張り子の虎

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六月 六月二日(日) 宇響からの電話は今も決して途切れることなく、必ず毎日かかってきた。 彼がどんなに風邪を引いて高熱を出していようと、前日さんざん飲まされて重傷の二日酔いに悩まされていても、だ。 宇響の声は聞きたい。しかし宇響にはウソばかりついていたので電話がかかってくると困ることも多かった。 家にいればいつも私のそばには子どもがまとわりついている。 「ねぇ、冷蔵庫のアイス、もう一つ食べてもいい?」 宇響からの電話を受けて、こっそり庭に出る私を追いかけてきた小学校二年生の娘が聞く。  私は娘の声が宇響に届かないよう、あわてて距離を置きながら唇だけで答える。 「イ・イ・ヨ。」  それを理解できない娘が重ねて聞く。 「ねえ、アイスだよ?もう一個食べてもいい?って聞いてんの!」  私は娘を足で追い払いながら、ちょっとの間だけ電話を手でふさいで言う。 「いいって言ってるでしょ!何個食べてもいいからあっち行って!」 娘は半分不思議そうな、半分怒ったような顔で家の中に戻る。 我ながら娘に申し訳ないと思う。 どうせ宇響からの電話で実のある話をする事なんてほとんどない。出なくたって構わないし、放っておけばまたかかってくる。 しかし、私にはそれが出来ない。 私は宇響と会っている時間と宇響からの電話だけをエネルギーに生きている。 「ごめんなさい。もう大丈夫よ。」 「ホンマ?大丈夫なん?かけ直そか?」 「ううん、いいのよ。」 「あのさぁ、明日ママが会いたい言うとんのやけど。」 「明日?どうして?お金だったら水曜日に宇響さんに渡すわよ。」 「いやオレもな、そう思ててんけど、やっぱりそれだけのお金を預かるのにはいちど会うておかんと、とママが言うんよ。言われてみたらそのとおりやな思て。」 ― 明日って・・・月曜日じゃない。  五月はさすがにお金を遣いすぎたこと、残業を全くしなくなったので仕事が滞り始めていること、子どもを放ったらかしにし過ぎている事を反省した私は、六月は水曜日と金曜日以外は店には絶対に行かないと決心していた。 ママに会うぐらいのことは構わない。 しかし、宇響を含め三人で夕食をとるとなればそのあとは店に行かなければならなくなる。同伴もしないでそんなに遅刻させたら罰金になる。 ― でも・・・。 決心した矢先にそれをあっさりと破ってしまうのもどうかと思う。 「無理かなぁ。明日月曜やしな。無理やったらまた別の日にしてもらうようにオレから言うとくけど。」 「いいわよ。大丈夫。」 「そしたらママと連絡とってもっかい電話するわ。たぶんヒルトンに七時ぐらいやと思とって。」 「うん。わかった。」 * * * 五月の終わり頃から私は「ママ」の話を聞かされていた。 「ママ」と呼ばれてはいるが、別にクラブのママだとかオーナーだとかいうわけではない。 五十代後半の女性で、早くに夫を亡くし、その遺産を元手に高利貸しをやっているという。 既に三十年近くの実績があること、店のホストや客でお金を預けて利息を受け取っている者は数多くいること、実は宇響もわずかではあるが彼女に預けて小銭を儲けている事を聞かされた。 彼女は常にナンバー入りしている蓮の客だった。 蓮は常に安定した売り上げを上げる男で、相当な額をママに預けているらしい。ママは蓮とそこにヘルプでつくホスト、さらに彼らから遊んでいる金のありそうな客を紹介してもらっては自分に預けさせていた。 「利息は三%やねんけど。ようちゃんも預けてみる?」 ― 三%ねえ。一千万預けて一年で三十万か。ま、今日び利息はコンマゼロいくらが相場だもんね。でも、店に一回行けばなくなっちゃうお金だな。  聞いて驚いた。三%というのは年利ではなかった。月利だった。一千万預ければ月に三十万手に入る。 私の給料は二十五万そこそこだった。毎朝暗いうちから起き、原付で駅まで通い、非人間的な通勤電車という空間に耐え、大嫌いな上司やセクハラまがいの客のご機嫌を伺い、時には深夜まで残業し、あるいは土・日にも出勤し、それでやっと稼ぎ出す自分の給料より多くを不労で手に入れることが出来るのだ。 年利に換算してみると四十%にもなる。  世の中にうまい話はないとわかっていた。 しかし、「オレは決して人を信じない」二言目には言うほど猜疑心の強い宇響が預けているのだ。それに、私が預ける事で宇響の面子が立つなら私にはそれだけでも十分に意味があった。無くしたところで一千万ぐらいならそれほど痛いわけでもない。  宇響は金を預けることをしつこくは勧めなかった。その事がむしろ私をその気にさせた。  私はとりあえず一千万円預けることをママに伝えてくれるよう宇響に言った。  金は一切銀行を通さないという。それはそうだろう。人に月三%の利息を払うためには誰かに少なくともそれ以上の利息で貸しているのだ。ママだって、そのやりとりの中で儲けていることも明らかだ。税法上から考えても貸金業務として考えても銀行を通せない、即ちお上に金の動きを見せられないことはよくわかる。  