[第一章 少女のハンドクリーム]女大公テレーゼ

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[第一章 少女のハンドクリーム]女大公テレーゼ

 ユーゲンビリツ五大公国南部、エルスオング大公国の最大都市、ベルッディナの昼。  夏の暑さに加え、湿った風が吹いていることで、気温よりも暑く感じられていた。 「いらっしゃいませ」  陽気な声で客に声を掛けたのは、鮮やかな赤い髪を持つこの店の女あるじ、ドーラだった。 「ねぇ。キミの力で私の手を直してほしいんだけど」  ここは総合調香店『ステルラ』。  普段から様々な悩みを抱える人たちがやってくる。  もちろん、街角には癒身師や紅茶師、粉黛師などもいるが、彼らのように専門的な店ではなく、彼らの行っている業務を広く行うのが総合調香店だ。  そのため、普段、来店するのは予約客でほとんど埋まっている。  だが、開口一番、そう言った女性のように飛び込みの客もいる。少々ドーラよりも年上だろうか、店に現れた短い黒髪の彼女は、この国ではあまり見かけないような恰好だった。しかも、この季節にそぐわない分厚い手袋をしていた。 「えっと?」  ドーラは彼女を見て、首を傾げた。その様子に女性はフフと笑う。 「ああ、悪かったね。今、この街を散歩していたんだけれど、ここの看板が目に入ってね。予約優先とは書いてあったものの、どうやって予約すればいいのか、わからなくてさ」  男っぽい口調で話す彼女に、ああ、そういう事だったんですね、と納得したドーラはこちらへどうぞ、と彼女を応接室に案内した。客人を座らせてから、ちょっとお待ちください、と言って部屋から出たドーラは、手早く紅茶を淹れて、応接室に戻った。 「お待たせしました」  彼女は客人の手元に紅茶を置き、正面に座った。 「いいや、こちらこそ急に来店してしまって申し訳ない。すまないが、まずはこれを見てくれないか」  客人はテレーゼと名乗り、手袋を外した。そこにあった両手とも、この湿気っている季節とは真逆の状態、乾燥してさかむけ(・・・・)、真っ赤になっていた。その様子に絶句したドーラに対し、どうしてこうなったのか、説明しはじめた。 「私には昔から使っているハンドオイルがあるんだ。それも、小さい時から同じ専属の癒身師に処方されたものを、ね。  ずっと彼に作ってもらっているんだが、半年前に作ってもらったものを使い始めてから、荒れ始めてね。その時に奴に見てもらって、別のハンドオイルを処方してもらったんだけれど、どうにも治らなくてね」  テレーゼがここに飛び込んできた理由が分かった。  彼女曰く、ハンドオイルを使うのをやめたが、治っていないという。  彼女の職業はよく分からなかったが、どのような形であれ、彼女専属(・・)の癒身師――アロマを使ったマッサージ師や整体師――となれば、相当な腕を持っているはずである。  だが、その人でも肌荒れの原因を見落とすことがあるようだ。ドーラはそれに興味を持つとともに、それぐらいの腕利きの人がなぜ、見落とすのだろうかと疑問に思った。だが、そんな疑問はおくびにも出さずに、テレーゼに微笑んで、応えた。 「そうでしたか。それで私のところに来られたのですね」 「ああ。ここに来るまでもいろんな癒身師に診てもらって、こうでもない、ああでもない、といろんなものを押し付けられたが、全く治る気配が見えない。だから、そろそろ諦めたくなってきたよ。  キミも無理なら無理って言ってくれて構わないよ。  別にそう言われたところで、この店の評判を落とすようなことは一切しないと誓うからさ」  テレーゼは半ば諦めた声でそういった。だが、ドーラは笑顔で大丈夫ですよ、と言い切った。 「治せないものなんてありません。必ず、どこか原因はあるのですから」 「本当にできるのかい?」  ドーラの宣言にテレーゼから、疑うような視線を向けられた。ドーラはその探るような視線に一瞬、圧力のようなものを感じたが、それでも目を逸らさなかった。 「はい」  ドーラの言葉には迷いが全くなかった。そう言い切った時の顔は、いつもの柔らかい笑みはなく、一人前の調香師としての顔だった。 「早速、診せていただけますか?」  今までの癒身師たちと同じように、テレーゼの生活面や健康面について詳しく尋ねた。  その際にテレーゼの正体が五大公国の最北部に位置するアイゼル=ワード大公国の君主、女大公であることに気付いて、畏まろうとしたが、彼女から一人の患者として接してほしい、と懇願されたので、少しためらったものの、そう接することにした。 「では、ご専属の方から渡されたオイルの処方箋(レシピ)はありますか。それと、各地の癒身師に渡されたケア用品の処方箋(レシピ)を持っていますか」  一通り聞き終わった後、ドーラはある考えに到り、質問した。 「え? レシピってどういったものなんだい?」  だが、テレーゼには質問の意味が分からなったようで、目を瞬きながら聞き返された。 「――――――ああ、すみません。癖で処方箋(レシピ)って言ってしまいました。ええっと、そうですね。今、使われているハンドオイルや軟膏、クリームの現物をお持ちでしょうか」  テレーゼの様子に、処方箋――アロマクラフトの中に含まれる精油やキャリアオイルの成分表――を患者である彼女が持っているはずもないこと思い出し、別の質問に変えた。 「それならあるよ。ちょっと待ってくれるかい」  今回の質問は伝わったようで、鞄からガラス製の小瓶を何個か取り出しはじめた。