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彼が壁にかけられた時計をチラッと見た。それからマグカップに残っていたコーヒーを飲み干す。
「もう帰るの?」
感情が乗らないよう淡々と言葉を発した。大丈夫、寂しさや悲しさは伝わっていない。
「また来るよ。」
彼は服を整えながらそう言うと髪を撫でてから部屋を出て行った。キスはしなかった。
彼が帰るといつも寂しい。ひとりぼっちになってしまったような気がして涙が出てしまう。寂しさを紛らわすために音楽をかける。
If I should stay...
優しい歌声が流れ出す。ずいぶん前に流行った曲だ。一緒に口ずさんでみる。
「帰らないで。」
そう言えば良かったのだ。素直に伝えれば彼は帰らずに泊まっていってくれたかもしれない。でも言えない。彼の前で弱い姿は見せたくない。最低限のプライドが本心からの言葉を遠ざける。
「もう来ないで。」
本当はそう言うべきなのかもしれない。都合の良い時に会いに来るだけなんてバカにしている。
奥さんとはうまくいっていないと言っていた。それを信じるほど純粋じゃない。彼の左手に光る細いリングを見るたびに胸がギュッと締め付けられる。奥さんがいるのにこの部屋に来るのはなぜだろう。奥さんより早く出会っていたら彼は自分のものになったのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。あまりの幼稚さにフッと吹き出してしまう。
「よくある不倫のひとつだよ。」
自分に言い聞かせるようわざとゆっくり声に出してみる。
I will always love you...
曲が終わり部屋に静寂が戻る。
もし奥さんより早く出会っていたら。もし奥さんと離婚したら。いくつもの「もし」を想像したあと必ず1つの考えが頭に浮かぶ。
もし女に生まれていたら彼は自分と結ばれただろうかー。
いや、女だったら見向きもされなかっただろう。おそらく彼は自分が男だからこの部屋に来てくれるのだろう。
If I should stay...
もう一度同じ曲をかけて口ずさんでみる。彼はこの曲を好きだろうか。この曲を聴きながら誰を思い浮かべるだろう。
「この曲が終わるまで帰らないで。あと5分だけ。」
彼に言うつもりで呟いてみる。そうしてまた彼が来るのを待ち続ける。
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