私は証券会社に行き、投資信託のうち満期を過ぎている二口、計二千百万千六百七十一円を解約し、いつでも現金で渡せるように銀行に準備しておいた。  六月三日(月) 宇響が多分そうなると予告したとおり、私たち三人はヒルトンホテルのロビーで待ち合わせることになった。  私が行くと入り口に宇響と並んでママと思われる人が立っていた。 「お待たせして申し訳ありません。佐藤と申します。」  考えてみれば、社会人としてきちんと振る舞う私を宇響に見せるのはこれが初めてなのだと思うと何だか気恥ずかしかった。 それもなかなか悪くない。今日は私がどれほどきちんとした人間なのかという事を見せてあげよう。あなたたちの世界では決して学ぶことの出来ない大人のやりとりというものを。そんな気持ちになった。 「大野さん。」 ママの本名を宇響が紹介する。 「で、こちらが佐藤さん。」 宇響の口から「佐藤さん」という音を聞くのもなかなか新鮮だった。  二階にある「王朝」という中華料理店でいいかとママに聞かれて、私たちは任せることにした。 ママは金の受け渡しでついさっき大阪から帰ってきたばかりで、小振りのハンドキャリーを転がしている。中には数千万入っていると言う。 「でもね、普通にしているのが一番なのよ。私、この仕事でもう三十年近いけれど、一度も襲われたり、盗まれたりしたことはないから。」 ロビーから二階に上がるわずかな間にもママには仕事関連の電話が二度入った。 ママの携帯にはよく観光地土産で目にする「通行手形」と書かれた木札をはじめいろんなオモチャや人形がジャラジャラとついていた。お金があって、やり手で、女の可愛さを備えていて、しかし決して品格があるとは思えない彼女にそのジャラジャラがとても似合っていた。 3Dのネイルアートが実に見事だ。  席に着くと、ママは私が選んだのでいいか、それとも何か特別に食べたいものがあるかと聞く。私はお任せします、と答えたが宇響は好き嫌いが激しいので自分の食べられないものを言い連ねた。  注文が終わると宇響はママと私のどちらにも支障のない範囲で詳しい紹介をした。 「よう、遣てもろてるんですよ。それでまた、偶然ママの酒とようちゃ・・佐藤さんのお酒は同じなんですよ。ルイなんです。」 「そう、よく行かれるの?お店には。」 「そうですねぇ・・・週二回ぐらいですか?」  私は自分がいい客であることは誇示したいが、宇響に入れ込んでいることを悟られたくはないので返事もつい曖昧になる。 「お嬢様はおいくつでいらっしゃいますの?」  本当はママの娘の年がいくつでも構わない。 ただ私はきちんと育った人間が本当はどういう言葉遣いで話すものなのかを宇響に見せたかっただけだ。  他愛もない話を少ししてからママはいよいよビジネスの話を切りだした。 「あなたがお金を預けてくださるって聞いたんだけど?」 「はい。そう思っています。」 「ありがと。お金を貯めてね。貯まるわよ。私にもうずうっと預けてる人の中には、最初百万円ぐらいでスタートして今では億の金を貯めてる人もいるんだから。」  私はひとまず一千万円預けようと思っていること、銀行を使えないのなら宇響を通じて金の受け渡しをしたいことを話した。 「そうね。一千万から始めて、お金に余裕が出来たら途中から増やすといいよ。今、銀行なんかに預けてたって何にもならないからね。でもね、陽子さん。お金の受け渡しは宇響経由はダメ。私がこの仕事これまですごく上手くやってこられたのは絶対に秘密を守るからなの。だから居るわよ、夫婦でもお互い私にいくら預けてるか知らない人。私はたとえ相手が夫婦であっても、そのそれぞれと私とのやりとりについては喋らないからね。だから、あなたと私で連絡を取り合って二人で会いましょう。条件なんかは今日、宇響の前で、宇響が承認って事できちんとするけどね。」 利息は宇響から聞いていたとおり月利三%。 増資したり、利息や元金を引き出したり出来るのは毎月末の二十五日以降だけ。 毎月十五日を過ぎたらママから電話が入るので、その時に預けっぱなしにするのか、増資するのか、引き出しがあるのかを答えること。 月の途中で預けても日割りでの利息は付けないが、今回に限り初めてなのでサービスして六月一ヶ月分の利息をきちんと付けてくれること。  納得できたので私はその週の土曜日、現金を持って彼女と会うことを宇響の前で約束した。 「基本的に受け渡しは私自身としましょう。私は月末になるとそれこそ北海道から沖縄まで日本中飛び回るのよ。どうしようもないときのために一人だけ手伝いを頼んでる人がいて、あともう一人運転手を雇ってるんだけど、でも、私は出来るだけ自分でやるようにしてるの。旅行にも行けないのよ。忙しいのもあるけれど、私に何かあったらみんな本当に困っちゃうでしょ。あ、でも安心してね。万が一のことが起こった時にはどなたからいくらお預かりしていて、いくらお返ししなくちゃいけないかということはちゃんとわかるようにしてあるから。」  話がすべて終わった頃、ちょうど杏仁豆腐が出てきた。ママが豪勢に料理を頼んだのでテーブルにはまだ料理が随分残っていた。 「宇響、アンタ本当に食べないねえ。ダメじゃない、若いのに。」 