張り子の虎

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五月 五月三日(土)  ローマに向けてアリタリア七八五便は十一時三十分に定刻通り出発した。 私たちの荷物はまるで一昔前の巨人軍のキャンプ入りのようにルイ・ヴィトンてんこ盛りの中で、諒二だけが小さなビニール袋に財布とパスポートとわずかな着替えを入れて来た。前の晩、一緒に住んでいる女に携帯電話と手に入れたばかりのクレジットカードを折られ、ありとあらゆる衣類を破られ、家じゅうにあるものを壊されたと言う。 「もう、来られないと思いました。ケータイ折られちゃったんで誰の電話番号もわからなくなって。とにかく行かれないって事を伝えるのに大ちゃんのウチに行ったんですよ。」  泰雅から連絡を受けた宇響は諒二を迎えに行き、ゴミ箱のような部屋の中で一人妄想に囚われヒステリックに荒れる彼女を説得した。 「宇響さんには本当に助けられました。オレの話はもうまったく聞かないんですけど、宇響さんの話は聞くんですよ。グループ旅行だって事もわかってもらえて。それで来られたんです。」  諒二は宇響の落ち着きぶり、話術を褒め続けた。宇響にそういう力があることは私にも何となく理解できた。 「オレは何も言うてへんよ。ああいう時、女に何か言ってきかそう思ても無理やて。ただ、黙って聞いてるしかないねん。よかったやん。来られて。」 「よかったね。本当に。それだけやる人が、よくパスポート破らなかったね。だってほかの何を壊すよりパスポートさえ破っちゃえばもう行かせなく出来ちゃうわけでしょう?よかったよ。不幸中の幸いだよね。」  成田でチェックインしてから飛行機に搭乗するまでの間、泰雅と瀬戸は熱心に客に電話をかけ、メールを送っていた。彼らにとって五日も店を休むというのは大変なことなのだろう。 ― 宇響さんは私がいるから電話もメールもできないんだな。どうしてるんだろう。昨日までに全部連絡してきたのかな。  考えてみると、これまでに行った一泊二日のゴルフ旅行から今日の海外旅行まですべてをあわせれば、私たちはもう少なくとも二十回以上旅行に来ている。二人きりの時もあれば、泰雅が一緒のこともあるが、とにかくそれ以外の日に宇響が店を休んだことはない。 泊まりの旅行に出ているのは私とだけなのだ。  今回はほかの客達に一体どんなウソをついて来ているのだろう。そう思うと薄汚い喜びで一杯になる。彼女達を嘲笑う気持ちでつい口元が緩みそうになる。  金。すべては金の力だ。  宇響をいつも上位にキープし、ヘルプにも内勤にもチップは惜しまない。旅行の時は彼らの分全額を出しているだけではない。ヘルプについては強制指名日を休む罰金まで補償しているのだ。今回の旅行はもちろんのこと、宇響と泰雅そして私の三人で行く旅行でだっていつもそうだ。  金の力だと解っていることは悲しいはずなのだが、それでも「悔しかったらあんた達もやってみなさいよ。」と、見たことも会ったこともない女達を相手に一人心の中で毒づく。   飛行機はフィウミチーノ空港に同日の夕方五時半に着いた。スペイン広場まで歩いて三分とかからないホテルに着くと既に七時を過ぎていたが、日は暮れきっておらず人通りも多かった。私たちはスペイン広場で写真を撮り、コンドッティ通りでウインドウショッピングを楽しんでからナヴォナ広場のトラットリアに行った。  オーダーした赤ワインが出てくると、宇響はそれをみんなのグラスになみなみと注いだ。 「おめでとうございます。宇響さん、ようさん。お二人、去年の今日、出会われたんですよね。」  瀬戸が言った。さすがホスト、と私は驚いた。瀬戸は去年の今日、まだアマンには居なかった。人から聞いた、しかも自分にとってはどうでもいいような話を日付まできちんと覚えておいてサラリと言ってのけるなどホストでなければ出来ない芸当だ。