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五月
五月三日(金)
パチンコ屋か、場末のゲームセンターにも見えなくないイルミネーション。
右手のウインドウには数えきれないほどのホストたちの顔写真がずらりと並んでいる。自分がもっともいい男に見えるであろうポーズを思いおもいにキめ、鋭い視線でこちらを見つめていることはそこを見なくても痛いほどわかる。
―写真って生きてないのに・・・。不思議。
本当にここしか開いてないのだろうか。
第一、この如何んともし難い品のない店構えが、私でさえテレビや雑誌で何度も見聞きしたことのあるホストクラブ日本一のアマンなのだろうか。様々な思いが頭の中をよぎる。とにかくそこに立っている事には耐えられない思いがした。
「はいろっ。」
自分の後ろでこれもまた様々なことを考えているに違いない智実に向かって私は意識的にあっさりと言った。
「うん、いいよ。」
店の狭い自動ドアの前には二段だけ階段があって、その上には薄汚れたペルシャ絨毯が敷かれている。
意を決して踏み出したのに自動ドアは開かない。 この店に来る前に、一角手前にある「ディオス」という店にも行ったが、人気はなく閉まっていた。
―ここも休み!?
そんなはずがない。これだけド派手にキラキラピカピカやっているのだ。絨毯の上にもう一度体重をかけてみると、今度は開いた。右も左もさらには天井までにも鏡が張り巡らせられ、おまけに店外に負けず劣らずたくさんの電球が光る狭い階段が地下へと続いている。
―ここまで来たら行くしかない。
気持ちは、小学校一年のときに近所の神社でやっていたお化け屋敷に一歩踏み入れた時と全く変わらなかった。
下から、薄手のいかにも初夏らしい色合いのワンピースをまとった女が、そのよろけがちな足取りを心配して彼女の肘を支えるホストに付き添われながら上がってきた。狭い階段ですれ違うのは何とも難しく、気恥ずかしくてならない。
階段を降りると右手に小さな詰め所のようなものがあった。その中にがっちりとした顔の浅黒い男が一人座っていた。
ここが受付?でも、ホストクラブに受付ってあるのだろうか。
すぐ目の前にもう一人別の男が立った。眉が濃く、目がギョロリとした男だった。
― クマソ。
ちらと思った。
「いらっしゃいませ。」
「初めてなんですけれど、どうすればいいんですか。」
「お一人様一万円からとなっておりますがよろしいですか。」
「はい。」
― 本当に?本当に一万円ですむのかな。まあいいや、カード持ってきてるから。
「どうぞ、こちらへ。」
そう言って席を案内するクマソの手首で金のブレスレットがジャラリと音を立てた。よく見ると、コレモンぐらいしかしていないだろうという太い指輪もしている。
私たち二人は案内された深緑色のソファに並んで座った。
手持ち無沙汰で、ただ店内を眺めまわす以外にすることがない。
ほどなくしてテーブルがセッティングされた。眞露のボトル、デキャンタに入れられたブランデー、ミネラルウォーターのビンに入った本当は水道水に決まっている水、アイスペール、そしてブランデーグラス。真っ赤な紙コースターの真ん中には金色の文字でロゴが入っている。
「Amant」
すぐに二人のホストが現れた。オセロのように対象的に顔の色が違う二人だった。
「いらっしゃいませ。」
顔の黒い方が言いながら、おしぼりをひらりと私の顔の前で開いた。
「いらっしゃいませ。」
白い方が言いながら同じように智実に向けておしぼりを出した。
黒い方は岩崎、白い方は浜というのだと二人は自己紹介した。
岩崎は立ったまま笑って言った。
「並んで座られちゃうと・・・僕ら・・・。一人こっち側に移ってもらってもいいですか?」
― なるほどね。客同士じゃなくて、客とホストが並んで座るものなんだ。
私は向かい側の席に移動した。
「お名前を聞いてもいいですか?」
「佐藤です。」
「こういうところではさ、あんまり苗字は使わないよ。下の名前聞いてもいい?」
― 私だってさ、苗字を言うのはどうかなって思ったよ。でも、あなたたち二人とも苗字じゃない?
心の中で言い返した。
「陽子。」
「そっか、ようちゃんだ。」
― ちゃん~?なるほどねえ・・・。年を忘れさせるためにそう呼ぶんだな。
「で、あなたは?お名前を聞いてもいいですか」
「智実です。」
* * *
この五月の四連休、二人の子どもたちは彼らの父親のところに泊まりで遊びに行くことになっていた。智実はプロ家庭教師なのでこの時期は比較的時間にゆとりがある。それに、プライベートでも長年付き合ってきた妻子持ちの男と三月に別れたばかりなので、縛りが減って結構暇そうにしていた。
私は一年あまりつきあってきた土建屋の社長と別れたばかりだった。
子ども二人のことをそれなりに大切にしてくれたし、私のことも保護者のようになって大事にしてくれた。おいしい食べものを愛し、酒もよく飲んだ。話題が実に豊富で頭の良さを感じさせた。そして、セックスがとても上手で、また大好きだった。私たち二人は本当に相性がよかった。
けれど、この世の中で誰よりも正しいのは自分で、それを疑う余地はないと信じている彼とは一度意見が食い違うとケンカにさえならない。
「いいんだよ。おまえはわかってないんだから。そういうものなんだよ。今にわかるよ。」
そう言われてもこっちも四十年以上生きてきているのだ。しかも自分で稼いで。もともと議論好きで正義感の強い私が我慢できるわけもない。
結局、智実よりひと月あとの四月、私もその男とは別れた。
智実と私は、町田にある中学受験塾の元同僚だ。私が結婚を決意し東京に戻って来てとりあえず見つけた職場で出会った。
それまで智実以外には男性講師しかいなかったというその塾で、彼女は女性講師である私を歓迎してくれた。私たちはすぐに仲良くなった。
その後すぐ、私は結婚前に上の子どもを妊娠した。それでも塾長からは仕事は続けて構わない、いや、続けてくれるようにと言われた。私もそのつもりだったのだが妊娠八週目にして切迫流産になってしまった。
私は止むを得ず退職した。しかし、私と智実とのつき合いは続いた。
私の家によく遊びに来ては子どもたちを可愛がってくれた。子連れで一緒に旅行にも出かけた。少し大きくなると子どもたちの勉強も見てくれるようになった。
頭の回転がいいことをいつも自慢する智実、新しいことに敏感で時事や流行りをうまく使ったジョークで人を笑わせるのが大好きな智実、結婚もせずに自由に恋愛を楽しんでいる智実がどうしていつまでも私のような人間とつきあってくれているのか、私は心の奥底でいつも不思議に思いながら少し気を遣ってつきあって来た。
私が土建屋の社長と別れたことをメールすると智実から返信が来た。
「よかったんじゃない?横暴だったもの。あなたのことだから結局別れられないのかなぁって思って見てたんだけどね。ところで、連休はおヒマ?子どもたちと旅行?」
「ううん。子どもたちは二人とも二日の夜から元ダンの家。久しぶりに独身よ。バンザ~イ!」
「ホント?じゃあ、久々に遊ぼうよ。いつがいい?」
「ガラ空きだからどの日でもいいよ。」
「じゃあ、三日でどう?今、ホストクラブの本読んでんだけど行ってみない?」
「いいよ、大人の遊びだねぇ。OK!」
次の週、家に子どもの顔を見に来た智実はホストクラブのことが書いてある本を二冊置いていった。
「予習しといてね。」
「うん。わかった。」
「でも、あんまり読み過ぎると行く気しなくなるかも。」
「何で?」
「う~ん。結局手練手管が書いてあるからね。でも、あなた結構はまりやすいタイプだから予習で少し裏を知っといた方がいいかも。」
私は笑った。
「わかったよ。」
本にはそれほど大した事は書いてなかった。長年ホストとして勤め、今では新宿と六本木に店を出している「ホスト王」が仕事を通じて体得した女性の扱い、更に女性はこんな事に気を遣うともっと美しくなれるといったようなことが書いてあった。
私たちは渋谷のマークシティで七時に待ち合わせた。
私は二冊の本で予習したおかげで、ホストが初回に訪れた客をどうやって値踏みするのかを知り、センスよりも「金」が見え隠れするものを身につけた。初回は五千円か一万円だと書いてあった。どうせポッキリのお金を払うのなら、チヤホヤされた方が得に決まっている。チヤホヤされるためには金目のものをちらつかせるのが一番だと判断した。
金無垢に文字盤がターコイズブルーのロレックス。右手には大きなサファイアの周りを十個のダイヤが縁取った指輪。左手にカルチェの七連リング。バッグはルイ・ヴィトンのエピシリーズでアルマ。それに合わせてヴィトンの大振りなモスグリーンのストール。
服は迷った。二冊の本にもホストクラブには何を着て行くべきかということは書いていなかった。あんまり気張ると浮いてしまうかも知れない。だからといって、あんまり砕ければ「金」の臭いがしなくなってしまう。
結局エルメスの何でもないブラウスに茶の革スカートを合わせた。
智実はその十日ほど前に泥棒に入られたばかりだった。もともとブランドものにさほど興味がなかった彼女は、それでもわずかに持っていたブランドものをすべて盗まれてしまった。それで極々普通の、これから家庭教師に向かってもいいような出で立ちで現れた。
私たちは久しぶりにウィンドウショッピングを楽しんだ。それから手頃な値段のスパゲティ屋に入った。食べ終わって私は訊ねた。
「ねえ、今日どこに行くの?どこにあるのか知ってるの?」
「知らないけど、新宿うろついてれば誘われるんじゃない?とにかくチケットか何かもらわないと安くならないと思うんだ。」
「新宿って?東口?」
歌舞伎町が大嫌いな私でもあの辺りには怪しい、いかがわしい男たちがウロウロしていることぐらいは知っていた。
「だと思うよ。だって、西口、南口じゃないでしょ。」
「もう行く?」
「クラブ活動はね、ゆっくりでいいの。あんまり早く行くとやってないと思うよ。」
「ふうん・・・。」
暇つぶしにさらにコーヒーを飲み、私たちは九時になって出陣した。
「出陣」。まさにそんな気持ちだった。
新宿の東口を出るとアルタ前にも、スカウト通りにも確かに多くのキャッチがうろついていた。しかし、私たちのようなオバサンに声を掛けるホストは誰もいなかった。
「どうする?チケット、くれないね。」
私が言った。
「しょうがないから直接行ってみようか?」
「でも、どこにあるかわからないよ。」
「う~ん。わからないけどあっちの方だよ。行ってみよう。」
智実は先に立って歩き始めた。インターネットででも調べたのか、それともホストクラブのあるゾーンというのは有名なのか、彼女についていくと次第にホストクラブの看板が見えてきた。
「ここだよ。あの本書いた零士さんって人のお店は。」
「ディオスって言うの?ああ、そうだね、そう書いてあったよね。」
「ここにする?」
「うん。そうしよう。」
はっきり言ってどこの店でもよかった。とにかくウロウロ歩くのは嫌だった。
