベンジャミンには何も入っていないんですか?  ああ、それは言っちゃあいけないことだ。  だがそれに対してハリーが動いた。チェストの上に取り残されたベンジャミンを手に取り、戻ると、  ――ここ、触ってみて。  ベンジャミンの最近曲がってしまったばかりの耳をソフィーに指し示した。  ――あれ? 何か紙のようなものが入ってますね。  ――これは父上が母上に初めて出した手紙なんだって。でもってこっちの耳には求婚した際の手紙が入っているらしいよ。 『えっ。そうなの?』  ソフィーの手の中でわんわん泣いていたベンジャミンの動きがぴたりと止まった。 『……全然知らなかった。ちえっ。メアリーの奴、教えてくれたらよかったのに』  実は俺は知っていた。覚えていた。  ベンジャミンより一週間早く制作された俺は、その様子を全部この目で見ていたんだ。  でもオリヴァーには内緒で仕込んでいたから、故人の名誉にかかわるといけないと思って黙っていたのだ。  あれ? でも……。  そしたらハリーはどうして手紙のことを知っているんだ?  疑問はちょっと考えたら解けた。きっとオリヴァーはそのことを知っていたんだ。メアリーから聞いたのか、はたまた手紙を仕込んでいる現場を目撃したのかは分からないけれど。  ――ハリー様。  ――なんだい? 僕のプリンセス。  ――私がうさぎを縫うとしたら、どんなものがいいと思いますか?  俺とベンジャミンを両手に持って、顔の横で振りながら、ソフィーが茶目っ気たっぷりに訊ねた。  と、思ったら。  ――ああ、ソフィー!  たまらずといった感じで、ハリーがソフィーのことを抱きしめた。  ――僕との赤ちゃんを望んでくれるんだね。ありがとう、ソフィー!  ――え、え?  目を白黒させている様は、何も考えずに発言したせいだ。  けれど、誤解を解かんとばかりにソフィーが口を開きかけた――その時。  ――ね、ベッドにつれていっても……いい?  これ以上は耐え切れない、といった様子でハリーが爆弾発言をかましてきた。 『だからさあ!』  これは突っ込まずにはいられないぞ。 『そういうことは訊くんじゃないっ! それにせっかちすぎるぞ! お前、さっきプロポーズしたばかりだろうが!』 『うるさいピーター。ちょっと黙ってて』  くそ。ベンジャミンの奴、すっかり観察モードに入ってやがる。 『今度こそ二人の初めてを見るんだ!』 『おいおい。さすがにそれはまずいんじゃないか』  一応制したところで、浮かれうさぎの耳には俺の言葉が届くわけもない。それどころか、 『僕達の仲間ができるかもしれない大切な瞬間だろ?』  理屈になっていない返答をかましてきた。  *  さすがの急展開にソフィーはついていくことができないでいる。  婚約を受け入れること自体、相当な覚悟が必要だったのだ。それをこの短時間でしてみせただけでも自分自身を褒めてあげたいくらいなのに――次はベッド? 「あの、その」  と、体が空にふわりと浮いた。 「さあ、ソフィー。行こうか」  瞬きする間もなく、横抱きにされてしまった。  不安定な体勢に思わずハリーの首にしがみついたら、見上げたハリーの目元がほんのりと赤くなった。  あ、了承したと誤解されてる――そう気づいたものの、ハリーはソフィーを抱えてさっさと歩き出してしまった。違うんです、なんて訂正する雰囲気はどこにもない。  ハリーの向かう先には、一枚のドアがあった。  そこには本当の意味でのハリーのプライベートルームがある。だからソフィーはこれまで一度も足を踏み入れたことがない。  そのドアをハリーはソフィーを抱えたままで器用に開けた。  ノブが回る。  かちゃり、と金属音が響く。  きいっと、軽い音を立ててドアが開いていく。  この先には未知の世界があるのだと思ったら、ソフィーはとっさにハリーの首に回す腕に力を込めていた。  そんなソフィーのことを、ハリーが優しく抱きしめ直した。 「ソフィー。僕のプリンセス。僕と共に生きてくれると決めてくれて……ありがとう」  泣く寸前のような声は、ハリーがどれほど感動しているかをソフィーに正確に伝えてきた。 「僕はソフィーとならどこにでも行けるよ。ソフィーのためならなんでもできる。ソフィーさえそばにいてくれれば……。ソフィー……本当にありがとう……」  見つめ合えば、恐怖よりも何よりも、本音がソフィーの口からするりと出てきた。 「わ、私も嬉しいです……」  心からの感謝は、ソフィー自身が抱いていたものだったから――。 「私の方こそ……ありがとうございます……」 「……うん」 「これからも……ずっと一緒にいてください……」 「……うん。ずっと一緒だ」 「……あのっ」 「なんだい? 僕のプリンセス」 「今日は優しくしてください……ね?」 「ああ、もちろんだとも……!」  満面の笑みを浮かべたハリー。  遅れて満開の花を咲かせたような表情になったソフィー。  二人は顔を寄せ合い、キスをし、もう一度見つめ合い、微笑み合い――それから部屋の奥へと消えていった。  * 『おおーい、俺らを置いていくなよ!』 『僕も連れていってよ!』  二体のぬいぐるみの願いもむなしく、恋人達はドアの向こうへと消えていった。
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