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1.キス、していい?
この国は若き皇帝陛下によって統治されています。
先帝である父君がお亡くなりになり、若干十五歳で急遽帝位を継がれた皇帝陛下は、以来五年、その天性の手腕によってこの国をまとめられています。
統治者としての才覚のみならず、天によって万物を与えられた稀有なお人――それが皇帝陛下という方なのでございます。その気質も物腰も――外見も何もかも、人を惹きつける天性の魅力を有する素晴らしい方なのでございます。
そのため、若き女性のみならず、老いも若きも、男も女も、国民の誰もが皇帝陛下に敬愛の念を抱いておりました。
ですがただ一つ、国民の多くが不思議に……いえ、不満に思っていることがありました。
それは皇帝陛下がいまだ妃を娶ろうとしないことでした。
ですが国民は知らなかったのです。
皇帝陛下には長年想いを寄せている女性がいることを――。
最近、その女性とようやく両想いになったばかりだということを。
◇◇◇
「お帰りなさい、ハリー様」
大好きな人がこの部屋に――自分の元に戻ってくる瞬間がソフィーは好きだ。
この部屋では彼は皇帝陛下ではなくなるから。
ためらいなくファーストネームで呼べる、あの頃に戻れるから。
ソフィーの姿を一目見た瞬間、彼――ハリーの顔がほころんだ。
「ただいま。僕のプリンセス」
ハリーはソフィーのことを愛を込めてプリンセスと呼ぶ。皇位に就く前からの癖のようなものだが、ソフィー同様、今ではこの部屋にいるとき限定の呼び方となっている。
「お疲れ様でした」
ソフィーの心からの労わりに、ハリーがたまらないといった様子でソフィーをきゅっと抱きしめた。彼女の茶色がかったブロンドの巻き毛が、首元近くでくるんと跳ねてくすぐったいのは相変わらずだ。それでもこの腕をとかないのは――愛しい人を離したくないから。
喜びのままに頭に一つキスを落とす。
「ああもう。僕のプリンセスはほんとにかわいいなあ」
ハリーの腕の中で、ソフィーの方こそくすぐったそうに身をよじった。だがその表情はハリーと同様、とても晴れやかだ。
二人は付き合い出してまだ日の浅い恋人同士である。
「いつも待たせてごめんね」
「いいえっ。待つことは苦じゃないので気にしないでください。ハリー様の方こそ毎晩遅くまで大変なんですから」
「これでも最近は早い方なんだよ」
「そうなんですか?」
「うん」
ハリーが認めると、ソフィーの頭がわずかに下がった。恋人の仕事を邪魔しているのかも、と思ってしまったのだ。これにハリーが気がつき、ふ、と笑った。
ソフィーの耳元に唇を近づける。
「ソフィーに会えると思うと、とても仕事がはかどるんだよ」
国中の女性を蕩けさせる、艶のある独特の声で諭すように言った。
「だからソフィーがいてくれて、恋人になってくれて嬉しい。……好きだよ」
「ハリー様……」
「あ、こんなこと誰かに聞かれたら大変だね」
ややおどけた調子でハリーが話を終着させようとした――ところで。
「大丈夫です。ここには私達二人しかいませんから」
二人だけの秘密ですね、と声にならない声でソフィーがつぶやいた。そんな恋人のことをハリーがあらためて抱きしめなおす。あー、かわいい、と呟きながら。
「ね。こうして君と恋人同士になったことも、君をこうして抱きしめていることも、全部僕達二人だけの秘密だって考えると……」
「考えると?」
茶目っ気のある目で問いかけてきたソフィーに、ハリーは額と額をこつんと合わせた。
「すごく幸せだ」
「私も……幸せです……」
見つめ合う二人からは、綿菓子をほうふつとさせる甘くてふわふわした空気が放出されている。
そんな久しぶり、もとい一日ぶりの再会を堪能した二人が次にすることは決まっている。案の定、壁際に置かれたオルガンをソフィーが弾き出し、その隣にはハリーが肩を寄せて座っている。音楽を楽しんでいるようだが、その実、ソフィーと密着していられることにご満悦なだけだ。
公務においては鋭くひそめられていることの多い紺青の瞳が、今は目が見えなくなるほど細められている。口元はゆるっと開かれているし、頬もでれんと垂れている。ソフィーのことを心から愛していることが一目でわかる。
*
『ああもう、あいつらはなんだっていつまでもお行儀がいいんだ?』