しかし、まったく人気がない。照明も点いていないし、自動ドアの前に立っても開かない。
「今日、やってないのかな?」
いたたまれない思いで私はつぶやいた。
「そんなことあり得ないよ。今日金曜日だよ?今日から連休だよ?きっとまだ開店時間じゃないんだよ。」
「ふ~ん、そうなんだ。もっと渋谷でゆっくりすればよかったんだね。」
「まあ、もう少し奥の方に行って見ようよ。」
「そうだね。」
私たちはディオスから離れ、もう少し歩くと実に電飾華やかな店を見つけた。
それが「アマン」だった。
私でさえもその名前は知っていた。
* * *
岩崎と浜の接客は実に退屈だった。
私はあまりにつまらないので気を遣って自分が場を盛り上げようと様々な話題を提供した。一方智実ははっきり「つまらない。」と言い切った。
もともと彼女は人に諂ったり、お追従を言うようなところがまったく無い。
「全然おもしろくない。いつもこんな話してんの?私が話した方がよっぽどおもしろいよ。私、ホストになろっかな?」
私は智実があまりあけすけに言うので少しドキドキした。
店に入って一時間。なんとか話を繋いでいるうちにいつの間にか私たちの周りには七人ものホストが座っていた。私の「金目のもの大作戦」が功を奏したのかも知れない。
彼らは、座に入って来ては次々と名刺を渡してくるが、人数が多いので途中から名前と顔が一致しなくなった。
やたらと声が甲高く座の雰囲気がまったく読めない男、なかなかの好男子で髪が岩飛びペンギンのように立っている男、小林薫によく似た色黒で自信ありげな男、中居正広にちょっと似た浅黒くてこれもまた私好みの男。
高校を出たばかりと言った風でスーツより学生服の方が似合いそうな新人が使いっ走りをしていた。
岩崎が私の隣に、浜は智実の隣にまだ座っている。
座がだんだんと盛り上がってきた。私はフリードリンクとして出されているブランデーと眞露を飲みたくなかったので、隣に座っている岩崎に聞いた。
「ワイン、無いの?」
「もちろんあるよ。ここに無いお酒なんてないよ。待っててね。ワインリスト持ってくるからね。」
リストに載っているワインの中から私は一万円のワインを選んだ。自分にはどうせ味なんてわからない。
智実は相変わらず大して面白そうでもなかった。それに彼女はまったくと言っていいほど酒が飲めない。ウーロン茶ばかりでは酔える訳もなかった。
私の方はかなり愉しんでいた。その頃話題が下ネタになうつっていたこともある。どうせ、二度と来る事はないのだ。この男たちにどう思われたところで何という事もない。今晩一晩チヤホヤされて、楽しめればいいだけの話だ。
十一時近くなってもう一人ホストが入ってきた。
「ウキョウです。」
そういって智実と私に名刺を渡したのは三白眼で強面の男だった。
淡いアジサイ色がかったグレーのスーツがよく似合う何ともセクシーな男だった。髪の色と流れが実に美しかった。
名刺には「宇響」と書かれている。
彼は図々しくも座の真ん中にスツールを持って来ると、今出勤したのでもあるまいがネクタイを締めながら腰掛けた。
足を大きく広げ、背筋をピンと伸ばして座っている姿は見事にシャープだったが、意外にも彼はバリバリの関西弁で話が面白い。
私たちはみんなでゲームを始めた。はじめに年齢あてゲーム。一番外したホストは罰として酒を一気飲みする。
私は昔から人が酒の一気飲みをするところを見るのが大嫌いなのでそんなことはどうでもよかった。
「本当に思った事書いてもいい?怒って帰らないって約束してくれる?」
岩崎が私に訊ねる。
「怒らないよ、大丈夫。」
コースターの裏にホストが想像する年齢を書き、「せえの!」で開ける。
どのホストも実年齢より五歳から十歳は若く書いてくれる。そんなことは当たり前だ。ズバリの年だの、まして実年齢より多く書いた日には目も当てられない。
それより私が嬉しかったのは、どのホストの目にも私の方が私より一歳半若い智実よりも若く見えたことだった。
次に二人の身長あてクイズをやった。どのホストも私たちが立っているところは見ていない。座ってしまうと智実と私のどちらが高いかさえ解りにくいようだった。本当のところ、智実は私より十センチ以上背が高い。
このゲームでは宇響が一番外した。彼は罰ゲームで瓶に残っていたワインの一気飲みをした。
二つのゲームが終わると小林薫似の色黒ホストが仕切った。
「いつまでもこうしてたところでしゃあないから、今から無人島ゲームやりま~す。いいですか?あなたは今から無人島に行きます。この中から三人の男を連れていくことができます。一人は友達として、一人は恋人として、一人は結婚相手として。さあ、どうしますか?」
「こうしてたところでしゃあない」という意味は私にもよくわかった。ホストだって忙しいのだ。望みがない客とわかれば長居は無用だ。要は、はっきりしろと言うことだ。
「どうする?」
私が智実に訊ねると、彼女は鼻で笑い、実に素っ気なく言った。
「あなたが決めていいよ。私、別に無人島行かないし。」
たかがゲームなのに私は結構真剣になった。
はじめに私は友人として岩飛びペンギンを選んだ。すぐさま岩飛びペンギンはそれまで私の隣にいた岩崎と席替えをした。私が考え込んでいると、岩飛びペンギンが言った。
「オレはもう友達として選ばれたんだから教えてよ。何、迷ってんの?」
「う~ん。あの人とあの人、どっちが恋人でどっちが結婚か迷ってるの。」
私が迷っているのは中居正広似の松園というホストと宇響の事だった。結局どちらをどちらに選んだのかは覚えていない。そのどちらにも選ばれなかったホストにとってそんなのはどうでもいいことだった。「恋人」と「結婚相手」など本当は意味のない質問で、要は指名ホストの候補者を三名挙げろというだけのことなのだ。
無人島ゲームが終わると私の右隣に宇響が、智実の右隣に松園が座った。
潮が引くように去って行くホストたちを私がぼんやりと目で追っていると宇響が言った。
「せっかく隣に座ってんのに、こっち見てもくれへん。」
「そんなことないよ。ゴメンゴメン。」
私は唐突に訊ねた。
「ねええ?さっきトイレに行ったときにホストの写真が並んでるの見たんだけど、ああいう人にはなかなか会えないもんなの?」
「ああいう人って?」
「あれは、順位で並んでるんでしょ、あんまり立ち止まって見た訳じゃないけど。つまり、すごい人たちなんでしょ?」
「オレ、三番やで。」
「ええっ!そうなの!何でそうならそうと言わないのよ?」
「言わんよ、そんなん。なに、そしたら名刺出しながら『ナンバースリーの宇響で~す!』って言うん?おっかしいやろ、それは。」
「そうね・・・。確かに変かも。うん。でも・・・そうなんだぁ・・・三番なんだぁ。すごいんだね。」
私は改めて宇響の顔を見た。
― すごいんだ・・・この人。
しばらくすると松園、宇響がそれぞれ属しているグループのヘルプが来た。
いつの間にか宇響と私の話題はなぜかまた下ネタになっていた。私はもう随分酔っていたのだと思う。
話の中で宇響が聞いた。
「じゃあ、オレとエッチしてくれる?」
「うん、いいよ。」
私は軽く答えた。
「エッチなんてスポーツじゃん?」
エッチがスポーツなんて自分で考え出したことではない。伊丹十三監督の映画「スーパーの女」で主人公の女のセリフでそういうのがあっただけの話だ。ただ、私は自分が重い女ではないことをアピールしたくて、わかったような事を言ったまでだ。
「そうなん?」
「そうじゃないエッチもあるかもしれないけど、私はエッチはスポーツだと思ってるよ。」
「そうなんや。ねえ、ようちゃん、電話番号教えてよ。」
「うん、いいよ。」
世間がどう思うかは別として、私は携帯電話の番号というものに何ら価値を認めていない。そんなものはいざとなったら番号を変えてしまえばいい。
私がコースターの裏に自前のボールペンで番号を書こうとすると宇響が言った。
「書かんでええよ。オレ、一回言うてくれたら覚えるから。」
「ホント?」
私は自分の番号を伝えた。
電話番号を聞くと安心したのか、宇響は席を中座した。立ち上がりながら言った。
「一時まで居れるやろ、居ってな、な。戻ってきたらカラオケ行こ。」
ロレックスに目を落とし、智実の顔色をうかがってから私は答えた。
「うん、いるよ、大丈夫。」
宇響がいなくなり、智実が続いてトイレに立つと、松園が寄ってきて言った。
「ようちゃん、僕にも電話番号教えて?」
「うん、いいよ。」
私は松園にも電話番号を教えた。
言ったとおり、宇響は戻ってきた。私たちは四人でカラオケに行く事になった。
「それ、持ってあげるよ。」
会計を終えた私に向かって、宇響は手のひらを上に差し出すと、その目でアルマを指した。
「え~、いいよ。別に重くも何ともないし。」
私は言った。もちろん重くなんかないのだが、それ以上に今日知り合ったばかりのホストに貴重品が入っている鞄を持たせるのがイヤだった。
こんな時、智実だったら「いいよ。」じゃなく「イヤだよ。」とさりげなく言えるのだろう。私はそういうことが言えない。結局アルマは宇響が持つことになった。
カバンという人質を取られ、私は宇響について歩くしかなくなってしまった。
店を出て、歩いて五分ほどのカラオケボックスに私たちは入った。
ボックスの中でも私の隣には宇響が座った。松園は一応智実をエスコートする形をとったが二人の間ではほとんど話が弾むことはなかった。それはそうだ。智実はそもそも酒を一滴も飲んでいないのだし、そろそろ疲れて来てもいた。カラオケだってそれほど好きなわけではなかった。さらに松園は物静かな男であまり話もしないと来たのでは盛り上がるわけがない。
松園にしてみれば、どう見ても智実より私の方が太い客であることは明らかで、無人島ゲームを終えた時点では宇響と対等だったはずなのに、いつの間にか自分と智実がペアといった雰囲気が出来上がってしまったことも面白くなかったのかもしれない。
私はといえば、カラオケが好き過ぎて次から次へと自分の歌いたい曲を入れていたからほとんど宇響の話は聞いていなかった。宇響が何かぼやいていたが、そんなことは気にしなかった。
いや、それはウソだ。既にこの時、私の心は大きく宇響に傾いていた。だから、私はわざと天真爛漫で、宇響の話など意にも介さず歌に一生懸命になっている自分を演出していたように思う。
カラオケは朝五時近くまで続いた。
四人がヨロヨロになって外に出ると、街はすっかり明るくなっていた。
歌舞伎町の朝は汚い。夜の間は目につかなかった生ゴミ、吐瀉物、破れたチラシ、至るところそんなものばかりだった。なぜかひどく罪悪感を覚える。
頭上でカラスが大声を上げて幾羽も飛んでいた。カラオケボックスの真ん前でタクシーはすぐに拾えた。
「今日はありがとう。また。」
そう言って二人のホストは並んで見送ってくれた。
私は自宅ではなく、智実の家に同行した。
タクシーに乗るや否や気持ちが悪くなった私はそれでも何とか十条にある彼女のマンションまでは我慢したが、着くなりトイレを占領した。