ドーラは机の上に置かれた小瓶を手に取り、次々と蓋を開けて中身を確認していった。 「その瓶が奴に出してもらったハンドオイルだ」  ドーラはテレーゼが指した瓶を取り、光に透かした後、軽く振ったり、蓋を開けて匂いを嗅いだりした。ほかの瓶はそれぞれ一回ずつだったが、そのハンドオイルの瓶だけは何回も同じことを繰り返していた。 「何かおかしなことでもあったのかい?」  テレーゼはドーラの様子が気になっていた。 「い、いえ。なんでもありません」  ドーラは少し焦ったように言った。その顔も先ほどまでと違い、拙いものを見てしまったようなこわばりが出ていたが、テレーゼはそれを追及する気にはなれなかった。 「――――――テレーゼさんはこの街にどれくらい滞在されますか?」  ドーラがテレーゼに訊ねた瞳は今まで以上に真剣なものだった。 「いくらでもいるさ」  そう答えたテレーゼは、先ほどまでの弱った雰囲気ではなく、大公としての威厳がそこには溢れ出ていた。 「そうでしたか。では、しばらくの間、こちらに通っていただけませんでしょうか」  ドーラは少し不安になりながら尋ねた。さすがに一国の主をこんなセキュリティの薄いところに通わせてよいものかと。だが、その不安はテレーゼ自身によって取り除かれた。 「もちろんだ。見た目通り、警護は僅かだが、腕に覚えのあるものばかりだ。いざとなれば私自身が戦えばいいから」  ドーラを安心させるために、テレーゼは片目をつぶっておどけた。その様子に安堵したのか、こちらこそお願いします、と頭を下げたドーラの顔には、先ほどまでのこわばりは消えていた。 「で、お前は何だと思ったんだ」  夜。  店舗兼住居の住居部分で同居人のミールとともに夕ご飯を食べているとき、昼間にあった出来事を話した。  彼は幼馴染であり、この店の共同経営者でもある。そして、何より彼女と同じ調香師であるので、相談するのには頼もしい相手だ。 「テレーゼ様の生活面も健康面も問題ない。仕事柄、多少ストレスは抱えられるでしょうけれど、あの方だったら間違いなく、過負荷にはなっておられないはず。  そして、手が荒れ始めてから処方されたっていう軟膏やクリームは単純処方だったし、素地の匂いもほとんどなかったから、おそらく一級品の素材を使っている」  この世界におけるアロマクラフトは単純処方と複合処方に分かれる。  単純処方とは一つの製品の中で精油(エッセンシャルオイル)を一種類のみを使用したものであり、複合処方とは一つの製品の中に複数種類の精油を使用しているもののことを指す。  ドーラのような調香師になるためには、単純処方か複合処方かを嗅ぎ分けることが出来なければならなく、素地――キャリアオイルや水など――の匂いや手触りなども分かっていなければならない。昼間、彼女はテレーゼの目の前で、それを調べていたのだ。  香りを思い出しながら、そうドーラは言い切った。  だが、あのハンドオイルには謎だらけだった。 「あのオイル、いろいろ気になることがあるの。まず、ブレンドされている精油をすべて当てられない。この件に限らないけれど、ブレンドオイルにかかわる相談は非常に難しいのは知っているよね。  それに、キャリアオイルも、比較的さらさらで、精油の隙間から臭う独特な香りがないっていう事は分かるけれど、ただそれだけ(・・・・)」  ミールの問いに、ドーラは答えつつ深く考え込んだ。  テレーゼのハンドオイルを処方したのは隣国の公邸癒身師。その人は少々変わり者であるが、テレーゼを害すことは恐らくないはずだ。 (でも、『新しく処方された』ハンドオイルを使うと荒れ始めた。ということは――――)  二つの考えが頭をよぎる。今の段階でそのどちらかを断定するのは難しい。 (私には外国での調査権がある。だけど、本格的に調査しようと思うと――――)  ドーラは認定調香師の中でも、第一級認定調香師という上級の資格を持っている。  第一級認定調香師は、国内での調香に関わる仕事以外にも外国での『香り』に関する調査権が与えられている。それは、非常に大きな諸刃の剣であった。  もちろん、利点は外国でも調香師という立場を活かせること。  その反面、調香師たちの身柄は所属国が保障する。そのため、あまり派手な動きができないことだ。  特例として秘密裏に動くことも可能ではあるが、今回の場合、相手は仮にも一国の君主の専属癒身師だ。いくら大公直々の頼みといえども、調査は難しいだろう。 「なぁ、ドーラ」  不意にミールの顔が近づいてきた。 「お前、またぐちゃぐちゃ悩んでいるな」 「あ、うん。そうね――――」  ドーラはふぅ、と息を吐いた。彼の前では強がりを言えない。 「お前には外国での調査権が与えられている。だが、全てを背負う必要はない。こういう時の俺がいるんだし、何よりこの店のスポンサーはポローシェ侯爵様だ」   「だから、この店に何かあれば、あの人は黙っちゃいないさ。お前は全力でテレーゼ殿下を治療しろ。その間に内偵ぐらいはこちらでやっておく」  彼の言葉は正鵠(せいこく)を得ていた。ポローシェ侯爵はこの国、エルスオング大公国の筆頭公爵。その彼が後ろ盾となっている『ステルラ』に何かあれば黙っていることはないだろう。なにより他国に顔の利く侯爵ならば、ドーラが動く前にある程度の情報を仕入れてくれるだろう。ドーラもその案に賛成だった。 「分かった。じゃあ、任せる」  その返事にミールはニヤリと笑い、了解、と言った。
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