ラスト・ステージ

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ラスト・ステージ

 ステージの上で、眩い照明と歓声を浴びている瞬間が好きだ。 「アイドルって、過酷だよ」  西川さんは、厳しい顔で私に言った。  そのとき私はまだ十三歳で、世間のことなど聞きかじった程度にしか知らなかった。大人はみんな私を可愛い可愛いと褒めてくれるし、アイドルになるといいよと勧めてくれた。私もその気になっていたし、それは良いことだと思いこんでいた。  だから、西川さんが私にそう言ったとき、私はなんだか浮かれていたのを怒られたような気がして、悲しいような腹立たしいような気持ちになったのを覚えている。  今まで会った「芸能界の人」たちは、アイドルとは素晴らしいく楽しいものだと断言していたのだ。そこに水を差すこの人は何なんだ。そういう尖った気持ちで、「どうしてですか」と突っかかると、 「アイドルってのは、地獄に立つ生き物だからだよ」  西川さんはそう言って、ニヤッと笑った。  あのとき、どうして笑ったの。あとになって西川さんに聞いてみたことがある。西川さんは半分残っていたペットボトルの水を一気に飲み干して、それからあのときと同じ顔でニヤッと笑って言った。 「骨のあるやつだと思ったからさ」  自分で言うのもなんだけれど、私はかなり可愛い。スタイルも良いし、頭も良いし、運動神経も良いし、性格も明るくてコミュ力もある。  それでも、きっと西川さんがいなければ、私はトップアイドルにはなれなかっただろう。  西川さんの言う通り、アイドルという職業は想像以上に――並の想像じゃ追いつかないくらいに、過酷な職業だった。  同じ世界にいる子は全員がライバル。それも、しのぎを削り合う好敵手なんて言える相手はほんのわずかで、ほとんどが醜い足の引っ張り合い、蹴落とし合いといったどろどろした関係だ。  そんな人間関係に心を削りながらも、疲れたとかつらいとか、ネガティブな気持ちは少しも外に出してはいけない。  常に可愛く、常に明るくあるのが当たり前。自分を研磨し、高みを見据えて努力しながらも、血のにじむような努力をしていると勘付かれてはいけない。  自分に自信を持たなければいけない。だけど、傲慢だと思われてもいけない。堂々としながらも謙虚でなければいけない。  異性だけでなく同性をも魅了しなければいけない。だけど、特定の人と親密になりすぎてはいけない。  ――矛盾。矛盾。矛盾に満ちた地獄の中に、アイドルという生き物は凛然と立っていなければいけないのだ。 「寂しくなるな」  私と西川さん以外は誰もいない楽屋の静けさに、西川さんの呟きがやけに大きく響いた。 「アイドル界に彗星のごとく現れた、時代の寵児……誰もがきみに夢中になった。きみのダンスに魅了され、きみの歌に聴き惚れて……きみの笑顔に、日本中が恋をしたんだ。……」 「大袈裟だなあ。それを言うなら、その『世紀のアイドル』を世に送り出した名プロデューサーも、相当な傑物だと思うよ、西川さん」  からかったつもりだったのに、西川さんは悲痛な面持ちでうつむいてしまった。 「本当に、引退するのか」 「するよ」  もう何百回と繰り返したやりとりを、また繰り返す。  私は、アイドルを引退する。  その決意を西川さんに話したとき、西川さんはまず笑い飛ばした。冗談だと思ったらしい。私が本気だと分かると、次に西川さんは酷く怒った。私のスキャンダル写真を捏造した、馬鹿なフリー記者をボコボコに殴っていたときと同じくらい、――もちろん私を殴りはしなかったけど、西川さんは怒ったし、怒鳴った。  それでも私の決意が揺らがないと分かると、西川さんはさめざめと泣き始めた。これには私も辟易した。