この日の会計。
初回料金一人一万円。ワイン一万円。カラオケボックス二万五千円。酒を飲まない智実と割り勘というのも気が引けるので私は三万五千円を支払った。
私たちは午後三時まで眠った。起きてみると、私は明らかに二日酔いで、頭がガンガンしていた。そんな私に智実は熱いコーヒーを淹れてくれた。
私たちは気怠く、昨夜の感想を語り合った。智実の感想はホストたちに対し実に手厳しいものだった。曰く、つまらない、くだらない、面白くない。
「でも、さすがホスト、歌はうまかったね。」
と、彼らの歌唱力だけは認めていた。
私はとても楽しかったと言うのがちょっと気まずく、カッコつけで
「まあ、あんなもんじゃないの?それなりに面白かったじゃん?」
と言っておいた。
そして、酒を飲まない智実を結局は長い時間つきあわせたこと、挙げ句にトイレで吐いたことを謝った。
話をしているうちに、四時過ぎになって携帯電話が鳴った。
父親のところにいる子どもからかと思ったが、プライベートウインドウには登録されている誰かの名前ではなく090876777**と言う文字が浮かび上がっている。
「きっと、きのうのホストだよ。本当にかけて来るんだね。」
智実に向かってそう言いながら私は通話ボタンを押した。
「おはよう。宇響やけど。わかる?覚えてるぅ?」
「うん、覚えてるよ。」
「起きとった?寝とったんちゃうん?起こしてしもたかな?」
「ううん、さっき、三時頃起きたんだよ。昨日は智実ちゃんちに泊まったから今もまだ一緒なの。二人でみんなの噂してたんだよ。」
「どんな噂やねん、悪い噂ちゃうん?」
「ううん・・・。智実ちゃんはねぇ、結構手厳しいからねぇ。待って、ちょっと代わるねぇ。」
ホストがなぜ電話してくるのかを今ひとつ理解していない私は自分の携帯電話を智実に渡して二人を話させようとした。
「・・・。 うん。 ・・・うん。 ・・・。 まぁね。つまらなかったとは言わないけれど今ひとつみんな笑わせんのヘタだよ。最初の頃なんて私たちが接客してたようなもんじゃない?宇響ちゃんはその時まだ居なかったけどね。 え~?・・・う~ん・・・まあ・・・遠慮しときます。あなたの本命は私ではないんだろうし?今、代わるからね。はい? ・・・はいはい。」
智実が携帯電話を私に返してきた。
「ね、キビしい感想だったでしょ。」
「そうやなぁ。ようちゃんはぁ?ようちゃんもつまらんかったん?」
自分一人で電話しているのだったら私はすごくおもしろかったと素直に言えただろう。しかし、すぐそばには智実がいる手前、
「わたしぃ?どうかなぁ・・・ううん・・・結構おもしろかったよ。」
と、答えた。
「あのさぁ、今度一緒にご飯でも食べに行こうよ。」
私は目の隅で智実がトイレに行ったのを確認した。話しやすくなった。
「ご飯?いいよ。私は水曜日と金曜日しか出かけられないけれど、いい?」
「ええよ、大丈夫やで、そしたら来週の水曜日な。それまでに何食べたいか考えとって。」
「わかった。考えとく。」
「また、電話するよ。」
「うん、わかった。いいよ。」
トイレから戻ってきた智実に水曜日にご飯を食べる事になったと報告すると智実は心配した。
「ご飯はいいけどさぁ、気をつけなよホンっトに。あなた少しはまりかかってるから。全財産なくさないようにね。」
「だいじょうぶだよぉ・・・。ま、わかりました。気をつけます。」
もう一杯コーヒーを飲むと私は相変わらず気怠い体をおして自宅に向かった。
自宅に帰って私はすぐにまたベッドに横になった。眠くはなかったが、動く気がしなかったのだ。
ふと、思い立ってカバンの中から昨日もらった名刺を取り出した。
ごく普通の紙に源氏名と金色で「Amant」とロゴが印刷してあるものが一番多かった。ほかの何枚かは高級そうな和紙に印刷してあり、一枚はさらにその上から金箔が散りばめてある。店の電話番号に加えて自分の携帯電話番号まで印刷してあるものもあれば、ただ一行習字のように名前だけを真ん中に入れてあるものもある。裏に返すと宇響のものだけは店の地図が載っていた。
― こんなもの、持ってるわけにはいかないな。
さっき宇響からは電話があったので既にその番号は自分の携帯電話に登録した。もう名刺は要らない。そう思って私はゴミ箱の中から一度捨てた封筒を取り出し、すべての名刺を手でちぎってその中に捨てた。
テレビをつけて、見るでもなく見ないでもなくぼ~っとしていると、携帯電話が鳴った。
今度こそ子どもかと思ったらプライベートウィンドウにはまた別の090から始まる番号が表示されている。松園に違いない。
電話に出るとやはりそうだった。
「もしもし、松園ですけれど。昨日はどうもありがとう。何してるの?」
「今?今、ゴロゴロしてる。」
「疲れちゃったんじゃない?」
「う~ん・・・疲れちゃったっていうか二日酔い。みんなはすごいね、毎日こんな生活してるんだものね。松園さんだってもうお店でしょ?」
「まだだよ。僕は店に八時半頃行けばいいんだから。ねえ、ようちゃん、今度ご飯食べに行かない?」
「え~っ。」
私は笑った。
― なるほど、初回の後は「ご飯」が定石なんだね。
「私、ご飯なんか食べなくってもお店ぐらい行くよ?」
「そうじゃなくって。ほら、あんまり話とかできなかったでしょう。だから、二人でご飯食べながらいろんな話したいなぁって思って。」
「うん。じゃあいいよ。来週の金曜日でもい~い?」
「うん、わかった。じゃあ、来週の金曜日ね。ありがとう。また、電話するね。」
宇響の電話とまったく同じ内容だった。違うことと言えば関西弁と関東弁ぐらいだろうか?
― ホストって会話マニュアルとかあんのかな。
言うまでもなく、私が水曜日と金曜日を指定したのはそれが子どもを見てもらえる日だからだ。しかし、週に二日しかない残業デーに両方遊びの約束を入れてしまって、来週の仕事は大丈夫なのだろうかと少し不安になった。
翌日も翌々日も、結局約束の水曜日まで毎日、宇響からは電話があった。
他愛もない話をした。
その他愛のない話の中で私はいつの間にかもう一人の私、虚像を作り上げていった。
別に本当の自分を知られて何一つ困ることなど無いのだが、ホストクラブに通い続けるつもりなど全くなかったのであそこに行くときの自分、ホストとつきあっているときの自分は別の人間にしておきたかった。
それに、私という人間には何ら「神秘」が無いのがつまらなかった。人としても、女としても。
田舎の小学校教員が学生時代からの先輩と結婚した。二人の子どもを持ったがうまくいかず離婚した。今は毎日満員電車に乗って、無名の小さな財団に勤めている四十過ぎのオバサン。
それではなんだかつまらないような気がした。
私は訳あって囲われている女だと言った。自分の仕事は何かというと、あることのためにいつも家でゴロゴロして待機していることだと。家の中で何をしていてもいいのだが拘束されていて、外出は水曜と金曜の夜以外は出来ないのだと。
宇響の気を惹きたいがために私はもう一人の自分に「神秘性」を持たせ、なんだかフワフワした危なっかしい、そして物憂げな女を演出した。
物憂げなもう一人の私は電話口でも甘く、気怠そうに、どこか世の中を諦めたような話し方をした。それは本物の私とは全くの対局にいる人間像だった。
お金はいくらでもあるが使い道もないし、第一、出かけられないので使うこともできないという話を織り込んで、太い客になる可能性を持っている事を臭わせることは決して忘れなかった。
ホストクラブになどかつて一度も行ったことのない私だったが、ホストがどんな人間を大事にしてくれるのかは二冊の本による予習と初回一回で体得していた。
五月八日(水)
宇響とは七時に新宿東口アルタ隣の三井住友銀行のATMで待ち合わせをした。
私は会社を定時に出て、新宿駅のトイレで念入りに化粧直しをした。それからATMで四十万円を引き出した。初回のあと、ホストクラブではいくら遣うものなのか見当もつかないので困った。
今日、「金」を演出するのは黒のオータクロアとこの間とは違うロレックスのデイトジャスト、それにカルチェのスカーフで作った特注のブラウス。十分だろう。
約束の時間の五分ほど前に着いた。
― 私は会社帰りに東京駅から来たんじゃない。成城の家から来たんだ。外出したのは先週の金曜日、つまり先週智実ちゃんとアマンに行った日以来。
彼を待つ間、私は頭の中で虚像の私について整理確認した。
携帯が鳴った。
「もしもしぃ、宇響。もう、着いとおん?」
「そうよ。宇響さんダッシュ、ダッシュ!」
「え~ぇ。オレの時計ではまだ時間やないけどなぁ。とにかくすぐ行くよ。」
― 別に責めたんじゃないのに、ふざけたんだけどな。
ちょっとだけ悲しくなる。
― 会って、顔わかるかな。
少し不安になったが、ほどなくしてこちらに歩いてくる彼は遠くからでも一目でわかった。どこから見てもいい男だと改めて思った。
「何食べる?考えて来てくれた?」
「しゃぶしゃぶが食べたいな。」
「わかった。」
彼は先に立って歩き出した。途中、今日は内勤の誕生日で祝儀袋がいるからとセブンイレブンの前で少し待たされた。
区役所通りで風林会館の斜め前にある「しゃぶ与志」という店に入った。
私はそこで彼の生い立ちを少しだけ垣間見た。私が「あなたのお母様だったらまだまだお若いのでしょう」と聞いたことがきっかけだった。
「お袋はオレが小学校五年の時に死んでん。」
彼は、母親が交通事故で亡くなったこと、そのあと家族の結束を固めるというような意味も含めて父、姉、自分の三人でグァムに旅行したこと、後にも先にも海外旅行はそれっきりだということ、父親とどうしても反りが合わず、中学二年からはアパートで一人暮らしをしてきたということ、野球小僧だったので朝練も放課後の練習もあったけれど生活費は新聞配達で賄っていたこと、高校二年の時にホストという職業を知って、それ以来ホストをして来たこと、そして高校三年卒業を目前にして阪神大震災に遭い、生きていくためにはホストを続けざるを得ずに大阪に出たことで結局高校中退になってしまったこと、それらを一気に語った。
私は彼のたくましさ、そして自分の歩んできた道とのあまりの違いに言葉を失った。
前回初めて喋った時、私は宇響の年齢をズバリ二十五歳と当てていた。宇響は、誰からも三十ぐらいに見られるのに、と言って驚いていた。
今、話を聞いて逆算してみると、この人はこの若さで既に足かけ九年ホストをやっているのかと驚いた。
九年、それは私が教員をやっていた年月と同じだ。
姉とは七つも違うというので、「それじゃあものすごく可愛がってくれるでしょう」と聞くと、
「可愛がってなんかくれへんて。女性の前であれやけど、アネキが生理になるんが怖かったもん。『ワレ、飯作らんかい。』やで。オレ、まだ六年生ぐらいやで。オレかて言わんのにオンナが『ワレ』やからな。まあ、今では仲ええ方かも知れんけどな。」
しゃぶしゃぶを食べ終わり私はトイレに行った。