「イヤ、もうホント、いただきました。お腹一杯です。」 そう言いながらお腹をさするのは宇響のいつもの癖だ。 宇響は確かに二十五歳とはとても思えぬほど少食だ。わずか二歳しか違わない泰雅など馬のように食べるのに。  ママと別れて店に入ったのは十時近かった。  乾杯して、ほんの数杯飲むとルイが空いてしまったので、次のボトルを入れた。  実はこの日、私は札入れの中に三万円入った小さな祝儀袋を入れて来ていた。 宇響はほかの席に行って戻って来ると、 「やったぁ。チップもろたで。二万ももらっちゃったぁ。」  というようなことをよく言っている。私もヘルプにはチップをあげなくちゃいけないんだろうな・・・と思っていたのだ。 店でのヘルプは一本千円だ。 しかし、泰雅やトシちゃんなど、ここまでしてもらって千円!?とこちらが申し訳なくなるぐらいよく動いてくれる。 ホストが互いに助け合って働くのがホストクラブなのだから・・・とわかってはいても何だか申し訳なくなる。 しかし、どうやってチップというものを渡したらいいのかわからない。仕方なく私は旅館やゴルフ場でチップを渡すのと同じように小さな祝儀袋に三万円を入れて来た。一回で三万円は大きすぎるかもしれないが、これまでの分、という意味合いも含めて。 宇響がほかの席に呼ばれ、澤井が中座したのを見計らった私は泰雅にその祝儀袋を渡そうとした。 「泰雅クン。いつもありがとう。これ、少しだけど受け取って。」 「え?あ!イヤ、受け取れないっす。」 「そんな・・・。変な意味なんか何にもないよ。ただ、チップなの。」 「いや、これは受け取れません。」  それは一応形だけ断るというような言い方ではなかった。キッパリと断られてしまった。私はとてもバツの悪い思いをしながら仕方なく引っ込めた。  月曜日に長居すると一週間辛いので私は十二時前に店を出ることにした。  タクシーまで送ってくれる宇響に私は聞いた。 「今日ね、泰雅クンにチップ渡そうとしたら断られちゃった。」 「そうなんや。受け取っといてオレに一言言うたら済む話やねんけどな。」 「え、黙ってチップ受け取ったらいけないの?」 「チップって言うか、とにかく指名者がおらんところでコソコソするんはええ事やないからな。別にようちゃんはコソコソしとるつもりないんはわかっとるけど、泰雅はマジメやからな。それはええ事よ。」 「ふうん。じゃ、どうやってチップってあげたらいいの?」 「オレに渡してくれたらええねん。そしたらみんな喜んで受け取るさ。ホンマは金、無いヤツらばっかりなんやから。」 「そう、じゃこれ。」 「いくら入ってるん?」 「三万。」 「いらんよ、三万も。」 「でも、今までの分・・・。」 「そんなんいらんて。アフターでうまいもん奢ることだってあったんやし。そしたら一万円だけちょうだい。泰雅に渡しとくさかい。」 「わかった。」  この日の会計。六十六万円。チップ一万円。 六月七日(金)  日帰り出張。島根県出雲市。  前回私がタクシーで新宿まで行く事で不機嫌になったのを見て、宇響はボアで待ち合わせることを提案した。  私は前日教わったばかりの宇響のアドレスにメールを入れた。 「今から飛行機乗るよ。羽田に六時半だから、ボアには七時半?かな。」 「おっけ。」 宇響はボアから私をタクシーに乗せ、靖国通りをほとんど四谷近くまで行くと「玄海」という鳥の水炊き専門店に連れて行った。 料亭のような佇まいで玄関にはきちんと打ち水がしてあり、番頭が出迎えてくれた。私たちは六畳ほどの個室に通された。 * * *   最近、宇響は私を教育するようになった。 ホストが長きにわたって売り上げを上げ続けるためには数少ない太い客に頼り切るのではなく、小さい客も含め沢山の客に支援してもらう必要がある。 それが王道だ。どんな客にも栄枯盛衰はあるし、ホストクラブに飽きが来る客もいる。ホストと大喧嘩して二度と店には来なくなる、所謂「切れる」事だってある。たった一人の客に頼り切って売り上げを叩き出しているのではその客に何かあったら自分まで終わってしまう。  しかし、常にナンバーに入る、ましてトップスリー、そしてナンバーワンになろうと思ったら、地道に王道だけでは難しい。 「最後はコイツ」という客を自分の馬として選び、ここぞという戦いに備えてその馬を慈しみ、大切に育てる。大切にされてこそ馬だっていざというときは全身全霊を以て騎手に応えようとするのだ。 時には店の舞台裏や自分の事情を話して聞かせ、理解を得る必要もある。 こういう馬=客は沢山は要らない。 いや、要らないのではない。ホストだって体は一つだし一日は二十四時間しか持っていない。特別な馬を何頭も持つことは不可能だ。手が回らなくなってしまう。大切にしてやれなくなってしまう。 「自分は利用されているだけだ」と悟ったら馬は騎手の言うことを聞かないどころか乗せることさえしなくなるだろう。  アマンのトップスリーはここ一年ほどまったく動きがないらしい。 ナンバーワンは頼人。もう三年近く不動の座だという。彼の特別の馬は日本人なら誰でも知っていると言っても過言ではない実業家の宗田怜子だ。 続く蓮はママ。  