なにせ、いつも余裕があって人を食ったような態度を崩さない西川さんが、恥も外聞もなくしゃっくり上げて泣き続けるのだ。私はまるで西川さんのお母さんになったように、西川さんの背中を撫で続けた。  ようやく泣き止んだのは二時間もあとで、西川さんは虚ろな目で「本当に引退するのか」と言った。「するよ」と、私は答えた。  アイドルには消費期限がある。私は今年で二十歳(はたち)になる。  まだまだやれるだろと西川さんは言うし、私だってそう思う。だけど私は、全く衰えのない、まるきり疵のない私を最後の姿として、舞台の上から消えていきたいのだ。 「アイドルを辞めて、それから女優になるつもりはないか? 演技の世界でも、きみの才能は光り輝く。どんな形でも、きみは舞台から降りるべきじゃない……」  西川さんは熱心に私を誘ったけれど、私はきっぱりと断った。  アイドルではない他のものとして、舞台に上がるつもりは毛頭ない。私はアイドルなのだ。アイドルとして、あの輝かしい場に立つのが至上の喜びで、そうでなければ、ステージは私の居場所ではない。  あの光――あの熱気……歓声! 汗の粒が舞い散り、音と光と私は混ざり合い、ひとつの大きなうねりとなって客席を駆け巡る。あの――恍惚!  アイドルになって、ちやほやもてはやされることなんてどうでも良かった。タールのように汚らしい人間関係も、苦にもならなかった。  きっと私は生来のアイドルだったのだ。硬いさなぎの殻をようやく破り、本来の居場所である空へと飛び立った蝶のごとく――私は私の生きる場所を見付け、そこで思い切り羽ばたいて、頂点へと昇り詰めた。  そして、やがて蝶が寿命を迎え地面に落ちるように、私にもその時が来た。それだけの話だ。  ただ、私は地面に落ちる瞬間をファンに見せたくはない。私はまだ優雅な羽ばたきの許されるうちに、照明の光と熱の中に飛び去っていきたいのだ。あの痺れるような、恍惚の中で――……。 「そういうのを、トランス状態っていうんだよ」  聞き慣れない言葉に、「なにそれ」と西川さんに尋ねる。  引退ライブを明日に控え、リハーサルを終えて静けさを取り戻したステージの上で、私たちは長く話し込んでいた。  舞台に立つと意識が全てと同調して、世界と同化するような気持ちがするんだと西川さんに語ると、西川さんはトランス状態なるものについて解説してくれた。  起きているのに、意識だけここではないどこかへ飛んでいっているような、ふわふわした状態。昔はトランス状態のことを、神様が乗り移ったとか、そういうふうに解釈していたらしい。 「神様かあ。もしかしたら、ライブ中はアイドルの神様が乗り移ってるのかもね」  私は冗談で言ったんだけど、西川さんはものすごく真面目な顔をしている。というか、私がふざけているときほど、西川さんは本気でものを考えている気がする。 「古来より、歌や踊りというものは神に捧げる供物だった。舞台上に神が降りるのは、当然のことかもしれない。それに、そもそもアイドルというのは、偶像という意味だ。偶像崇拝……アイドルとファンは、神と信者の関係に等しい……」  二人だけのステージの上、白っぽい光に照らされて、西川さんは私の前に跪いた。 「きみは、俺の神様だ」  西川さんの黒い瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。私を……私の中の神様を。  私は西川さんの手を取った。私より二十も年上の男性の手は、ふしくれだってガサガサしている。  この手こそ、幼かった私を華々しい舞台上へと導き、無知だった私をあらゆる困難から守り、ただの少女だった私を神の座へと押し上げた、先導者の聖なる手なのだ。  私もまた彼の前へ跪き、その手の甲へキスをした。  引退ライブは、熱狂のうちに過ぎていった。