こうやってグループのホストは互いの客をいい気分にさせて財布のヒモを緩ませ合うのだろう。 本当の事を言うと、私は朝からずっとそのことばかり考えていた。けれどいざこうやって面と向かって言われてみると、結婚記念日でもないどころか、恋人でさえない自分たちの何が「おめでたい」のかよくわからなくなる。 「ありがとう。」  と、言っておいた。とりあえず。 「ゴミの日、や。」  宇響は覚えていた。うれしかった。彼は口が裂けてもそんな話は自分から言い出さないので私は瀬戸が切り出してくれたことにちょっと感謝した。  もっとも、宇響にとっては本当におめでたい記念日だと言えるかも知れない。私にとって、あの五月三日は恋の、言い換えれば苦しみと放蕩の始まりだった。しかし宇響にとっては単に「太い客」との出会いだったのだから。ロレックスやフランクミューラーのベガス、SL6.1を手に入れたことも、ナンバーワンになったことも、今日グループ揃ってローマで食事をしていることも、そして宇響がフレンチレストランを開こうとしていることも、すべてはあの日が始まりだった。  料理はとても美味しかった。私たちは明日から何をするか、どこに行くかと言う話ではしゃいだ。宇響と二人だけの旅行ではほとんど写真を撮ることはなかったが、今回は違った。ちょっと場所を移すたびに誰かが「ようさん、宇響さんと。」と言ってくれる。私は今までの旅行で撮りたくても言い出せずにいた分までたくさん撮って、自分の部屋を、パソコンのスクリーンセーバーを、携帯の待ち受けをそれらで飾ることに胸を膨らませた。   五月七日(水)  ローマで二泊、ミラノで二泊の旅行はあっという間に終わってしまった。  私たちは「ローマの休日」どおりの観光ルートをなぞり、それぞれのポイントでは「ローマの休日」どおりのことをしては写真を撮った。 トレビの泉で後ろ向きになって真剣にコインを投げようとしている諒二に私は聞いた。 「また、ローマに来られるように?」 「いや。一枚だとまた来られて、二枚だと恋が実って、三枚で別れられるそうなんですよ。」 「あ、そっか・・・。」 ― 別れたいんだよね。 「枚数によってご利益が違うんだ。知らなかった。情報まちがってて実らせちゃったりして。」 「ようさん、それ冗談になってないっすよ。」 「ゴメン、ゴメン。」  私も投げたかった。もちろん二枚、この恋がいつか実るように。でも、ここで投げるのは如何にも恥ずかしい。泰雅も諒二も瀬戸も、そして宇響が私の思いなど哀れむほどに知っている。  ミラノからは鉄道でモデナまで足を伸ばしフェラーリの工場と博物館、そしてオフィシャルショップを訪ねた。宇響にとってここに来る事は今回の旅行の最大の目玉だった。彼は自分でここを見つけ出し、予め行き方も所要時間も営業時間も調べていた。 テストコースに人だかりがしているので見に行くと、レースカーが本当にテストランをしていた。 「宇響さん、写真撮りましょうよ。ようさんも一緒に。」 諒二に促された私は一端宇響の隣に並びかけてから、 「いい。一人で撮ってもらいなよ。」  と、退いた。 抜けるような青空、とても五月とは思えない強い日差しの下、レースカーの発する「コーン」とでもいうような乾いた音を聞いていると、ここで撮るべきは男の写真であってそこに私の居場所はないように思えた。私が一緒に入ることでその写真は宇響にとって価値のないものになってしまうように思えた。  四日間を共にするうち、私は泰雅と瀬戸がちょっとした空き時間にも携帯を取り出し、メールを打っていることに気付いた。  ホテルのロビーで、タクシーを待ちながら、そういえば来る時の飛行機の中でも打っていた。 ― ここからは送れないのに・・・。 「打ち溜めしとるんやろ。」 「?」 「成田に着いたら一気に送るんよ。お客さんにメールたくさん作っとくのさ。帰る時間とかだいたい言うてあるやん。