宇響のナンバースリーもほぼ指定席と言えたが、彼はそういう「極太」ではなく「わりと太い客」を数人持っているだけだった。 しかし、テレビ局のプロデューサーはあの骨折以来店には来られなくなってしまったし、質屋のルナはつい先月、宇響を指名しておきながら同じグループの澤井と恋愛関係になり、怒った宇響は店から閉め出してしまった。 来ればそれなりに多額を遣ってくれる客はほかにもいたが、彼女たちはさまざまな事情でそうそう頻繁には来られなかった。  そういう背景があって、宇響は私を「この馬」と見定め、教育を始めたのだ。  一緒に戦うためには、そのための策略を立てるためには、まず馬に基礎知識を叩き込まなければならない。  教育を受けて秘蔵の馬になることは、私にとってこの上もなく喜ばしいことだった。  最初に教わったのは店の料金システムだった。 同じ酒を入れても指名ホストによって客が払う金額は変わってくる。 普通のホストは売り上げのうち二十五~四十パーセント程度が自分の売り上げとして計上される。店側のピンハネが大きいのだ。その代わり、この数字にほぼ比例して、「サービス料」と呼ばれる酒を客に出すときの掛け率と指名料も決まる。 だから店に対して取り分の少ないホストを指名すれば、客は安く飲むことが出来る。言い換えれば、より安易に客に自分を指名させることが出来る事になる。 さらに、彼らには日給がある。たとえ客を一人も呼べなくても一日まじめに働けば四千円が保証されている。 宇響はピンク伝票を使っていた。 ピンク伝票を使うホストはシステムが全然違う。彼らには日給がない。指名料もサービス料も格段に高い。端的に言うならば、客が超えなければならないハードルが高くなる分、客はつきにくくなる事になる。 そのかわり売り上げの取り分は店とホストで折半だ。 さらに、十二時になればいつでも退勤することが出来るし、一ヶ月に五日までは罰金無しで休むこともできる。三百六十五日営業のアマンでこのメリットは大きい。 ピンク伝票以外のホストは一ヶ月に五回までしか十二時上がりはできないし、当然の事ながら休めば日給が無くなる。 ひとりの客が一ヶ月に遣える金額が決まっているのなら、出来るだけ少ない回数で、理想を言うならばたった一回でドンと使ってくれる方がホストにとってはずっと旨味があることも教えられた。 それは、客が払う代金の中に含まれているセット料金やテーブルチャージ、バンドチャージ、ヘルプ料は毎回必ず支払うもので固定されているからだ。この部分は指名ホストにとって何の儲けにもならない。 仮に毎回の予算は三万円までで、その代わり一日おきに店に通う客がいるとする。その客は三万の中からこれらをすべてを支払うのだから純粋に飲食、指名料、サービス料にかけられる金額は微々たるものになってしまう。 一日おきに来た客は「私、一ヶ月で五十万近くも遣ってるじゃない!」と自分では思っているかも知れないが、それならば一回こっきりで五十万を遣ってくれた方がホストの実入りはずっと大きい。しかもその方が少ない労力で済む。 まさか客に「あんまりしょっちゅう来ないでね。でもお金は今まで通り遣ってね。」とは言えない。言い方を一つ間違えて怒らせてしまったら終わりだ。 客の顔色を伺いながら、機嫌を損なわないように判ってもらうのは大変なことなのだ。 罰金についても教えられた。 ほとんどすべての水商売は日曜、祝日は休みだ。 誰でも日曜、祝日は家庭で過ごそうとするから集客が期待できない。 しかし、アマンは違う。二年に一回の社員慰安旅行の一晩をのぞけば三百六十五日営業しているだけでなく、その、人が集まりにくいとされる日曜・祝日を強制指名日にしている。 読んで字のごとく、ホストが強制的に客を呼ばなければならない日だ。もっとも全ホストが本当に客を連れてきてしまったら席が足りないので、月曜日でもいいことにはなっている。 強制指名日に客を呼べなかったら罰金一万五千円。 罰金規定はいくらでもある。 土曜日はタキシードデーと呼ばれ、タキシードにアスコットタイや蝶ネクタイを締めることになっているが、それを忘れたら罰金五千円。 遅刻は三十分で罰金千円。 月初めの全体ミーティングを欠席したら罰金二万五千円。 驚くのは全社あげての社員慰安旅行だ。アマンだけでなく系列店のホスト、全従業員は給料から毎月の積み立てを強制されている。 積み立てた自費で行かされる旅行であるにも関わらず、行かなかったら積立金を返してもらえるどころか罰金二万円。 大広間で社長夫妻を前列のど真ん中に据え、三百人以上のホストと従業員が揃って集合写真を撮り終えたら帰ることもできるというところが社長の自己顕示欲を物語っている。 「慰安」などとよく言えるものだ。 * * * 玄海が個室だったこともあって宇響はいつもより長く、丁寧に私に教育を施した。 私に、だからどうしてくれとは一言も言わない。 教えさえすればあとは私が自分で「どうしたらもっと宇響の役に立てるか」「どうしたら宇響を困らせずに済むか」を考えるに違いない事を彼はよく知っていた。 「つまらんな、こんな話ばっかりしとったら。」 「ううん。すごく面白い。