動けない体が理由ではなく、俺はさっきからいらついて仕方がない。
『ピーター、落ち着いて』
『これが落ち着いていられるか? あいつら、いつまでこんなことを続けるんだよ、ったく』
俺達の前ではいい年をした男女による茶番が今も繰り広げられている。
でもそれはいつものことだ。
宮廷音楽士である父の仕事を手伝うため、ソフィーは八歳からこの城に通っているんだが、それからほどなくして、ソフィーは当時皇子だったハリーと知り合っている。
幼い分、ぎこちなさのある主従関係から屈託のない友人関係へと昇格するのは早かったんだろう。
だがそこからが長かった。
『あいつら十年以上も両片想いの状態だったんだぜ。十年だぞ? それがようやく両想いになったと思ったらこれだもんな。いい加減嫌になるってもんだろ』
ため息がでた。
ハリーがその若さで皇位を継いだことが、二人の恋がなかなか実らなかった最大の理由であることは分かっている。だが晴れて恋人同士になったというのに、それからも二人の関係は大して進展していない。
ハリーが執務を終えて戻るまで、この部屋――ハリーのプライベートルームで恋人をいじらしく待つソフィー。あ、ちなみにこの部屋は臣下や来客者を通せるように、けっこう広めの作りになっていて、三人で座れる上等なソファーが真向いに二脚、挟むようにウォールナットの机、オルガンに本棚、飾り棚にチェスト……などがある。奥の方には本当の意味でのハリーのプライベートルームがあるが、さすがにそこにはソフィーも入ることはない。
うん、それで、ソフィーは毎晩、このだだっ広い部屋でハリーが来るのを今か今かと待ちわびているってわけ。すげえ健気なの。でもハリーが戻ってきても、軽いハグをし合い、オルガンを弾き、最後はお茶を飲んでちょっと世間話をしてサヨナラ、そんなルーティンを繰り返してばかりいるんだ。
オルガンの音が止まった。
――ハリー様。お茶を淹れましょうか。
――ああ。ありがとう。
『あああ! なんでやることなすこと子供なんだ?』
腕が動けば頭をわしゃわしゃとかきむしりたくなるところだが、俺はぬいぐるみだからそれはできない。
そう、俺はぬいぐるみなのだ。
両耳がくたっと垂れたブラウンのうさぎのぬいぐるみ、それが俺様なのである。
『まあまあ、落ち着いて』
さっきから同じ言葉ばかりを繰り返すこいつも同じくうさぎのぬいぐるみだ。
俺がピーターでこいつがベンジャミン。両耳がピンと立ったグレーがかった方がベンジャミンと覚えてもらいたい。ちなみに俺の父親はパイになった……というのは冗談だ。俺達の名前は有名な某絵本にあやかってつけられた、と言いたかっただけさ。
『でもさ、あいつらおかしいだろ? なんで二人して成人のくせに、真夜中にお茶と会話で締めくくろうとするんだよ。もう付き合ってるんだぜ? 少なくともここはジンで決まりだろう』
『さすがにジンは違うと思う。おしゃれじゃない』
『うるせえ』
こういうとき、冷静に突っ込んでくるベンジャミンが憎たらしい。
『俺が言いたいのはそういうことじゃ……』
その時、ティーカップを載せたソーサーを手渡そうとしたソフィーの頬がぽっと赤く染まった。見れば、その指先がハリーの手に触れている。ちょこんと。
――あっ、ごめんなさい。
――い、いいや。
『「あ、ごめんなさい」じゃねえっ……!』
『急にシャウトしないでよ』
『その長い耳は飾りだろうが! てか、ハリーの奴もなんで恥じらうんだよ! お前は皇帝のくせになんだってそんなに初心なんだよ?!』
もう頭を抱えたくて仕方がない。でも実際にはできないから、この二人のもだもだとした空気を観察し続けるしかないのだ。
俺達が置かれているチェストの上は、特等席どころか拷問席だ。体は動かない、目は閉じられない、耳は塞げない、喋れない。……ただじっと観察し続けることしかできないのである。
やがてお茶を飲み終えると――その間、こいつら二人はわざわざ真向いのソファーに座ってほのぼのとした会話をしていただけだった――ふいにハリーがソフィーの隣へと移動した。
――どうしたんですか?
『おっ!』
ハリーはあらぬ方向を見ながらだったが、どうにかソフィーの肩を抱き寄せることに成功した。おお、珍しく行動的じゃないか。いいぞ、いいぞ。
――ハリー様?
――……キス、していいかな?