デビュー曲を始め、これまでにリリースした曲を順に歌って踊っていく。かなりハードなタイムテーブルだけど、問題ない。今日この日に向けて、体調も何もかも完璧に調整し、練習を重ねてきたのだ。問題があるわけがない。  ポップな音楽に合わせて飛んだり跳ねたり、バラードに合わせてしっとりと歌ったり――曲と曲の合間に、私はハアッと大きく息をついた。もちろん、ため息なんかじゃない。恍惚の――ああ、そうだ。私は今、トランス状態なんだ。  そして――最後の一曲の前に、引退の挨拶をする。デビューしてからの思い出、曲に対する思い入れ、応援してくれる人たちの存在が、どれほど励みになったか……。  日本一広いライブ会場に、マイクで拡張された私の声だけが響く。初めは私の言葉を邪魔しないように控えめだったすすり泣きが、やがて一人また一人と数を増やし、さざなみのように会場を埋め尽くしていく。  そのすすり泣きの声に、私はまた意識を神と同調させる。アイドルの神様が、私の中に降りてくるのをひしと感じる。 「今まで――応援、ありがとうございました!」  感謝の言葉と共に、会場に音が溢れた。最後の一曲が始まったのだ。音楽に混じって、さよならー! ありがとー! と、客席から声援が飛ぶ。  こみ上げかけたものをぐっと飲み込んで、私は歌い始めた。アイドルたるもの、常に可愛く、常に明るく。泣いてはいけない――最後の瞬間まで!  最後の一曲は、ダンスパートと歌唱パートが交互に何度も繰り返され、実に五分間もある長い曲だ。これを歌い終わった瞬間……つまりあと五分で、私のアイドルとしての歴史に幕が下りる。  これで最後……あと五分で終わり。  そう思えば思うほど、私の意識は恍惚の中に埋没していく。足を踏み鳴らせばそこから金の火花が舞い散り、歌う声は虹の奔流となって唇から溢れ出す。身体は羽よりも軽く宙を跳び、髪の毛のひとすじまでも自在に動かすことができる。  その神秘は会場を満たし、客席にまで伝わった。これまでにないほどの興奮――ステージ上のアイドルと、客席にいるファンとの、細微に至るまでの意識の同調!  ああ――ああ! なんて気持ちがいいんだろう!  スポットライトの中を輝きながら浮遊している、あの美しい球体は汗だろうか、それとも涙だろうか。私はいつの間にか泣いていたのだろうか。  終わるまでは泣かないと決めていたけれど、だけど、もう仕方がない。だってこんなにも、感情が昂ぶっている……。  プリズムに満たされた視界の中、いっそう暗く見える客席の、更に向こう……一番奥の通路に、西川さんが立っていた。遠く暗い場所にいるのに、不思議と西川さんの姿だけは、くっきりと浮き上がって見える。  西川さん、見て! 私は全身で彼に呼びかける。見て! これが、あなたが生み出した神様よ!  西川さんは笑っていた。泣きながら笑っていた。  私も、ファンも、もうこれ以上はないというほどに熱狂していた。それでも最後の五分は着々と消費され、恍惚の時間にも終わりが這い寄ってくる。  あと三十秒……あと十秒……あと五秒……。そして、長く惜しむように伸ばした歌声が途切れた瞬間――。 「今まで――応援、ありがとうございました!」  感謝の言葉と共に、会場に音が溢れた。最後の一曲が始まったのだ。音楽に混じって、さよならー! ありがとー! と、客席から声援が飛ぶ。  こみ上げかけたものをぐっと飲み込んで、私は歌い始めた。アイドルたるもの、常に可愛く、常に明るく。泣いてはいけない――最後の瞬間まで!  最後の一曲は、ダンスパートと歌唱パートが交互に何度も繰り返され、実に五分間もある長い曲だ。これを歌い終わった瞬間……つまりあと五分で、私のアイドルとしての歴史に幕が下りる。  これで最後……あと五分で終わり。  そう思えば思うほど、私の意識は恍惚の中に埋没していく。