これからはまた、今までとは違った楽しさがあるような気がする。」 「ホンマ?それやったらええけどな。」 「でも、わたしももっとお店に行く回数減らしてまとめて遣った方がいい?」 「ようちゃんはええよ。何でて、一遍に何十万も遣ってくれる訳やん。そしたらその中でテーブルチャージとかセット料金とか、ホンマにちっさいお金やろ。だから、何も気にせんでええんよ。オレ、正直なところほかのお客さんとこんな店来うへんで。ちっさいお客さんこんな店でいちいち奢っとったら大損やし、反対に奢ってもらうんやったら、そんな金、店で遣えよっちゅう話やで。」  自分の利だけを考えていることを露骨なほど正直に言いながら、しかし彼は決して私の気分を損ねるような事は無いどころか実に上手く私の自尊心をくすぐる。  宇響は言った。 「ようちゃん、神戸行こうよ。」 「神戸?」 「オレ、正月以来帰ってないから、来週あたり神戸帰ろうと思てんねんけど一緒に行かん?」  天にも舞い上がるような気持ちとはまさにこのことだろう。  神戸。彼の生まれ育った街。  別に私だって、彼が私を神戸に連れて行き、家族に会わせてくれるなどと馬鹿なことを期待している訳ではない。  でも、歌舞伎町ではなく彼の故郷に行き、ネオンに輝く虚飾の世界ではなくお天道様の下で一緒にいられるのだ。 胃のあたりから全身に暖かい何かがじわじわと広がっていく。 「いいよ。来週のいつ行く?」 「週後半はなぁ、店も休みにくいから・・・月曜日から行きたいんやけどようちゃんにはキビしいかな?」 「だいじょうぶよ。」 ― 家には急な出張ってウソつくから。会社はどうしよっかな。ま、なんとかなるさ。 「ホンマ?火曜日からでもええねんで。」 「大丈夫だと思うわ。」 ― だって出張だもの。別に月曜からでも火曜からでも同じだよ。 「二泊はしたいよなぁ。」 「じゃあ、月、火、水ね。」 「ほな、決まりということで。」 「うん、いいよ。」 ― 神戸に誘ったのは教育の一環なのかな。  それはきっと、特別な連帯感を抱かせてこれから一緒に戦って行こうというく儀式なのだと私は悟った。  それでも私は十分に幸せだった。  玄海を出て、アマンに行くとその日の授業で教わったことを私は十二分に活かした。  この日の会計。六十八万円。 前回チップの渡し方を学び、ヘルプのホストと内勤にチップ五万円。 六月八日(土)  約束通りママと七時に会った。  ママはヒルトンではなく、京王プラザホテルのロビーラウンジ「デュエット」を指定してきた。  私は一千万円という現金を抱えていたので内心びくびくしていた。この私が新宿までタクシーで乗り付けたほどだ。 金の受け渡しはすぐに終わった。 借用証書は実に簡単なものだった。どこの文具店でも売っている縦罫のはいった便箋一枚に「借用証 一金 壱千万円也 右、金額借用いたしました。尚、利息は毎月三%お支払いいたします。 平成十四年六月八日 大野邦子」と書かれ、大野印が名前に重ねて押されているだけだ。 「それ、絶対人に見られないところにしまってちょうだいね。」 「はい、わかりました。」 「それから、それは大切にね。これから増資するにしても、利息を受け取ってもらうにしても必ず持ってきてもらうから。」 「はい。わかりました。」 ― もしもの時、こんな紙きれ一枚、何か役に立つのかしら・・・。  「もしもの時」というのが具体的には思いつかないが、私はぼんやりとそう思った。  今日は宇響がいないこともあってママは前回以上に私の財産についていろいろと探りを入れてくる。  私は、母の遺産整理はすべて終わったこと、今その母親が寝たきりで入院しているから彼女が亡くなったら今度の相続は規模が大きく大変だろうということを手短に話した。  ママはとても急いでいた。 「ゴメンね。陽子さん。私八時に歌舞伎町に行かなくちゃいけないの。陽子さんは?今日は宇響のところに行かないの?」 「いえ、土、日は。」 「そう、じゃあ、ここで失礼するね。今度池袋にものすごくおいしい小料理屋さんがあるからご馳走するわよ。お金、あんまり宇響に遣っちゃダメよ。それなら私に預けなさい。」 「そうですね。」 ― 宇響がいるから私と知り合ったくせに。 ちらとそう思った。 六月十日(月)  午前中は会社に行き、午後から休みをとった。  家には出張だと行って出てきている。泊まりの時はさすがにシッターさんでは無理なので、父に家に来てもらった。元々仕事がら地方出張は頻繁なので父も子どもたちも別に何とも思ってはいない。 会社には「家庭の事情で」とだけ言って休みを申請した。 水曜日はもしかしたら午後から出勤するが無理かも知れない、それは追って連絡すると言い添えた。 宇響とは午後一時に新幹線の中央改札口で待ち合わせた。 宇響の普段着姿を見るのは初めてだったが、それは私をかなりがっかりさせた。 クレープ地でできたアイボリーの上下なのだが、Vネックの形や全体のダボっとした感じが如何にも小金持ちのあんちゃんと言った感じで、センスのかけらもない。白い革のサンダルがさらにチンピラ風を強調していた。  私はと言えば、この旅行にはおしゃれの総力を結集していたと言っても過言ではない。