着いてすぐに送ったらお客さんが喜ぶわけさ。マシな方やで。オレなんか、最近泰雅に教わって『一斉送信』使うからな。」 「一斉送信?」 「そや。どのお客さんに送ってもおかしくないようなメール一つ作って、それをいっぺんに送るのさ。」 「え~っ!?携帯って宛先全員BCCには出来ないんじゃなかったっけ?」 「よう知らんけど、出来るで。」 「ふうん、誰にも他の人の宛先は見えないように?どの人にも?ホント?ドコモでそれ出来たっけ?」 「詳しいことはわからんけど出来るで。それは気をつけてるさ。」 「そりゃそうだよね。」  一斉送信で手間を惜しんだつもりが客を失う事になるようなドジを宇響が踏むはずはない。  他の客達に送っているメールの宛先がうまくブラインドコピーになっているかどうかなんて私にとってはどうでもいいことだ。こっそりトイレに行き、ここでは電卓代わりに使っている携帯をバッグから取り出して受信ボックスを開いた。ほぼ毎日受け取っている宇響からのメールは、改めてどれを読みなおしても他の客に送って意味が通じるものではなかった。私は「一斉送信」のグループには入っていないのだ。  またしても私は歪んだ喜びで幸せになる。  どこに行っても私は姐さんのようだった。 ジュース一杯からディナーのペトリュスに至るまで、すべて金の支払いは宇響か私、そのかわりスーツケースを運ぶことはもちろん、私が注文したジェラートを受け取って持ってくるのも、指輪一本しか入っていない小さなショッピングバッグを持つことさえもすべて彼ら三人のうちの誰かだった。 私は宇響のことが好きだが、だからといって旅行中いつでも彼の隣に居なければならないとは思っていない。ここはホストクラブではないのだから。しかし、彼らは「何かの間違い」で私の隣が宇響ではなくなると、慌てて修正に努めた。レストランだけでない。電車でも、サン・ピエトロ寺院で礼拝に参列するときにも、ジェラデリアでも、バーでも。  帰りの飛行機はガラガラに空いていた。午後二時三十五分に出発して一時間ほど経つと何ご飯なのかはよくわからないが食事がサーブされた。食べ終えると乗客の誰もが思い思いに席を移動して肘掛けをはね上げ、足を伸ばして寝る体勢になった。  私と宇響が並ぶシートの隙間から瀬戸が囁いた。 「宇響さん、後ろガラガラですわ。横になって寝た方が楽なんちゃいます?」 「ああ。」  旅行の終わり際は誰でも寂しい気持ちにとらわれる。私は宇響に行って欲しくなかった。彼を隣に感じ、彼の匂いを嗅いで、昨日のセックスを頭の中でなぞりながら眠りたかった。しかし十三時間以上かかるフライトは瀬戸の言うとおり横になって寝た方が楽に決まっている。宇響が後ろに行ってしまったら私もどこか空いている席を探して寝よう、そう思ってじっと寝た振りをしていた。  結局成田まで宇響は大きな体を小さな座席に無理矢理埋め込んだまま、窮屈そうに眠っていた。  宇響は優しい。 五月九日(金)  店から帰る車の中で宇響が切り出した。 「あんさあ、あと千万ていつ受け取れるやろ?」 「だって、当面は要らないでしょ?二千万でやってみて無理だったらまたあとで考えるって事になってなかったっけ?」 「それは無理やな。どう考えても二千万で店はできへんよ。」 「・・・。そうなの?だけど店をどこにするかも決まってないのに・・・。最初の二千万だって今はまだ使わないでしょ?」 「今すぐやのうてもええけど、できたら早いほうがうれしいねん。」 「?」 「ママに預けよう思てんねん。三千万あったら月百八十万になるからな。実際に必要になるまでの二、三ヶ月かておっきいで。店の運転資金作れるやん?」 「月百八十万?」 「オレ、ママから六パーもろてるんよ。」  宇響は、ママが信用度や彼女との親密度で、相手によって金利を変えている事を私に教えた。