トイレで手を洗いながら、今日はこのあと店に行かなければいけないのかなぁ、と鏡の中の私と相談した。
智実の「全財産失わないようにね。あなた少しはまりかかってるから。」という言葉が頭の中でグルグルと回った。
トイレから出て座ると案の定訊ねられた。
「どうする?今日これから。店行く?」
「そうねぇ、考えてたんだけどせっかく来たんだから行きましょうか?」
「ホンマ?ありがとう、嬉しいな。」
彼はさっきの祝儀袋を取り出すと、ボールペンで名前と金額を書き、財布からとりだした三万円を中に入れた。私はたかが同僚の誕生日に三万円も出す事に内心びっくりした。
ホストの世界は、やはりサラリーマンのそれとは桁違いなのだと認識した。
しゃぶ吉を出て、交差点を渡ると私は切り出した。
「宇響さん、私、お店に行くのはいいんだけどね、今日宇響さんと一緒にお店に行くって事は宇響さんを指名した、ってことになるんでしょう?」
「ううん・・・。まぁ、普通そうやろねぇ。」
「私、この間アマンに行った次の夜、宇響さんより少し後で松園さんからも電話もらったの。私、水曜と金曜しか出かけられなくて先に宇響さんと今日約束したでしょ。それであさっての金曜日、松園さんともご飯食べる約束したんだけれど、もうそれは行ってはいけなくなるんだよねえ。」
「ううん・・・。まぁ、いけないっていうか・・・」
「みんなの世界ではどうって事ないのかも知れないけれど、私、約束って破らないの、よほど仕方ない事でもあれば別だけれど。それが・・・気になって・・・。」
半分は本心から松園との約束が気になっていた。残り半分は自分が真面目で約束を破らない人間だということのアピールだった。
「それは、大丈夫よ。オレがきちんとするから。」
「そう、わかった。」
あのイヤな店構えを通過するドキドキは、宇響の後ろにくっついてならば少し緩和された。
この間とは違う、入ってすぐの席に通された。
宇響は席に来ると壁にはめ込まれた鏡の前に立ち、ネクタイを締めた。すぐに宇響のグループを構成している二人のホストがやってきた。
一人は澤井という。宇響よりもずっと甘い顔で濡れたような鳶色の瞳が印象的だった。アメリカ映画の主人公と言っても通用しそうな男だ。やはり神戸から出てきて、今は宇響と同じアパートに住んでいるという。
もう一人は泰雅という。まだ笑顔が可愛い二十二歳だった。高校卒業後すぐに広島県から出てきて、ホストはこの店が二軒目だと言った。いかにも真っ直ぐな好青年なのは彼が両親に愛され、大切に育てられてきたからだと知った。
彼は実家を出て来る時、両親に東京へ行ってホストになると告げ、両親もまた、頑張ってこいと快く応援してくれていると話した。幼いとはいえ自分にも子どもがいる私は、その親の気持ちがまったく理解できなかった。
「何飲む?」
「何でもいいよ。」
「何でもいい、言うても予算というもんがあるやろ。」
「一応、四十万持ってきた。飲んじゃってから足りませんっていうのはみっともないかなって。」
「そんなに遣うことあらへんよ。そしたらまた、ワインでいい?」
「うん、そうする。」
テーブルには「Petit Mouton」という葡萄の絵が描かれたワインが出てきた。
宇響は、
「これはプチムートンいうんやけど、これよりもうちょっと上のクラスでムートンいうのがあるねん。ラベルに有名な画家さんの絵が描いたあんねんけど、その絵はワインが作られた年によって全部違うねんで。」
と、説明した。
私たちはその「Petit Mouton」を二本飲み、初めての顔合わせで盛り上がりにくい座をゲームで楽しんだ。
終電の時間が近づき、私が帰ると言うと、宇響が駅まで送るという。
「大丈夫だよ。店に来ることはまだ出来ないけれど、駅ならわかるから大丈夫。」
「そうはいかんよ、駅まで送ってあげるよ。」
東口地下道への入り口で私たちは別れた。
「今日はありがとう。また、電話するよ。」
「うん、じゃあね。バイバイ。」
この日の会計。十三万円。
五月十日(金)
宇響は毎日電話してきた。一日に昼と夜の二回のこともあった。今が肝心だと思っていることは私にもわかった。
私は大邸宅でいつも独りゴロゴロしていることになっているので、会社で忙しく仕事をしている時に電話を受けるのは大変だった。
小声で「今、ダメなの。あとにして。」と言うのもまた秘密めいていてよかったのかも知れないが、既に私は宇響からの電話を楽しみにするようになっていたのでそれはできなかった。
宇響と出会うまでの私は、携帯電話の着信にわりと無頓着だった。不在着信があったことに一時間も二時間もしてから気づくことなどザラだった。
しかし、今は違う。昼食時間にも電話を机の上に置き、トイレに行く時さえ持参した。家に帰れば風呂に入るのにも脱衣場のフックに電話をぶら下げて着信音を聞き漏らすことが無いようにドアは半開きにしていた。
この日も仕事中に携帯が振るえた。電気に打たれたように立ちあがり、細い上に雑然と物が積まれた通路を抜けて急いで非常階段を昇る。屋上まで行って、指定席の給水塔の前に立ってから通話ボタンを押す。
「おはよう。」
「おはよう。」
「なにしとん。」
「今?何にもしてないよ。だらだらしてる。でも天気がいいから犬の散歩にでも行こうかなあって思ってる。」
真っ赤なウソ。私は全国から財団に寄せられる助成金の申請書を振り分ける作業で昨日からずっと忙殺されていた。
自分は毎日遅刻するくせに、就業中の私語と中座には厳しい上司の目も気になる。
「また、メシでも食べに行こう。今度はようちゃんが店も決めて。オレ、そんなに知らんし。」
「うん、いいよ。」
金曜日なので、私は朝から店に行くつもりだった。
「何時に行けばいい?」
「今日?今日は・・・ちょっと。」
私は恥ずかしかった。来てくれとも言われていないのに、すっかり行く気になっているなんて。
「ああ、今日じゃないのね。私はいいわよ、いつでも。水曜日と金曜日ならば。」
「そしたら、また電話するね。」
「うん、バイバイ。」
電話を切って階段を下りかけるとまた着信音が鳴った。プライベートウィンドウには、また「宇響」と出ている。
「どうしたの?」
「やっぱり今日行こう。」
「いいわよ、無理しなくて。」
佐藤さ~ん、佐藤さ~ん!居ませんか~?下から呼ぶ声がする。仕事の電話が入ったのだ、きっと。宇響に聞こえなかっただろうか。
― 早く切んなきゃ。
「ちゃうねん。無理なんかしてへん。ただな、今日オレのお客さんが接待でうちの店使ってくれんねん。そやからようちゃんに店来てもらうんはちょっと無理かなと思て。そやけど、メシ食べるんはぜんぜん構へんねんから、それでよかったら行こうよ。」
「そう。じゃあそうしましょうか。」
「そしたらこの間と同じ三井住友のATMに七時ということで。」
「わかったわ。」
私は席に戻りインターネットでイタリアンレストランを検索した。
手頃なところを見つけたが実際に行ってみると店の場所ががわからなくなってしまい、仕方なく西武新宿駅に隣接したプリンスホテルにある店に入った。
残念ながら味は今ひとつ以下だった。
食べていても私は宇響の出勤時刻ばかりが気になってソワソワした。
稼いでいるホストなら、とりあえず店に行ってタイムカードを押せば少しぐらいの外出が許されていることなど、私はまだ知らなかった。
九時少し前に私たちは店を出た。私は大しておいしくもない店に案内したことを後悔して宇響が支払うというのを頑として断った。
食事代をケチるつもりは端からないが、はたから見てどうにも年の釣り合わない私たちの間で、私が会計をすれば、「私たちはホストとそれに入れ込んでいるオバサンですよ。」と言っているように思われるのではないかと気にした。
本当のところ、どっちが支払おうが、年齢差と宇響の風貌から誰の目にもそんなことは一目瞭然なのかも知れない。
宇響と別れてから少しショッピングモールをブラブラし、それから乗った小田急線が成城の駅に着こうとする頃、宇響から電話が入った。
普段なら電車の中では決して通話ボタンを押さない私も宇響の電話というだけでエマージェンシーになる。
「どうしたの?」
と小声で囁く。
「今、どこ?」
「もう、電車が自分の駅に着くところだけど?」
「そしたらええわ。ゴメンな、また電話する。」
「うん。バイバイ。」
なんだか不思議な電話だった。
五月十一日(土)
夜、宇響から電話をもらって、私は前日の事と次第を知った。
店に戻った宇響は私に言ったとおり客を待っていた。彼女は大手放送局のプロデューサーで、昨日は会社関係の接待をアマンでするようにセッティングしていた。ところが、当の彼女が階段で転び粉砕骨折を負ったと電話が入ったという。
その日の予定はなくなった。接待で忙しくなる予定だった宇響は、私同様にほかの客をすべて断っていたために突如ガラ空きになってしまったというわけだ。
「そうだったの。それで?」
「うん。まあ、それでって・・・。よう使ってくれるお客さんやから、さっき一応お見舞い行ってきたんよ。」
私は不思議な電話の事情が飲み込めた。ボウズを避けたいと考えた宇響は、もし私がまだ新宿周辺にでもいるのなら呼び戻そうと思ったのだろう。
金曜日、店に来てもらえなかったので月曜日はどうかという話になった。
「ようちゃん、水曜と金曜しかあかんのやろ。」
「そうねぇ・・・。しょっちゅうは無理だけれど・・・何とかなると思うのよ。」
「ホンマ?あんまり無理させるのもなぁ。」
私は心配されているのが嬉しかった。
今思えば、宇響は私のことを心配した訳ではない。上客になりそうな私に出だしから無理をさせて潰してしまうことが心配だっただけのことだ。
「大丈夫よ。無理だったら明日のうちにそう言うわ。」
「そやな。それやったらそうして。」
月曜日は日曜日と振り替えに強制指名日として客をよぶことが出来る。これで私を確保すれば、金曜日のボウズを少しは補えるし、月曜日という客をよびにくい日を無難に乗り切ることにもなる。
「うん、わかった。じゃあね。バイバイ。」
切った電話ですぐに私はシッターに電話をした。月曜日に来てもらうためだ。幸い彼女の予定は空いており、あっさりと引き受けてくれた。
私が水曜日と金曜日しか出かけられないのは、パトロンとの契約に縛られているからではない。九歳と八歳の子どもを見てくれるシッターが来てくれるのがその二日なのだ。
しかし、水曜日と金曜日だけという自主規制をあっけなくも取り外してしまった私は、智実が心配したとおりもう十分にはまっていた。
ホストクラブにではない。宇響に、だ。
五月十三日(月)
私たちは昼過ぎに待ち合わせてお台場のジョイポリスに出かけた。
一日中うちでする事もなく暇にしているはずの私を宇響は気軽に誘うが、本当のところ私は週あたまだというのに無理を言って有休を半日とった。
お台場から新宿に戻り、私たちはどこかで食事をしてから店に行こうということになった。
「こっちやで。」