スーツなら既にブランドものを七、八着は持っていた。しかし、今回は店に行くのではない。リゾートにはリゾートのおしゃれをしなければ・・・と。  前の日の日曜日、この旅行のための服と靴を全て新しく買い揃えた。 マックス・マーラのデニム地で出来たノースリーブのツーピース。ドルチェ・アンド・ガッバーナのTシャツ二枚に白のパンツ。さらにPUMAのTシャツでネック部分とロゴにクリアカラーのラインストーンをあしらったもの。同じくPUMAのスニーカーのPUMAラインを十色以上のラインストーンで埋め尽くしたもの。エルメスのオレンジ色のサンダル。 突然思いつき、二子玉川にまで足を延ばしロレックスのデイトジャストまで買ってしまった。文字盤はリゾートを意識してシルバーシェルにした。もちろんテンポイントダイヤ。最後に成城の輸入ナイトウェア専門店でシルクのパジャマとガウン。  総額で百四十八万円の買い物になってしまった。  荷物は昔から持っているルイ・ヴィトンのキーポルに詰めた。わずか二泊とはいえカーラー、化粧品からサンダルまで入れるとパンパンに膨れ上がった。 東京駅にはPUMAのTシャツとドルチェの白いパンツ、PUMAのスニーカーで行った。  宇響は私より一回り小さいキーポルを持っていた。 ― 二人して読売ジャイアンツのキャンプ入り?  自嘲する。  PUMAのスニーカーの踵は異常に堅く、まだ半日しか履いていないというのに素足のアキレス腱からは血が滲み出ている。  東京駅一時三十三分発ののぞみに乗った。  宇響はグリーン車の喫煙席を選んだ。 ― やっぱりね。 グリーン車なんて乗ったことがない。とてももったいないように思えたが、言うのはやめた。言ったところで聞くはずもない。 ― 仕方ないんじゃない?体の大きさが全然違うのだから。 と、自分を納得させた。 私たちは二人ともとても本が好きだった。 席に落ち着くと、どちらともなくカバンから本を取りだした。 宇響がとても本が好きなのには以前驚かされたことがある。 それは、初めて店に行ってからほんの二、三日後の電話だった。 私が「私は世の中の日の当たるところだけを通って生きてきたから、ある意味ではあなた達にくらべて私は何も知らないのかもしれない」と言った。 「大丈夫。ようちゃんにはこれからオレが少しずつ裏の世界を教えていったるさかい。」 「そう。楽しみなような、怖いような、ね。」 「オレなんか、読んでる本までが裏の世界の話やからな。」 ― へえ、本なんか読むんだ。ホストなんてどうせ漫画ぐらいしか読まないと思ってたよ。 「私が今読んでる本も裏社会の話よ。すっごく怖くて、でもすっごく面白い。読み終わるのがもったいないくらい。」 「おもしろそうやん。誰の本?」 「新堂冬樹。知ってる?『無間地獄』っていうんだけれど。」 「今オレの読んでる本と一緒やん!?オレ、新堂冬樹好きでさぁ、今までのも全部読んでるんよ。」 「えぇ~。すごいねぇ。今度貸してよ。」 翌日からの私たちは、本をどこまで読み進んだかという話で盛り上がった。 宇響は新堂冬樹に限らず多種多様な本を読んでいた。 それを、ひと間しかないマンションの床に積み上げていること、処分しようとは思うが何となく本は捨てられないということ、だから本棚を買いたいと話していた。 私が店に通うようになると、私たちは本の貸し借りをするようになった。 まさかホストと本の貸し借りをするとは思っても見なかった私は、ホストというもの自体を見る目が変わった。 ― この男は容姿だけじゃないんだ。 私は、さらに急速に惹かれた。 新神戸駅に着くまでの三時間、私たちはほとんど話をすることもなく、本を読み、少し眠って、コーヒーぐらいを飲んだ。 ホテルは人工突堤の先端にある半月型のホテルだった。子どもの頃から神戸のランドマークとして写真やテレビでは何回も見たことのある鼓型のタワーが傍に建っている。 チェックインの手続きを待たされている間、宇響は唐突に自分の札入れを開いて見せた。 「これな、プロミスのカードなんよ。」 「?」 「そやけど、ほら、こうして入れるやろ。」  そう言って、カードを裏返しにしてスリットに入れる。 「そしたら、ゴールドカード持っとるように見えるんよ。」  スリットから七ミリ程突き出た部分は確かにゴールドカードそのものだった 私は大笑いした。 「なあ、うまいやろ。なぁんて。下らん話やねんけどな。そやけど、こいつら、これ狙ってデザインしとるんちゃうか思うで、なあ。俺らみたいにゴールドどころかカード持てん人間からしたら、ありがたい話やで。向こうもカードの色ぐらいでお客さん増えるんやったらええこっちゃ。」  宇響はシングルを二部屋予約していた。 「そしたら、ちょっと休んで七時頃になったら行こか?」 「うん。」 「そしたら、出る時電話するわ。」 「うん。」  七時まではまだ二時間近くあった。ちょっと休むといわれてもあまりすることがない。 私は万年寝不足なので、いつでもどこでも寝てよいと言われれば一分後には眠れる。しかし髪がグチャグチャになるのがイヤだった。 荷物を納めるべきところに納めると私は売店に行って絆創膏を買い、アキレス腱に貼った。