『なんだってわざわざ確認するかなあ。そこは黙ってぶちゅっとしろよな』
『うるさい、ピーター。今いいところなんだから黙ってくれない?』
普段はクールぶってるが、ベンジャミンが恋愛シチュが大好物なことを俺は知っている。だから素直に口を閉ざした。ていうか、俺もこの状況を満喫したい。ようやくこのもだもだした二人がキスをしようとしているんだ。
ソフィーは耳まで真っ赤になり、しばらくもじもじとしていたが、やがてハリーを上目遣いに見上げてこくりとうなずいた。
それに、ハリーもつられて赤面した。内心、ソフィーの愛らしさに身もだえしているんだろう。ぷぷ、相変わらず初心な奴。だが腐っても皇帝なんだな、有言実行とばかりにソフィーの両肩に手を添えた。
それを合図に、ソフィーがぎゅっと目をつむった。
その表情をしばし見つめるハリーの心境もまた手に取るように分かる。こっちはハリーが赤ん坊の時から付き合っているんだ。まず間違いなく、ソフィーのかわいらしさにまいっているね。案の定、ハリーは目元を手で押さえて、しばしの間天を仰いでいた。
じっと目をつむるソフィーの唇は、待ち人の訪れを前にふるふると震えている。もぎとる直前のさくらんぼみたいに瑞々しく艶めいている。
その唇にあらためて見入ってしまっていたハリーだったが、やがてはっとした表情になると頭を小さく振り、唾を飲み込んだ。
――じゃあ……キス、するね。
こくん、とソフィーが目をつむったままでうなずいた。
『ああもう、じれったいなあ!』
『しいっ』
ようやくハリーが動き出した。
ハリーの顔が――唇が、まだ誰にも味見されたことのない果実へと近づいていく。
俺達ぬいぐるみに凝視されているとも知らず、二十歳にもなった成人男女がファーストキスをしようとしている。
もうちょっと……もうちょっとだ。
手に汗握るというたとえはこういう時に使うのだろう。俺達ぬいぐるみには無縁の表現だが。
あと少し、あと少しで……。
と、その時。
ベンジャミンが落ちた。
文字通り、チェストの上から真っ逆さまに落ちたのである。
緊張の糸が張り巡らされた室内に、ぽてん、と乾いた音がやけに間抜けに響いた。
*
その音を耳にして、ソフィーは反射的に目を開けてしまった。
うるさいほどに高鳴りつづけている心臓の音をかき分けるかのように、ぽてん、という音が耳にまっすぐに届いてきて、思わず目を開けてしまったのである。
そこには目を閉じたハリーの顔があり得ないほど迫っていた。
この国随一の皇帝、その麗しさが国外にまで響き渡る完璧な顔面が――。
「きゃあっ……!」
「ソフィー? あっ」
お互いがお互いを至近距離で見つめ合い、遅れてソフィーが離れようとした。
だがそれよりも先に――。
「待って」
ハリーの手に力が込められた。
「僕から離れようとしないで」
恥じらいにより顔を背けかけたソフィーだったが、かなわなかった。
ハリーの右手がとっさに頬へと添えられたからだ。
「で、でも……」
「でも?」
「恥ずかしい……です」
うつむきかけたソフィーだったが、それすらハリーはゆるさない。
もうこれ以上我慢することはできなかったのだ。こんなにもかわいらしく愛らしい恋人を目の前にして、キスをせずに一日を終えることなど、男としてできるわけがない。
頬に添えた手はもちろん、サファイヤを思わせる紺青の瞳もまた、恋に溺れる皇帝の願い、意志を高らかに告げるかのようだった。
対するソフィーはいつになく性急な恋人に戸惑っている。
いつものハリー様と違う、そうソフィーは思った。
違うのに……なぜか胸がときめく、とも。
「ソフィー。君のことが本当に好きだよ」
どきん、とソフィーの胸が強く高鳴った。
「ずっとずっと好きだったけれど……今の方がもっと好きだ。こんなに好きになってしまって大丈夫なのだろうかと思うくらいに君が好きだ」
「ハリー様……」
「君にキスしたいとずっと願ってきた。その唇を僕にゆるしてくれないか」
美貌の皇帝、そのきらきらと輝く紺青の瞳には、今は熱情と懇願の色が濃く映っている。他の誰も見たことのない、一人の男としての感情が映っている。
その美しさと強さの前で、ソフィーもとうとう素直になった……ならざるをえなかった。
さっきからずっと恥ずかしい。いたたまれない。けれど今は恋人のキスを受け入れたい、そう思ったのである。恋人のためにも……自分のためにも。
ソフィーは少し顎をあげると、もう一度目を閉じた。
ずっと頬に触れているハリーの手のひらは温かい。昔からハリーの手は温かった。
やがて、心ときめく初めての感触がソフィーの唇に舞い降りた。
それは天使の羽のような、ふわりと軽く、柔らかい――世界一素晴らしいファーストキスだった。
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