宇響や蓮は月六パーセント、彼らホストを通じてママと知り合った客は私を含め三パーセント、宇響にママを紹介した質屋のルナはママが子どもの頃から可愛がっているだけあって月十パーセントだという。 「わかった。少し考えさせて。」 「頼むわ。」 五月十二日(月)  私の財産は底をついていた。  母から譲り受けたニ社の二十万株、時価一億三千万円、書画骨董ニ百万円、現金二千万円、孫たちにと十年かけて少しずつ譲られてきた息子と娘名義の株、時価千二百万円、私自身の手でそれぞれの子どもに積み立ててきた学資保険三百五十万円、老後のために自分でかけた個人年金付生命保険の一時払い金二千九百万円、祖母から譲り受けた書画骨董三百万円、それらすべてをとり崩し、売り払い、遣い果たして手元にはわずか数百万円の現金と時価一千万円分の株を残すのみだった。それさえも、現金の方はイタリアで散々遣ったカードの支払いで来月頭にはすべて無くなってしまうだろう。  新しくブランドものを買ってはその支払いのために少し前に買ったものを持って質屋に行く、そんな事を繰り返していた。  宇響の喜ぶ顔を見たかった。宇響にとって欠かせない存在でいたかった。宇響と並んで恥ずかしくない女でありたかった。宇響はホストだ。金の切れ目が縁の切れ目になるのが怖かった。それよりももっと本当に怖い事からは目を背けていた。  五月六日、イタリアを旅行している私の口座には六千万円が振りこまれた。それは決して手を付けてはいけないお金だった。  祖母からの遺産は書画骨董を除くほとんどが不動産だった。現金もあったがそれらはすべて相続税を支払うために私を含む三人の相続人に分けられた。振りこまれたのはそういうお金だったのだ。 「宇響さん、千万円用意するわ。っていうか出来てるの。でも、お願いがあるんだけど。」 「なに?」 「私、その一千万と一緒に五千万渡すから宇響さんの名前でママに預けてくれない?」  先週金曜日に宇響が話したことを私は忘れなかった。そして週末、ある名案が浮かんだ。蓄えが底をついてしまった今、どうすればいいか。ママのところには今、二千万円ある。それを一旦おろして五千万円足したものを宇響の名前で預ければ月利六パーセント、即ち四百万円以上のお金が手に入る。そうすればこれからも遊ぶお金には事欠かない。いや、これからは少し節約しよう。宇響だって早晩ホストは辞めるのだし。節約すれば遣ってしまった財産だってあっという間に取り戻せる。  私は電卓をはじいた。月利六パーセントで一切手をつけずに預け続けると、たったの一年で倍になる事がわかった。七千万は一年後に一億四千万、二年後には二億八千万になるのだ。相続税は延納申請をして分割払いにすればいい。無論、税金とはいえ延納にすれば利息が付く。しかし、それは年利十四パーセント、かたや年利百パーセントなのだ。充分そのぐらいは賄える。 「ええよ。」  宇響はすぐに私の考えている事が飲みこめたようだった。 「宇響さん、私ね、もうお金無いのよ。今手元にある六千万円が最後。しかもこれは、ホントは使っちゃダメなお金なの。」 「・・・。」 「六千万のうち五千万円は私のところは通るだけ、右から左に税務署に行くお金なの。」 「わかるよ。それをママんとこに預けるわけやろ。」 「そう。でもそのためには相続税の延納申請をしなきゃならないのね。平日の九時五時でいろいろ動かなくちゃいけないんだけど手伝ってくれない?」 「ええよ。」  いいも悪いもこのお願いを宇響が断れるわけがない。最後の六千万円は宇響にとっても大切なトラの子だ。 五月二十一日(水)  すべての準備は整った。  相続税の延納申請は難しくはないが、とにかく面倒くさかった。不動産だけでは不足だと言われ、私は最後に残った株券も供託せざるを得なかった。 役所の煩わしさを嘲る現代落語に都庁で饅頭を買う噺があるが、まさに延納申請の手続きはそれを彷彿とさせた。