新宿の大ガードに近い交差点で立ち止まった宇響は、小さな店の小さなウインドウを覗きこんだ。その視線の先には金無垢のロレックスがあった。
十二時と三時以外にはダイヤが埋め込まれている、所謂「テンポイント」だ。
― 欲しいんだ・・・あの時計が。この人、どんな時計してたっけ?ホストなんていくらでも時計なんて買ってもらってるんじゃないのかな、それとも私に欲しいってことをわからせようとしているのかな。
あげたくてたまらなくなる。でも、ここで買ってあげるよというのでは芸がない。何かびっくりさせてみたいなという考えで頭の中はいっぱいになった。それは単に彼を喜ばせたいという衝動だけではなく、自分を早く、一刻も早くほかの客と差別して欲しいという思いからだった。
私は店でちまちま五万、十万を出し惜しみ、しかもその見返りに何かを期待するような女達とは違うのよ、あなたが望むことならば何でもしてあげるし、してあげられるのよ・・・ということをわからせたかったのだ。
しかし、ただこの人の喜ぶ顔を見たいという思いとそれとは別の下心がどのぐらいの比率で混じりあっているのかは自分でもわからなかった。
私たちは、かに道楽で食事をした。
「オレなぁ、ほんまにカニ好きなんよ。カニわらって呼ばれてたくらい。本名が梶原やからねんけどな。」
私は宇響の本名が「梶原さん」であることを知った。
店ではこの間と同じ「Petit Mouton」を一本飲み、ヘネシーXOを入れた。
「ミネとってもええやろ?」
と聞かれた私にはその意味が解らなかった。
「ミネ」とは「ミネラルウォーター」の事だ。初回、机に並んでいたのは私が思ったとおりミネラルウォーターの瓶に入れた水道水だった。しかし、ある程度以上のいい酒を飲むのならば、お金を払ってミネラルウォーターを入れた方がいいだろうと言う。
私は快く承諾した。本当の事を言えば、私には酒の味も水道水のまずさもわからない。けれど、酒だけでもう十二分に高いのだ。今さら水をケチってみたところで何の意味もない。
「ミネ」は使い回しの出来る瓶ではなく、未開封のヴォルヴィックだった。
週初めだったので私は十一時過ぎには帰った。
宇響はこの前と同じように駅の階段まで送ってくれた。
この日の会計。二十三万円。
五月十五日(水)
七時に東口の喫茶「ボア」で待ち合わせると、宇響は紙袋から二本のビデオを取り出して言った。
「これな、この間話した『ジゴロ』や。おもろいから見てみて。まあ、若干ウソくさいとこもあんねんけどな。」
「ジゴロ」は新宿で働くホストを主人公にしたコミックだ。私はもちろん読んだことがなかった。宇響は、コミックは映画化されたけれど古すぎて滅多に見られない、けれど自分の家のそばのレンタル屋に置いてあるから借りてきてやると言っていた。
新宿三丁目の天一で食事をしてから店に行った。
「こんな店さあ、誰とでもなんか来れんよ。若い子ぉなんか食べ方が汚い子も居るし、大きな声で話もするし。恥ずかしいで。」
宇響は若い客は苦手だと言った。若い客はフーゾクの子がも多い。それは決してフーゾクの子を馬鹿にしているのではないと言った。
「それは、あいつらかて立派やと思うで。大変な仕事やしな。よう、がんばっとるなぁとも思うで。そやけど、若い子らとはオレは話が合わんのよ。お客さんでもそうやなぁ。もう、二十代の子ぉらと話すんのは疲れるで。」
― 自分だってまだ二十五歳のくせに。
宇響は確かに食事の仕方がきれいだった。私は汚いものの食べ方をする人とは決してつきあえない。
若い子が苦手だという話は、それが仮に営業トークであっても嬉しかった。私にとって十七の年の開きはいつもコンプレックスになっていたから。
店ではこの間のボトルが途中で無くなったので、また同じヘネシーXOを入れた。
この日の会計。二十万円。
一時を過ぎ、店を出る時間になると宇響は泰雅に訊ねた。
「腹、へっとお?」
「そうっすねえ。腹へったっすねぇ。」
「ほな、てっさでも食べに行く?ようちゃんも行く?」
根っから江戸っ子の私は「てっさ」の意味が分からなかった。「ふぐ刺し」の事だと教えられた。
同伴で天ぷらを食べ、店で飲み食いしたばかりだ。お腹はまったく減っていなかった。けれど、少しでも長く宇響といられるのならば行き先などどうでもよかった。
私たちは三人で区役所通りのふぐ料理店に行った。五月にふぐを食べるというのが私にはちょっと不思議だった。
食事をしていると、宇響が泰雅に言った。
「泰雅、ここ。ついとうで。」
宇響は自分の口の端を指して泰雅に教える。
「ホストはな、いつでも口元をきれいにしとかんと。大事なことやで。」
「はい。」
私は少しずつホストとしての宇響の生き方に尊敬の念を強めていった。そして思った。
― やっぱりあの時計、買ってあげたい。
五月十六日(木)
昼休みに会社のみんなで買ってきたコンビニ弁当を食べていると、宇響から電話が入った。
「明日、フレンチ行かへん?」
「フレンチ?」
「この前言うたやろ。オレ、ほんまフレンチ好きなんよ。ようちゃん連れて行きたい店があるねん。」
「いいわね。楽しみ!」
私たちは六時半に「ボア」で待ち合わせることにした。
電話を切った。ワクワクする。
― 明日だ、明日は時計買わなくっちゃ!どこで買えばいいんだろう?
席に戻ってインターネットを繋いだ。サーチエンジンに「ロレックス」と入れる。十万件以上がヒットしてしまう。
― 自分が知ってる街で買う方がいいな。
ロレックスは自分でも二本持っていたが、どちらも日本で買ったものではなく、一体どこで買えるものなのか、皆目見当がつかない。
デパートだったらあるのだろうか。でもデパートの包装紙は何だかダサい。デパートじゃないところ、でも自分がよく知っている街で、退勤後に行っても待ち合わせに間に合う店・・・。
画面をスクロールする。
「銀座エバンス」。いかにも高級そうなトップページだった。
― これがいいな。でも、銀座かあ。銀座ってぜんぜん知らないんだよねえ。中学校以来ほとんど行ったことないもん。
サイトをたどっていくと、渋谷に支店があることがわかった。
― 渋谷なら大丈夫。どこでも知ってる。
私は早速地図をプリントアウトした。誰にも見られないように、そそくさとプリンターの前に立ちはだかり、出力されてくるのを待つ。
これでいい。明日だ。
五月十七日(金)
退勤時刻になってから会社を出たのでは、買い物をして六時半の待ち合わせには間に合わない。
私は二時間の休みを取ると三時半過ぎに会社を出た。
向かうのは昨日調べた渋谷のエバンスだ。
「保証書をお作り致しますので、こちらにお名前とご住所、電話番号をお書きください。」
ダブルの金ボタンがついた紺のブレザーにレジメンタルタイを締めた店員が恭しくペンを差し出す。
― 名前?宇響・・・違う、それは源氏名だ。名前・・・なんといったろう・・・そうだ梶原だ。
この前、二人でかに道楽に行ったときの会話を思い出した。
でも、保証書を作るのに苗字だけというのはおかしい。まして住所や電話なんて知らない。
私は彼のことなど何も知らないのだ。
そして彼も私のことなど何も知らない。
― 私たちはホストと客だもの。
仕方なく、私は自分の名前と住所、それに電話番号を書いた。出来上がってきた保証書にははっきりと私の名前が書かれていた。
店員は女の私が男物の時計を買うのを見て、プレゼントするのならあとからでも登録名は相手の名前に買えることができると告げた。
名前も知らない男に二百万円以上もするものを送ることで、店員に自分がホストに入れ込んでいることがばれたような気がした。
悔しさと、恥ずかしさが足元からだんだんと頭の方に昇ってくる。
― ま、仕方ないや。だってそのとおりなんだから。
「ねえ、誕生日いつ?」
宇響が連れて来てくれた青山のフランス料理店は、芝生の中庭に高さが二十メートルはありそうな楡の木がザワザワと枝を揺らす姿がライトアップされている素敵なところだった。
「八月二十八んちよ、ハニワ、や。」
「そっか、まだまだ先なんだ・・・。でもいいよね。ね、これ、開けてみて。」
「何?」
宇響の美しい手が丁寧にゆっくりと包みを開く。
細い、しかし細すぎることのない指、かさつきのない爪とその周り、でこぼこのない関節。これだけ美しい均整のとれた男の手を見るのは初めてかもしれない。この手が野球をしていたなんてとても信じられなかった。
― もしかすると、私はこの手に惚れたのかもしれない・・・
そんなことをぼんやりと考えながら私は包みの中身が露わにされていくのを待った。
「何これ・・・もしかして・・・時計ちゃうん?今日ようちゃん、こんなん持って歩いとったっけ・・・時計や!」
金無垢の時計がその姿をすっかり現すと、宇響の顔がぱっと明るくなった。
「この前、この時計見てたでしょ。」
「あれは質屋やで。」
「ああ、そうなんだ、でもどっちにしても私あのお店の場所覚えられなかったよ。だから別のお店で買ったの。お店に行ったらこの金と、ピンクゴールドがあったんでどっちにしようか迷ったんだけど、お店の人が男性ならこっちの方がいいですよっていうから・・・。」
「そらそうや。店の人、ようわかっとるなあ。」
「気に入った?」
宇響はその質問に答えなかった。かわりに時計を箱ごと抱きしめると、
「うれしい、ほんまにうれしい。オレ、ホンマ東京来てよかった。ありがとう、大事にするよ。」
その表情は作られたもののようには思えなかった。本当に、本当に嬉しくてたまらないように見えた。
彼のそんな顔を見ていると、私もまた体の内側から幸せで一杯になってくるのを感じる一方で、頭のどこかから自分を戒める声が聞こえてくる。
― ウソかもよ。今日びフツーの女の子だって何人もの男におんなじ高いもん買わせて、一つ残したらあとは全部質屋に売る時代だよ。
宇響はホストじゃない。時計欲しそうにしたのも、それを口には出さないで買わせるのも、こうやって嬉しくてたまらないようにするのも、みんなみんな手かも知れないじゃない。
それでもいい。私が別にこれという特別な理由もなしにこの男の欲しいものならポンと買うこと、買えることはとりあえず見せたのだから。
「そう、よかった。でもね、ごめんね。それ保証書が私の名前になってるの。どっちにしてもサイズ直しに行かなきゃならないでしょ。その時に保証書も持っていけば名前は変えてくれるって。」
「ええよ、そんなん。ぜんぜん気にせえへんて。」
ウソでもちょっと嬉しくなる。
― 私はね、そんなものであなたを束縛しないから。あげたいからあげただけ。だから保証書の名前もあなたのものにしたかったんだけれど。
心の中でそう呟く。そしてそれが伝わるように祈る。
店に入ると右手奥の突き当たりの席を案内された。
酒が並べられ、宇響が私の横に座るとすぐに澤井と泰雅も席についた。
「今日は時計もらっちゃったのよ。」
「え、どんなんすか。」
「見せたろか、そや、はめとこかな。」
言いながら宇響はさっきフランス料理店で丁寧に自分で包み直した包装をもう一度ほどく。