もう、この靴は履けない。  七時過ぎにホテルを出て初めに宇響が連れていったのは北野坂にある牛タン屋だった。ビルの入り口に大きな象が立っている。ビルの名前が本当に象ビルというのには笑った。 石焼きがとてもおいしい店だった。  それからラウンジ・バーに行った。 牛タン屋を出てほんの五分ばかり歩いたビルの四階にあり、フランス語で「三姉妹」という名前の店だった。本当に美しい三姉妹がやっているのだが、言うこと、話すことは気取りがなくまるっきりのお笑いで、私はカウンター席から落っこちるのではないかと思うほど笑った。 彼女たちの美しさ、店の落ち着いた内装、カウンターに飾られた豪勢な周年祝いの花。それらとお笑いのアンバランスに私は関西って本当にこういうところなんだと感心した。 「なんや、聞いた声がすると思たら、ヨシちゃんやないの。いやあ、ヨシちゃんの声聞こえるけど、そんなはずないなぁ思てんよ。久しぶりやねぇ。元気にしとるん?」 ― ヨシちゃんか。  ちょっと羨ましかった。宇響は源氏名だが、ヨシちゃんはあだ名だ。と同時に、あんちゃんルックのこの男と私はいったいどう見えるのだろうと気になった。  アフターはすべて客持ちが原則だ。神戸に来るのがアフターなのかどうかはよくわからなかったが、会計の時に私が財布を取り出すと宇響はそれを手で抑えた。 「女の店」では男が払い、「男の店」では女が払う。これが夜の世界ではイロハのイだと教えられた。店を出てからこっそりやりとりするのは別だとしても。 店を出ると宇響は言った。 「いつもやったら、神戸帰ってきてもあそこには行かんからな。ホンマ、ひっさしぶりやで。周年て聞いたら行かんわけにはいかんしな。」  それから四軒の店に行った。 昔、宇響が十代で働いていたというホストスナックは汚くて小さい店だが常連には居心地がいいようで結構混んでいた。 会員制の穴蔵のようなバー。 そして、そこで待ち合わせたホストのアコードに乗せられてホストクラブに行った。そこは彼の父親が経営しているホストクラブで、宇響も上京前までここでホストをしていたという。五月三日、私が無人島ゲームで選んだ松園もここからアマンに来た男だと知って私は驚いた。  とどめに宇響のホスト仲間が自分で経営しているスナックに行った。 彼は「ウマ」というあだ名の、本当にちょっと馬に似た男にアイスペール満杯のシャンパンを飲ませた。  この四軒の会計はすべて私が持った。「男の店」では女が払う、のだから。  「ウマ」の店を出ると、夜が明けているどころか人々が通勤路を急いでいる。  服も髪も顔もヨレヨレで、酒に足がもつれる中年のオバサンが、初夏の日の光に晒されるのは実に惨めなものだった。  私たちはタクシーでホテルに戻り、翌日 ~と、頭は数えるが、つまりその日~ の夕方まで眠った。 六月十一日(火)  目覚めるともう、四時を回っていた。 外は雨が降っている。 しばらくの間、今が朝の四時なのか、夕方の四時なのか、自分がいるのはどこなのか、何月何日なのか、何も把握できなかった。 熱い風呂にゆっくり浸かっていると、宇響から電話が入った。 「おはよう。起きとった?だいじょうぶ?具合い悪いんちゃうん?」 「ううん。自分でも絶対二日酔いになるだろうと思ったけど、そんなでもない。」 「買い物したいやろ。」 「うん。それははずせないなあ。」 「いま、なにしとん?」 「お風呂入ってる。」 「そうなんや。オレもこれから風呂はいって用意するから、そしたら電話するよ。」 「お店、閉まっちゃわない?」 「大丈夫やで。センター街とか行ったら八時過ぎまでやっとおから。」 「ホント?わかった。」  五時過ぎにホテルを出て、神戸港を挟んで対岸にあるフードコートに行き、そこで軽食を取ってから三宮に出た。宇響はまだ少し酒が残っているようで、レモンジュースばかりを三杯も飲んだ。 こんなに慌ただしいのならもう少し早起きするべきだったというぐらい私たちは短い時間で貪欲に買い物をした。 二人が買うものはどうせブランドもので、特産品でも何でもないのだから東京で買えばいいようなものだが、東京に較べるとぐっと街がコンパクトな分動きやすい。少し安いようにも思えた。  商店街が少しずつシャッターを閉め始める頃、二人で紅茶専門店に入った。 「泰雅に電話したろ。」 「もしもしぃ?ああ、オレオレ。おはよう。今、買い物しとったところよ。これからメシ食うてちょっとだけ飲みに行こかなぁと・・・。  ええ?・・・ ああ。  おまえに何か買うたろ思とったんやけど、自分のもんでようさん金遣てしもたから、なんも買えんようなったわ・・・ハハ!・・・アッハッハ!ええ?・・・ちょっと待って。ようちゃんに代わるわ。」 ― 私と来てること、泰雅クンに言ってるんだ。  何故か嬉しくなる。誰にだかわからない優越感を覚える。 「もしもし?」 「おはようございます。」 「おはよう。ひどいわよね、私がおみやげ買ってくから。大丈夫よ。なにがいい?」 「いや、もういいっす。気にしないでください。」 「宇響さんには言ってあるの?」 「ええ、いや・・・はい。」 