供託書作成ではすべて株券通り旧字で書類を写さなければならず、生まれて初めて日本銀行というものがどこにあるのかも知った。 しかし、宇響はその恐ろしく面倒くさく、しかも彼が苦手な「九時五時」の作業を正確にこなした。もっともせいぜい昼過ぎ二時ぐらいに起きるたびに「早起きはキッツいで。」と再三聞かされることには閉口した。  前回三千万円の時に普通の窓口で渡されたのがイヤだったので、今回の六千万は伊勢丹の隣の店舗でおろすことにした。  銀行には無論前日のうちに電話を入れておいたが、それでも六千万円を現金で引き出したいという申し出に行員は驚き、いくつか身分を確認する問いかけをしてそれに対する私の答えに納得すると、「差し出がましいようですが」と前置きをした上で、せめて全額は引き出さずに運用する方法に切り替えてみないかと様々な提案をしてみせた。 「申し訳ないんですが、もういろいろと考えた結果ですので・・・。」  向こうの言っている事など本当はまったく聞いていなかった。年利百パーセントより優れた運用などある訳がない。  十二時を三十分ほど回ったところで携帯にメールが入った。 「着いたで。ケーキ屋の前は停められん。中央小学校の前におるわ。わからんかったら電話ちょうだい。」  机の上の書類をざっと片付け、休暇簿を提出して私は下に降りた。車はすぐに見つけることが出来た。 「メシ食うたん?」 「ううん。今が昼休みだもの。」 「食うてく?」 「その方がいいんじゃない?だって、ね。」  六千万を受け取ってしまったらもう身動きがとれなくなる。私達は西麻布の焼肉屋で昼食をとった。  私たちの席は天井から床まで鏡張りになった壁のすぐそばだった。一メートルちょっと離れたところに等身大の私がいる。  宇響と同じ美容院で同じ美容師に同じ色 ~アーバンアッシュバイオレット~ に染めてもらい、大きくカールした髪が肩下まできれいに流れ、私の動きにワンテンポ遅れてついてくる。プリーツ加工がかかった絹のブラウスはヴェルサーチで千ユーロだった。実用的な意味合いから言えば千ユーロどころか十ユーロの価値もない。薄すぎて下着どころか小さなホクロまで透けて見えそうだ。しかしデザインの魔法で、並よりもかなり短い私の腕が実に細く長く見える。下に着ているキャミソールはドルチェ・アンド・ガッバーナのヒョウ柄で三百十ユーロ。そして白いパンツにルイ・ヴィトンのミュール。このミュールは四百五十ユーロするだけの事はあった。仔山羊の革で作られていて、九センチヒールだというのにどこもあたらない。そのミュールの先からは昨日ネイルサロンで塗り替えたばかりのペディキュアが濡れたように光って今にも爪先からこぼれ落ちそうに見える。無論、手にはさらに手間とお金をかけている。これも塗り替えたばかりのフレンチネイル、そして右手にはカルチェのパリヌーヴェルサファイア、左手には宇響からもらったアニバーサリー。首元と耳には今回の旅行で買ってもらったブルガリブルガリのパヴェダイヤ。時計は前回の旅行で買ってもらったシャネルのJ12。そしてつい最近自分で買ったオレンジのバーキン。全身でざっと五百万円。  宇響と五分でも会える日は ~つまり週に四日か五日~ 毎回こんな格好を取っかえ引っかえしているのだから、あり金が底をつくのは当たり前だった。しかもこのうち二百万円近くはカードで買っているのだから六月十日には支払わなければならない。  私は狂っている。でも、みすぼらしい格好で宇響に会うぐらいなら会わない、会えない。  銀行には約束の二時半ちょうどに入った。  私の大嫌いな「案内係」が近寄って来たので、用件をズバリ言って驚かそうかと思ったが、それはあまりにも危険でバカな行為だと思って止めた。 「預金引き出しの件で石渡様と二時半にお約束しているのですが。」 「わかりました。少々お待ち下さい。」  案内係が一瞬引いたのを私は見逃さなかった。