「おおっ。ロレックスじゃないっすか!」
泰雅が素直に驚いている。
「すっげえな・・・。」
澤井は違う。素直な驚きと、店に来るようになってひと月も経たないうちにこんなものを送る女に対する別の意味での驚き、そして自分の立ってる高さからどんどん離れていく宇響への羨望が微妙に入り混じった目と声で見ている。
「なあ。ええやろ。」
「ホンモノっすよね。」
「あったりまえやん!失礼やで。なあ、これ、はめとこと思っとったけどやっぱブカブカやな。下手にぶつけたらイヤやし、やっぱりしまっとくわ。明日早起きして直しにい~こうっと。」
もう一度丁寧に箱にしまうと宇響はそれを内勤に預けに立った。
宇響が立ったあとも泰雅はしきりに感心している。
「いいなあ、すごいっすよねえ。でも宇響さん、金無垢よく似合ってますよね。」
― 言って。もっと言って。もしかして本当にあの時計が初めての金無垢なの?そうならいいのに。そう信じられるように言って。もっと誉めて。
その日も一部の営業時間が終了する午前一時まで飲んだ。
「どうする?カラオケでも行く?」
時計をもらったのだ、何かそのぐらいしなければ悪いと思っているのだろう。
― 無理だよ、あと四時間経ったら私は起きて子どもの弁当作んなくっちゃいけないんだから。
行きたいのだ、本当は。時間なんて無制限に。別にカラオケでも、ラーメン屋でもなんでもいいのだ。ずっとずっと一緒に居たい。
そう思う一方、自分で自分の気持ちに驚く。
― どうしちゃったのよ。まずいよ、本気で惚れちゃったの?ホストだよ、こいつは。
「あんまり遅くなると・・・。うちね、犬がいるのよ。憎らしいの。コロちゃんはかわいいのよ。でも、ドーベルマンがね、まるで私が帰ってきたのを近所中に知らせるように鳴くの。だから今日は帰るね。」
大ウソだった。
― あとにも先にもアンタん家には小さな柴犬が一匹いるだけじゃん?
心の中で一人ツッコミをする。
「ほな、タクシー拾ったるよ。」
「ありがとう、また電話するよ。気いつけて帰りよ。」
宇響は自分が捕まえたタクシーに私を乗せると今度は運転手に向かって言う。
「世田谷、成城までお願いします。」
宇響は私の家が成城のお屋敷町の中にあると思っている。私がそう言ったからなのだが。
タクシーのドアが閉まる。
手を振る。宇響も手を振っている。やがて姿が見えなくなる。
「あのね、運転手さん、成城近いんだけど、ちょっと違うんですよ。祖師谷大蔵の駅、わかります?」
「はい、わかりますよ。」
「じゃ、祖師谷の駅に向かって下さい。」
「どこから行きますか?」
「とにかく甲州街道から環八入って、小田急の高架下を右に行って欲しいんだけど。」
「小田急・・・おだきゅう・・・ああ。」
「それでね、悪いんだけど、私、寝ますから。その高架まで来たら起こして下さい。」
「はい、いいですよ。」
― 寝なくっちゃ、ちょっとでも寝なくっちゃ・・・。明日朝、誰かお客さん来るんだったよな・・・アポ何時だっけ・・・。
まどろむ間もなく携帯が鳴る。宇響だ。
― まめだよねえ・・・ほんとホストってまめ。っていうか宇響はこのまめさでナンバースリーになったんだろうな。
そう思いながら電話に出る。
「もしもしぃ。大丈夫ぅ?結構飲んどったからなあ、気持ち悪くなったんちゃうかと思ってさ。」
「ううん、大丈夫だよ。まだ帰らないの?」
「いや、もう店出たわ。今から澤井と泰雅とメシ食いに行くところよ。」
「そう。」
「ありがとうな、今日。ホンマ嬉しかったわ。明日直してから大事に使わせてもらうわ。」
「どういたしまして。喜んでくれてよかった。でも、それ誕生日祝いだからね、忘れちゃだめだよ。」
「わかってるて。大丈夫や、ちゃんと覚えとくから。家帰って、ゆっくり休みや。また電話するわ。」
「うん。またね。」
電話を切るとまた横になる。
―この運転手さんにも私がホストクラブ行って来たってわかっちゃっただろうな。まあ、いっか。
車窓から外を見るともうタクシーは幡ヶ谷まで来ていた。
― 寝なくっちゃ、とにかく寝なくっちゃ・・・。
時計の針は二時を指している。私が起きる時刻まで、あと三時間しかなくなっていた。
この日の会計。
店はボトルが残っていたので五万円。
ロレックス百九十八万円。
五月二十二日(水)
ロレックスはプレゼントしたが、私はさらに宇響の中での私の地位を確立したかった。
週末、インターネットでアマンのホームページを開き、メニューを調べた。
そこに載っている中で一番高い酒は「ルイ十三世」と書いてあった。ルイ十三世は三十五万円、ブックが二十万円、ぐっと手頃になってヘネシーとマーテルが一万八千円。ちなみに初回テーブルに出された眞露は七千円だった。
ほかの酒のことはわからないが、眞露ならばその辺の酒屋で八百円もしないで売っている。店で酒を飲むことがどんなに馬鹿らしい事なのかを改めて知った。
続いて大手酒問屋のホームページを開き「ルイ十三世」について調べた。ルイ十三世はレミーマルタンの最高ブランドだった。だいたい九万四千円強で売られている。
― 九万四千円の酒が三十五万円か・・・。
もう一度馬鹿ばかしいという思いが頭をもたげたが、そもそもあそこには酒を飲みに行っているわけではないのだから、と自分を納得させた。
― 「ルイ十三世」は何て呼ばれてるんだろう?そのとおり言えばいいのかしら?
本当は飲んだことはもちろん、見たことさえない酒をオーダーするのに恥はかきたくない。
今度はサーチエンジンに直接「ルイ十三世」と入れた。「Louis XIII」と書くことを知った。
― これだ。
私はそれをメモに取った。週明け、会社にある日仏辞典で私は「Louis XIII」のフランス語読みを調べた。「ルイ・トレーゼ」だった。メモにカタカナ読みも書いた。準備は整った。
この日は宇響を銀座のマキシム・ド・パリに連れていく約束をしていた。宇響はフランス料理が大好きな上、ヨーロッパに強いあこがれを抱いていたからだ。先週マノワール・ディノではご馳走してもらったので今日は私がお返しをする事にした。
実は、私自身も日本で超高級フランス料理店に行くのは初めてだった。しかし、メキシコに住んでいた頃、いっときポルトガル人のバーテンダーとつきあっていた。彼は「La Bella Epoca」というカンクーン随一のフランス料理店のバーテンダーだったので足繁く通った。だからそれがどんなものかはよく知っていた。
マキシム・ド・パリでは二人並んで座らされた。これもカンクーン以来のことだった。
料理は大変おいしいがマノワール・ディノより特に勝っているというわけでもない。それよりも内装、バイオリンの生演奏が古典的なフランスの味わいを醸し出していた。
食後に席を移すバーも素晴らしいものだった。「La Bella Epoca」でもカリビアンクルーズの大型客船でもそうだったように、ここで男たちはコニャックと葉巻の香りを楽しみながら延々と話をするのだ。
とはいえ、私たちはこれから店に行くのだからバーに行くわけにはいかなかった。
フランス料理はどうしても時間がかかる。新宿にタクシーで戻ってくると十時を回っていた。
私の好きな入り口入ってすぐの席に通された。私は既にそこが「十六卓」であることを覚えた。
一週間前の水曜日に入れたヘネシーXOは金曜日で無くなっていた。
「いつものんでええ?」
宇響の問いに私は答えた。
「今日はね、ちょっと違うものを飲みたいの。『ルイ・トレーゼ』あるかしら?私、とっても好きなんだけど。」
フランス語で言っているのだ。店でなんと呼ばれていようとこれほど強いものはない。もし、違う言い方をするのが普通なのだとしても「ああそうなの、フランス語ではこういうのよ。」と答えればいいだけの話だ。
「え?」
それでも問いただされると、ドギマギした。
「ルイ・トレーゼ。ブランデーよ。」
「ルイ?ルイ入れんのん?チェック高くなるで。」
「大丈夫だと思うわ。」
「わかった。ちょぉ、待っとって。」
写真で見たとおりのバカラクリスタルのボトルが出てきた。
後日、この時のことを宇響は、
「オレ、ルイに取りに行くときスキップしかけとったで。この人について行こて思たもん。」
と、言っている。私の目論見は決して外れてはいなかったのだ。
泰雅がルイを飲むのは初めてだ、と言った。
私は「うちでいつも飲んでいるルイ・トレーゼ」を口にした。とても癖のある酒だった。しかし、確かに高級酒としての味わいはあった。
「うまいっすねぇ。」
泰雅が言う。
一時近くなり、宇響はいつもどおり薄緑色のカルトンを持ってきた。
中にはクリーム色の伝票が入っている。明細も何もない。印刷されているのは¥マークと下線のみ。そこに支払額がボールペン書きされている。
数字の6に0が五つついている。度肝を抜かれた。私はインターネットで値段を調べてきたのだ。そこには確かに三十五万と書かれていたのに。
万が一に備え私は財布に六十五万円入れていたので恥はかかずに済んだ。そして、何でもないかのような顔を作って札を数えた。
私から渡された六十枚の札を数えながら宇響は言った。
「お客さんの前でお札数えんの好きやないねん。なんかお客さん疑っとるみたいで。ゴメンな。」
「それは仕方ないわよ。気にすることないんじゃない?仕事ですもの。」
数え終わってカルトンに乗せた六十万円を内勤のところに持っていった宇響は席に戻ると言った。
「今日、これからほかの店行ってみる?」
私がここのところ何回か、「アマンに来たのは本当に偶然なのよ。ほかのホストクラブも見てみたいな。」と言ってきたからだ。宇響はここがどれほどいい店かということはほかの店に行って見ればよくわかるから、興味があるのなら今度連れて行ってやると言っていた。
「ううん、明日も早いから今日は帰るわ。」
財布にはあと五万円しかないのだ。電車だってとっくの昔に終わっている。ほかの店になど行けるわけもない。
「そっか、明日まだ平日やしな。金曜日行けたら行ってみよな。」
「そうね。ありがとう。」
この日の会計。六十万円。マキシム・ド・パリ 九万円。
五月二十四日(金)
水曜日に入れたルイは、途中でなくなったのでこの日も一本入れた。
宇響は自分のグループ以外にも次々と顔を見せにやってくるホストたちのすべてにルイを飲ませるのを嫌がった。
「もったいないで。酒なんかわからんヤツ多いんやから。ヘネシーの一番安いん入れて、そいつらにはそれ飲ましとったらええねん。」
私には宇響の真意がわからなかった。
もちろんそれが正論であることはわかっている。まして、ゲームなんかで飲まれてはかなわない。しかし指名者にしてみれば高いボトルがどんどん空くのは歓迎すべき事のはずだ。この頃には酒を飲んで減らすのもヘルプの大事な仕事であることも私は理解していた。客が入れた酒を大事にする姿勢を見せて私の中での好感度を上げようとでもいうのか、私が怒り出す前に手を打っておこうというのか?それとも本当にルイ十三世を誰も彼もが飲むのはもったいないと思っているのか?