足を踏み鳴らせばそこから金の火花が舞い散り、歌う声は虹の奔流となって唇から溢れ出す。身体は羽よりも軽く宙を跳び、髪の毛のひとすじまでも自在に動かすことができる。  その神秘は会場を満たし、客席にまで伝わった。これまでにないほどの興奮――ステージ上のアイドルと、客席にいるファンとの、細微に至るまでの意識の同調!  ああ――ああ! なんて気持ちがいいんだろう!  スポットライトの中を輝きながら浮遊している、あの美しい球体は汗だろうか、それとも涙だろうか。私はいつの間にか泣いていたのだろうか。  終わるまでは泣かないと決めていたけれど、だけど、もう仕方がない。だってこんなにも、感情が昂ぶっている……。  …………。  プリズムに満たされた視界の中、いっそう暗く見える客席の、更に向こう……一番奥の通路に、西川さんが立っていた。遠く暗い場所にいるのに、不思議と西川さんの姿だけは、くっきりと浮き上がって見える。  西川さん、見て! 私は全身で彼に呼びかける。見て! これが、あなたが生み出した神様よ!  西川さんは笑っていた。泣きながら笑っていた。  私も、ファンも、もうこれ以上はないというほどに熱狂していた。それでも最後の五分は着々と消費され、恍惚の時間にも終わりが這い寄ってくる。  あと三十秒……あと十秒……あと五秒……。そして、長く惜しむように伸ばした歌声が途切れた瞬間――。 「今まで――応援、ありがとうございました!」  感謝の言葉と共に、会場に音が溢れた。最後の一曲が始まったのだ。音楽に混じって、さよならー! ありがとー! と、客席から声援が飛ぶ。  …………。  こみ上げかけたものをぐっと飲み込んで、私は歌い始めた。アイドルたるもの、常に可愛く、常に明るく。泣いてはいけない――最後の瞬間まで!  最後の一曲は、ダンスパートと歌唱パートが交互に何度も繰り返され、実に五分間もある長い曲だ。これを歌い終わった瞬間……つまりあと五分で、私のアイドルとしての歴史に幕が下りる。  これで最後……あと五分で終わり。  …………あと五分で、終わり。  …………。  西川さんと目が合った。遠く暗い通路に立って、じいっとステージを見つめる西川さん。  西川さんは笑っていた。泣きながら笑っていた。西川さんの黒い瞳に、ステージで舞う私の姿が映っている。そこに眩い狂気の閃光を見たとき、私は全てを理解した。  なにも難しい話ではない。  この場に存在する全ての者が、ひとつの大きな願い――今この瞬間が終わってほしくないという、強烈で切実な願いを抱いている。そんな中で、舞台の上で歌い踊る巫女に真実の神が宿ったならば――神秘が現実を圧倒し、奇跡が純然たる事実として舞い降りたとしても、何の不思議もない。 「ああ……ああ……」  私の唇から嗚咽が漏れる。  ああ――……なんという喜びだろう!  私は歓喜に頬を紅潮させ、いっそう高く優美に跳躍した。もう終わりを恐れる必要はない。私は永遠に、永遠にアイドルとして、この素晴らしい空間で輝いていられるのだ!  また五分が経ち、曲が終わる。それと同時に、曲が始まる。熱狂。歓声。汗。涙。音と光の渦。西川さんが笑っている。泣きながら笑っている。私も笑っている。歌いながら、踊りながら、泣きながら、笑っている。  神と信者とが永遠に睦み合う。まさしくここは天国だ。……それとも、地獄だろうか?  どちらだって構わない。例え地獄の中だろうと、アイドルは常に絶対的な憧れとして、凛然と立っているべきなのだから。  また、最後の曲が始まる。あと五分で、私のアイドルとしての歴史に幕が下りる。だけど、五分後は永遠に訪れない。永遠に。  ――永遠に。
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