行員と予め約束をして来る客が少ないのもあるだろう。が、それよりも私達二人が発するなんとも言えない危うさをこの男は長年の経験から嗅ぎ取ったに違いない。  青山支店の時とはうって変わり、私達は応接室に通された。 「現金六千万円です。お確かめ下さい。」  確かめる事はない。日銀の帯封が十文字に掛けられた塊が六個。さすがにいつものコンセイエではどう崩しても入らない。第一、崩したくない。数時間後にこのうちの五個はママの手元に行くのだ。この塊のままならば数える手間が省ける。  今日の宇響はヴィトンのキーポルを持って来ている。彼の美しい手が札束をひと塊ずつ鷲掴みにし、その中に丁寧に詰めて行く。私は複雑な思いでその様をぼーっと見ていた。 宇響を信じ切る根拠は一体どこにあるのだろうと思う。 今までなら千万、二千万、三千万を渡しても、宇響がそれを持って逃げる事は絶対にないという確証があった。持ち逃げすればそれで終わってしまう。それよりも私とのいい関係を保ち続けた方が結局宇響が得るものは大きくなる。  しかし、今回は違う。株と自分の家を担保に手にしたこの六千万円を失ったら、私は無一文になる。宇響はこの金を全額自分のものにして私の前から姿を消し、密かにママに預けて殖やす事だって出来る。現にママは金のやり取りのために日本中を飛び回っている。  私にはこういう事を冷静に考える力が今も残っている。それなのに実際に自分が頼るのは自分の感性だった。 ― 絶対に大丈夫。宇響さんは私を、ううん、私だけじゃない、彼を大事にする人間を裏切るような事は絶対にしない。何があっても。  夜メールが入った。 「今日はありがとう。ママに無事渡したで。さすがに今日はびびったわ。ホッとした!これからはもうムダな金使わんようにせな。今日は泰雅んとこレスラー来んねん。気合い入れて行くで。」 「レスラー以外にブッチャーみたいな人も来てる。今日は酔わんとこ!怖い怖い。終ったらまたメール入れるわ。」  レスラーもブッチャーも泰雅の客だ。  こういう当たり障りのない悪口が私をちょっと喜ばせることを彼はよく知っているのだ。 五月二十四日(土)  子どもの学校の保護者会を終えて家に向かっていると宇響から電話が入った。 「おはよう。何しとったん?」 「ちょっとお友達と。今、家に帰るところ。」  止むを得ないとき以外、私は宇響に子どもの話をしない。 「メシでも一緒に食べへん?」 「いいよ。何時に?」 「その前に中古車屋行きたいねん。」 「なんで?」 「前から探しとった車、見つけてん。雑誌で見ただけやから今もあるかどうかわからんけどな。」 「やめたんじゃないの?」 「見るだけでも行ってみよかな、思て。」 「そう。いいよ。」 「そしたらそっちの方やから迎えに行くわ。五時・・・五時半頃でどう?」 「いいよ。」  会社を設立するとなると、会社としての車が欲しい。ここのところ宇響はそう言い出した。黒のスポーティーセダン、中古で。  私は反対した。買うこと自体ではなく、今買うことを。 「だって、社用車が要りそうだっていうのは感覚的なものでしょ?いや、そりゃあ要るかも知れないよ、本当に。でもそれは会社を立ち上げて、レストランの事ももう少し固まってきてからの方がいいんじゃない?仕事でお付き合いする人をそんなに乗せてあげたりする場面って本当にあるのかどうかわからないし、実際にお店が出来たらワゴンやバンの方が必要かもよ。宇響さん嫌いだろうけど。」 「そうやな。ようちゃんの言うとおりや。もうちょっと考えてみるわ。」  そう言ったのはわずか一週間前だったのに。  いつも通り遅刻して来た宇響は私を高井戸の環八沿いにある中古車屋へ連れていった。  宇響はSL6.1を車関係の店先に乗り付けるのが大好きだった。 「こんなとこ、止めていいの?」 「ええやろ。暗いとこに置くん、イヤやもん。」  