わからないまま私は宇響の言うことに従って一万八千円のヘネシーを入れた。二本の酒が机の上に並んだ。
宇響は机の上がすっきりと整頓され、さらに高級な酒と華やかなツマミを綺麗に並べるのが好きだった。ほかのホストだって、客だってお互いに机の上は見ているものだと言った。私が他人の机の上になどまったく興味がないと言うと、
「それは、ようちゃんがお金のこと気にせんと自分の好きなもの飲んで、食べられるからや。なかなかそうはいかんのよ。」
と、返してきた。私は窘められているにもかかわらず気分が良かった。
心の中で
― そうよ。あなたにとってはそれでよかったでしょ?
と呟いた。
店を出ると、水曜日の約束通り私たちは「カオス」というほかのホストクラブに行った。
宇響、泰雅、私の三人が席に着くと、宇響は店の中でも若い子に訊ねた。
「悠聖さん、まだ来てへんの?」
「代表はぁ・・・そうですねぇ・・・だいたい三時頃ですね。」
沢山のことがアマンとは違うことを私は知った。正確に言うとアマンだけが新宿で大小あわせ三百はあるというホストクラブの中でも異質な存在なのだということを。
カオスではそれぞれが階級に合わせてプラチナ、金、銀、銅と色の違うバッチを襟につけていた。
この店の特徴なのかと宇響に訊ねると、そうではない、多くの店でそういうことをしているという。
ホストは肩書きに憧れでもあるのだろうか。よく見ると店の入り口近くに並んでいる写真には代表取締役、取締役、専務取締役、常務取締役・・・そんな肩書きを二十歳かそこいらの男の子が勲章としてつけている。
本当の取締役などであるわけもない。彼らは一人ひとりが個人事業主なのだから。ホストクラブという場所を借りて自分を商品に商売しているのだ。
縛られるのが大嫌いだと言い放つ彼らが肩書きやバッジをひけらかしている姿が、私には何となくオモチャの切符やパンチを使う電車ごっこを彷彿とさせた。可愛いではないか。
十代の男の子も混じるここのホストたちは大声でふざけ、騒ぎ、ホストにも客にもコールをかけては酒を飲ませまくり、飲みまくり、座を盛り上げる。
どのホストも、私がアマンに行くまで頭に描いていたイメージどおりの容姿をしている。第二、第三ボタンまで開けて見せる胸元にはお約束のようにブランドものの太いチョーカーやネックレスが光る。日焼けサロンに通い詰めた肌の色、カラーコンタクト。茶髪はもちろんのこと、エクステンションを凝らしたビジュアル系バンドのような髪型も。
ダンスホールが店の真ん中にあって、生バンドでダンスを踊れるのがアマンの特徴だということもここで知らされた。
私は社交ダンスを楽しむのは中年、いや、壮年の男女が公民館で・・・というようなイメージを持っていたので、宇響がダンスを踊ると知ったて驚いた。
「ダンス踊れたら、それだけお客さんの幅が広がるやろ。昔ながらのホストクラブというのは社交場やからな、ダンスは踊れて当たり前なんや。オレが昔おった大阪の店なんかお客さん用の着替室まであったで。今はなぁ、ジーパンなんかはいてるお客さんでも入れるようになっとるけどな。」
彼は本当に仕事に真摯な男だった。
そうしてまた一歩、私は彼にのめり込んでいく。
三時半近くなって代表取締役の悠聖が私たちの席に着いた。
悠聖はアマンに勝るとも劣らぬ有名店のナンバーワン上がりでこの店を開いたという。
― なるほどね。この人の肩書きはホンモノなんだ。
宇響はなぜかこの男と知り合いだった。その訳を耳元で説明してくれたが、周りがうるさくて聞き取れなかった。もう一度訊ねるほどの興味は持てなかった。
さすがに自分で店を開く男ともなると軽薄な感じは全く無く、涼しい目元と清潔感あふれる容姿、落ち着いた物腰が印象的な男だった。
彼の襟元にはしっかりとプラチナバッジが光っていた。
五時近くまでカラオケを歌い、騒いだ。
カオスはそれなりに楽しかった。しかし、私は宇響の言っていた「アマンがどれほどいい店かということはほかの店に行って見ればよくわかる」というのがウソではなかったことを認識させられた。
泰雅は焦点が定まらなくなるほど酔い、ボトルも空いたので私たちはそこををあとにした。
この日の会計。六十三万円。カオス、六万六千円。
五月二十七日(月)
仕事をしていると、午後三時を過ぎて電話が入った。
「今日さぁ、前から言うとった『あさま山荘』見に行かん?」
今日は月曜日だ。先々週の月曜日に店に行き、週初めから行くとどんなに疲れるかがよくわかった。私は懲りていた。
それに、これまで店に七回行っただけで、ロレックスを含め既に四百万円近くを費やしていた。簡単に動かせる普通預金口座のお金は底をついていた。
― どう考えても止めなよ。おい、陽子。たかが千八百円の映画をおごってもらってその代わりにおまえは今日も六十万、七十万を遣うの?
私の中に今も辛うじて残存している理性が私自身に問いただす。
― きっと昨日、今日の強制指名日に誰も呼べないか、キャンセルされた埋め合わせだよ?
一度ルイに格上げした酒は、もう元のヘネシーXOには戻せない。行けばほとんど自動的に六十万以上の金を遣うことになる。
頭ではわかっている。
でも、もう心は動いている。シッターさんの都合はどうだろう、お金はどこから持ってこようか・・・と。
「そうねえ・・・。今日月曜だから・・・。」
「そうやねん。ゴメンな。あんまり無理せんでもええよ。」
一歩引く、その引き方がまた実に上手い。
「たぶん大丈夫だと思うわ。ちょっと、時間をもらってもいい?」
「うん、わかった。そしたら電話ちょうだい?」
「うん。すぐするわ。」
強制指名日に誰も呼べなかったら罰金だ。もし、私が行かれないとなれば宇響はまた、ほかの誰かを片っ端から電話で探さなければならない。「片っ端から」であることはおくびにも出さずに。
そこまで読めているのなら、せめて少し答えを焦らすぐらいのイジワルをしてもいいだろうにそんなことさえも私は出来ない。
シッターからはすぐにOKの返事をもらった。
あとはお金だ。
前々から値動きの無いつまらない株を売りたいと思っていたのだが、私は株の売買をネットではなく電話か店頭で行っているのでなかなか時間がとれない。それに今すぐ電話をしたところで、売れた株が現金となって自分の口座に入るのは四日後だ。
仕方ないので、一時払いで三千万円を納めてある生命保険から貸し付けを受けることにした。
「貸し」とは言うが、自分の貯金であって別に借金をするわけではない。ただ、どこかで戻しておかないと、万が一の時に満額が出ない。それに、戻すときには若干の利息を付けて戻すことになる。
私はカードの裏を見てサービスコールセンターに電話した。
一年ほど前にも急ぎで現金が必要なときにそうやって貸し付けを受けたことがある。手続きは実に簡単だ。無論、その時の貸付分はとうに戻した。
「お電話ありがとうございます。こちらはサービスコールセンターでございます。お客様がご希望のサービスを―」
みなまで聞く必要はない。一時貸付の受付が四番であることを私は覚えていた。
手続きは簡単に終わった。電話が終われば瞬時にしてに予め登録してある自分の口座にお金が振り込まれる。
私は二番目の「関」を越えてしまった。
一番目の「関」は水曜と金曜以外には店には行かないということ。
けれど、それはとっくの昔に越えてしまった。いとも容易く。
そして、二番目の「関」。
遣ってもいいのは今、普通預金口座に入っているお金だけ。それが無くなる日でホスト遊びはお終いと決めていたのに。
頭の片隅で再び智実の言葉がエコーしている。
「気をつけなよホンっトに。あなた少しはまりかかってるから。全財産なくさないようにね。」
― そうだね。「少し」じゃなくなっちゃったね。
自分で自分が止められない。
一秒と躊躇しただろうか。私はもう宇響に電話をしている。
「もしもし、あのねぇ、大丈夫そうよ。行けそう。」
「ホンマに大丈夫なん?ムリしたらあかんよ。」
宇響は甘い声で優しく訊ねる。
とても心配しているのだ、私を?違う。性急にペースアップしすぎて私という大事な客を潰してしまう事を。
「心配しないで。大丈夫よ。」
「そしたら・・・そやなぁ・・・コマ劇の前に六時でええ?」
「わかった。」
私達は約束どおり映画を観に行き、叙々苑で食事をしてから店に行った。
「ほんまはな、焼肉なんか仕事前に食うたらあかんねん。」
「臭くなるから?」
「そらそうや。やっぱりなぁ・・・ニンニクは、まずいやろ。でも、ええよな。今日はどこも行かんとようちゃんとこにずっとおったら。臭いモンどうしや。」
嬉しかった。ほかの席には行かないと言われた事も、「臭いモンどうし」という表現も。
この男は営業トークで言っているのだろうか?それとももう意識しなくてもサラリと客が喜ぶ言葉が口をついて出てくるのだろうか?
それでも喜んでしまう自分が、今日は生命保険まで取り崩して来た自分が哀しい。
「そうだね。みんなにニンニク臭い息で話しかけてやろっと。」
私が「みんな」と言うのはヘルプのことだ。
宇響はさすがにコチュジャンは使わずに食べていた。
この日の会計。店で六十五万円。アフターに四人でビリヤードとバーに行き五万円。
五月二十九日(水)
鳥取出張。
宇響は羽田まで私を迎えに来た。
「おかえり。」
「ただいま。」
嬉しかった。「おはよう」より「おかえり」はなんて素敵なのだろう。
「お腹すいとるん?」
「う~ん・・・そんなでも。でも何にも食べてはいないよ。」
「これからどっかでメシ食べるんは時間的にちょっと厳しいねんけど・・・。店で食べるんでもかまわん?」
「うん。いいよ。」
首都高は割と空いていた。それでも店までは一時間弱かかった。
― 何でタクシーなんか・・・。大した荷物もないのに。
お金を誰が出すかという問題ではない。余りにもったいない。まして、電車の方がよっぽど早い。
「電車でいいのに。リムジンだってあるのよ。新宿なんて近いじゃない?」
「それは、できんなぁ。どこで誰が見とるかわからん。オレらは夢を売る商売や。電車なんか乗ってるとこ見られたら、さぶいで。お客さんだけやない、後輩かてガッカリするさ。いつでも『がんばっとったら、いつかはこうなれんねんで』と見せな。」
全く納得できなかった。ムカムカした。「夢を売る商売」はよくわかる。でも、それと、このムダ遣いとどういう関係があるのだ。
宇響は客相手でも頑固なところがあった。譲らないところは頑として譲らない。この話をこれ以上続けても不毛だと悟り、私は黙った。
― もっともね・・・。
私自身もどうかと思う。
― ホストクラブで一晩に何十万も遣っておいて、タクシーはムダ遣い?
店のまん前にタクシーで乗りつけたのは初めてだった。何かとてもイヤだった。
私の気分がどこか乗らないのを見てとった宇響はヘルプのホストと「チュウジャン」を始めた。
「チュウジャン」は中国ジャンケンの略だ。本当に中国でこうやってジャンケンをしているのかどうかはわからないが、普通のジャンケンのように運に任せて勝負するものではない。
独特なリズムで両手を使い、相手が次に何を出そうとするかを読み、駆け引きし、相手を自分のペースに引きずり込んだ者が勝つ。
ゲームの性質から言うと、ジャンケンよりも「あっち向いてホイ」に似ているかもしれない。
私が最も苦手とする分野の遊びだった。私はものごとの飲み込みが早い方ではない。やっと理解しても、駆け引きというものがまったく出来ないし、ハッタリも効かない。
宇響は私をあやすように優しくやり方を説明し、さらに居眠りしたくなるようなペースで練習台にまでなってくれたが、私はギャラリーに徹することにした。
「いい。私やらない。できないもん。」
「できるて、簡単よ。慣れやで、慣れ。こんなん。」
「でも、いや。恥ずかしい。」
「何が恥ずかしいねん。しゃあない、そしたらオレがようちゃんのかわりな。」
そう言いながら宇響はヘルプのホストたちのほうに向き直る。
アイカワ座りになって戦闘体勢に入ると今度は横顔で私に言う。
「応援してや。オレは、ようちゃんなんやで。オレが負けたらようちゃんも飲まなあかんのやで。」
「オレハ、ヨウチャンナンヤデ。」
まただ。
どうしてこんなにもさらりと私の心の性感帯に触れていくのだろうか。
ゲームとわかっていても一身同体だと言われれば心が躍る。タクシーのことですっかりトーンダウンしていた私の気持ちは一気に舞い上がる。
宇響は、滅茶苦茶にチュウジャンが強かった。
美しい両の手を宙で舞うように動かし、気合の入った三白眼で相手を下から睨む。口元に薄笑いを浮かべながら、絶妙なタイミングで相手をこちらのペースに誘いこむ。
ヘルプに来ているどのホストも太刀打ちできない。
負けるたびに彼らはヘネシーをほとんどストレートで一気に飲む。ご苦労なことだ。結局のところ「チュウジャン」で客、即ち私の機嫌も直り、酒はどんどん減る。一挙両得だ。キツイのはヘルプの肝臓だけだ。
「チュウジャン」の勝敗など私にはどうでもよかった。
しかし「チュウジャンに興じる宇響」を鑑賞しているだけで充分に幸せだった。
どうしてこの男は何をやってもこんなにうまく出来るのだろう。
どうしてこの男は何をやってもこんなに美しいのだろう。
ヘルプ用、ゲーム用に入れてあったヘネシーは一本空いたので次のボトルを入れた。
さらに「Petit Mouton」ならぬ「Chateau Mouton Rothchild」を初めて飲んだ。1998年ものでムートンの中では比較的安いヴィンテージだという。
ラベルに描かれている絵は私が初めて見るものだった。茶色い顔をした歯の抜けた原始人のような男がワイングラスを掲げている。
ルイは二日前に入れたものが最後までもった。
この日の会計。二十一万円。
五月三十一日(金)
銀座四丁目で待ち合わせ、三越の裏にある「みかわや」に行った。
前日私が誘ったのだ。
「マキシムもいいんだけど、老舗の洋食屋に行ってみない?」
「洋食屋て、何なん?」
「う~ん。洋食屋って・・・だからコロッケとか、ハヤシライスとか、エビフライとか。普通のおうちの夕食で出るようなメニュー?」
「そんなんで『老舗』てあるんや。」
「あるわよ。銀座だもの。戦前からやってるようなお店。そこは私、子どものときよく行ったわ。」
最後のセリフは大ウソだった。
昼休みに本屋で立ち読みしたガイドブックで三越裏にある「みかわや」の蔦が絡まる外観と「内装も味もモボ・モガの憧れであった銀座を彷彿とさせる」という説明に惹かれただけの話だ。
「ええよ。ほな、七時にニッサンな。」
「うん。ごちそうするわ。」
九時半過ぎに店に入ると最終日のせいか、殆どの席は客で埋まっていた。
それでも宇響は銀座を出る時、内勤に電話で席の予約を頼んでおいたので私はいつもどおり私の好きな十六卓に通された。
席の予約など本当は出来ない。宇響だから出来るのだ。ここでは力があれば、金を落としていれば、何だって出来る。
宇響が東京に出てきて二年五ヶ月。初めの一年は別として、以降コンスタントにニ百万円以上の売り上げを揚げ、ここ一年は常にトップスリーに名を連ねる。
その宇響が今や彼一番の上客になろうとしている私を連れて来ているのだ。最終日に。
これでお客様の機嫌がよくなり、財布のヒモが緩むのならば、席をとっておくぐらい店からすればお安い御用だろう。
もっとも、私はまだ「最終日」の大切さも、駆け引きも何も知らなかった。
とは言え、今日はこのルイを空けて、次のボトルを入れるぐらいのことはしなければならないだろう。本当のところ、そんなことは客である私が考えることではない。ぜひそうしてもらえないかと指名者から頼まれたのならともかく、普通ならば残っている酒をいかにもたせ、少しでも少ない経費でホストを自分のところに留まらせ、楽しむかを考えるのが客だ。
私は違った。いつも二つのことしか頭にはなかった。
一つはどうしたら宇響が喜んでくれるかということ。
そしてもう一つは、どうしたら宇響の中でほかの客より一段でも高い位置を確保できるかということ。
そう思うとむしろ、酒の減りが少ない日はなんだか物足りなかった。
ルイが空になり、泰雅が会話の隙間に小さな声で「ようさん、いいすか?」と言いながらそっと空ボトルをこちらに見せる。
少しだけ微笑んで、当たり前のように「うん。」と言い、すぐにまた向き直って元の話題に戻る。
六十万円の酒を入れることに何の躊躇もためらいもないことを誇示する優越感!
宇響の頭の中で五月の売り上げはあるラインをもう十分にクリアしていたのだろう。それに、なんと言っても私は客になって一ヶ月も経っていないのだ。順位を上げるために焦って潰してしまっては元も子もない。
宇響から私に、もっと何かを入れて欲しいというようなリクエストは一切無かった。
この日の会計七十一万円。
五月三日に初めてアマンを訪れたてからわずか一ヶ月の間に私は十回店に通った。
この間に店に支払った金は三百四十三万円。これ以外に同伴やアフターで支払った金はおよそ二十万円。ロレックスが百九十八万円。トータル五百六十一万円。
直接宇響にかけた金はこれだけだが、これ以外に私は、「宇響と並んで見劣りしない女」になるため、自分にも盛大に投資しなければならなかった。
若作りには限界がある。せいぜい五歳がいいところだ。それよりも、品位に満ちた「いい女」を全身で演出する。
それは金のかかる作業だった。
わずか一ヶ月で、私は成城の駅前にある並行輸入店ではお得意さま扱いされるようになっていた。
当たり前だ。五月だけでドルチェ アンド ガッバーナのスーツを五着、白のケリーバッグ、それ以外に十枚を超えるマックス・マーラのスカート、Tシャツ、ブラウス、ジーンズを買ったのだから。二百万円以上を遣っている。
この店に新しいもの、珍しいものが入る度に私の携帯が鳴るようになった。
それまではコンビニ化粧品で済ませていた爪の手入れのためにネイルサロンにも通うようになった。
もちろん化粧品はすべて新しく買い揃えた。
忘れてはならないのがシッター料だ。店に十回通ったということは即ちシッターに十回来てもらったということだ。一回約八千円。十回約八万円。それ以外に家事を手伝ってもらうために別途週一回は来てもらっていた。
子どもを見てもらうのは残業のため、家事を手伝ってもらうのは仕事に忙しくて十分に手が回らないのをフォローしてもらうため、のはずだったのに。
アマンに通うことによって私がこの一ヶ月に費やしたお金は総額八百万円を超えている。
もう、母の遺言も、智実の忠告も私を止めることは出来なかった。
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