屋外に二十台ばかり並んでいる中から、宇響は目当ての車をすぐに見つけだした。 「これや。カッコええやろ?」 「・・・。」 「ダメ?」 「いや、ダメとか、私わからないもの。これ、何?」 「アリスト。そやけど、ここにレクサスて書いたあるやろ。トヨタはうまいねん。自分とこの車の中で高級車だけをアメリカではレクサスいうブランドで出してんねん。」 「ふうん、じゃあ、これは高級車なんだ。」 「セルシオもレクサスやねん。セルシオとソアラとアリストがレクサスになって出てんねん。」 「・・・?」 「わからんよな。アリストや、要するに。」  私にはよく解らなかった。私の顔を見て宇響が笑う。私の目には宇響がいつもにも増して大きく、素敵に映る。 「ちょっと、話聞いてみるわ。待っとって。」  ヒマになってしまった。イクサイトオートの時と違って置いてある車を見ても別に面白くない。仕方なく店内に置いてある三流週刊誌をパラパラと読んでいた。ヒマでも、面白くなくても、私はこうやって静かに宇響を待つ時間が好きだった。 「買うことにしたわ。」 「そう。」  一週間前と同じ理由で私は反対だった。しかし、言いきった宇響がもう人の言うことなど聞かないのを私はよく知っていた。 「いくら?」 「今、細かいとこ出してもろてるけど、三百三十万ぐらいやな。今、現金二百万しかないから、百三十万円はローンにするわ。」 「ローン?」 「・・・。それしかないやろ。ママに預けたばっかりの金おろすことは出来んしな。」 「でも・・・。」  宇響は迷っているのではない。ローンを組んでまで買っていいかどうか自分でも迷っている「フリ」をしている。そうしながらも、会社が立ち上がった暁には個人所有から社用車に書き換えが出来るかどうかなどを訊ねている。  私はお約束どおり「フリ」に引っかかってあげる。 「ローン組むの止めなよ。」 「?」 「もったいないよ。今、手元にないだけでしょう?それで利子の付く借金するのは。私、貸すよ。百三十万ぐらいなら大丈夫だから。でも、これは貸しね。別に来月じゃなくてもいいよ。出世払いって事で。」 「ええのん?」 「うん。いいよ。でも、本当に『貸し』だよ。利息は付けないけど。」 「ありがとう。」  諸手続について説明を受け、手付け金十万を宇響が支払って、私たちは店を出た。 「明日は日曜だから、明後日振り込むね。」 「ありがとう。ちゃんと返すから。」 「うん。私はあげる時はあげる。でも『貸す』って言うときは貸すんだからね。」 「わかってるよ。大丈夫。」  センチュリーハイアットのシュノンソーに着くまでの間、宇響は「あの車を買うことの必需性とメリット」を話し続けた。  これから仕事でますます車を使うことになるからSLだけではムダに走行距離が伸びてもったいないこと、仕事で使うにはやはりセダンでなければ無理があること、荷物を積み降ろしすればどうしても車が傷むけれど中古のアリストならばどうなっても気にせずにいられること、これまでにも泰雅や諒二に車を貸して用を足してもらいたいことはあったがSLでは自分もイヤだし借りる方も遠慮するから頼めなかったこと、もう一台分駐車場を借りる必要があるけれど、そうは言っても今度は安い、屋根もない駐車場で済むから大してお金はかからないこと。 「とにかくさ、あの車やったら別に手をかけることもないし、汚れても、擦っても気にせんでええよ。それやし、ゴルフかてこれからはオレの車で行けるで。みんなに運転変わってもらえるし。」 ― だよね。だって、車買ったけどアンタ、今、免許ないモンね。そっちが先じゃん?   五月。店には五回行った。最終日にはちゃんと帳尻あわせに九十五万円遣った。店に落としたお金二百五万円。チップ、アフターで三十万円。  店の設立資金追加分一千万円。
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