「じゃあ、私が責任もって買わせるから。こっち、雨なのよ。東京は?」 「いや、東京、天気いいっすよ。」 「そう。今日もお仕事がんばってね。じゃあ、代わるわね。」 気分は姐さんのようだ。 宇響が泰雅に向かっておまえにおみやげを買うお金はないと言い、それを私がきちんとしますからねと言うことで私は宇響に対して「うちの人」的な連帯感を勝手に覚えていた。 もっとも電話で宇響が大声で泰雅にああ話したのは、私にそれを聞かせれば私が買うだろうと踏んでいたようにも思える。 手口と判っていても嬉しいのだからどうしようもない。 「もしもし?おお、よかったなぁ。ようちゃんが買うてくれるって。ええ?・・・アッハッハ、ハハハ!!うん。そしたら、またな。ええ?・・・あ、ええよ、それは構わんで。オレから言うてあるから。・・・うん。そうして。ほな、明日な。・・・そやなぁ、新宿に着くんが七時過ぎなんちゃう?」 ― その七時過ぎって私も入ってるのかな・・・?もしかして、私、明日も店に行くの? ウソ出張明けにホストクラブに行って深夜になるのはイヤだった。自分だって疲れてしまうし、いくら何でも子どもがかわいそうに思えた。  しかし、わたしはそのことについて宇響には何も言わなかった。  紅茶専門店を出て、急いでブランドものを扱っている店に引き返すと、そこはまだやっていた。 私は宇響が選んだヴェルサーチのシャツを一枚泰雅に買い、さっきは迷ってワゴンに戻したドルチェのシャツを、やはり自分に買うことにした。 夕食後、私たちはもう一度昨日のホストクラブへ行った。今日は大スクリーンを使ってカラオケをやっていた。 明日は帰る日だから、と言うことで私たちは短時間で店を出た。とは言っても、開店自体が一時過ぎなのでホテルに戻ると四時を回っていた。  二人分合わせて十以上あるショッピングバッグを宇響はすべて持ってくれていた。私が彼の部屋の前で自分の分だけ受け取ろうとすると、部屋まで持って行ってやると言う。 部屋に入り、荷物を置くとカーテンを閉めながら宇響が言った。 「スポーツしようよ。スポーツ。約束やったやん。」  あの五月三日に「オレとエッチしてくれる?」と聞いた宇響に私が「いいよ。」と答え、「セックスなんてスポーツだ。」とうそぶいたことを指しているのだ。 「いいよ。」  ベッドに入りながら私は訊ねた。 「これも、仕事?」 「そんなんちゃうよ。」 私から求めたわけではないのだから「仕方なく」ではないのかもしれない。 しかし、これも私という特別な馬に与える特別なエサの一つに過ぎないのだろう。 ― それでもいいじゃない。 私には断る理由は何もなかった。 悲しい気持ちを頭から振り払い、私は抱かれた。 六月十二日(水)  宇響のセックスは実に淡白だった。  リカちゃん人形を裸にするかのように私の服をむしり取ると、お愛想程度に体に触れ、あっと思った時にはもう繋がっていた。  二分と無かった愛撫の中で 「オレのスキな小っさい乳輪や。」 と、言われたことは覚えている。 仰向けになって目を閉じ、彼の細く美しい指で乳首を転がされながら、私はホスト本に書いてあった一節を思い出していた。 「客のいいところを何でもいいから一つは見つけ出す。それが出来ないようではホストは務まらない。」 ― そういうことなのかな・・・。  しかし、宇響に貫かれたその瞬間、誠意のかけらさえ無い前戯も、営業トークとしか思えない言葉が与えた寂しさも、すべてがふっ飛んだ。 私は彼のペニスの大きさに「衝撃」を受けた。 「衝撃」。まさにそうとしかと言いようの無いほどそれは大きいものだった。 ―ウソでしょう!?え?何これ。え?若いから?  いや、若いからではない。私にだって若い日はあった。  しこたま酒を飲んでいる筈だったが、彼の感覚は不思議と鋭敏で、あっという間に私の腹に射精した。 淋しい限りの前戯とはうって変わり、彼は初めに私の腹を、次いで股間を、そして最後に自分のペニスを優しく、念入りに拭った。 しかし、それだけだった。ゆらゆらと波に揺れる小船に乗っているような感覚のまま、しばらくはまどろんでいたい私をおいて宇響はさっさと自分の部屋に戻ろうとした。 「それはイヤ、いくらなんでも。一緒に寝て。」  私が彼に何かを頼んだのは多分これが初めてだと思う。  引き止められた彼は添い寝をしてくれたが、一つの布団ではどうしても眠れないらしい。寝返りばかり打って夜が明けると、私にことわって自分の部屋に戻って行った。  次に目覚めたのは昼近かった。  私は会社に電話をし、今日はやっぱり行かれないと伝えた。  熱いシャワーを浴び、ベランダに出た。突堤の先にあるホテルなので、まるで自分が海に浮かんでいるような景色が望める。 「おはよう。起きとった?」 「うん。シャワー浴びて今、ぼーっとしてた。」 「三時頃出よか。」 「うんわかった。」 「もう、買い物せんでもいい?」 「うん。もう、いい。」  駅ビルで私たちはお好み焼き屋さんに入った。私はお好み焼きにソバめしのつくセットがあることに驚いた。 「ソバめしはブームだけど、セットになってるなんて珍しくない?」 「珍しいことなんか、いっこもないで。どこの家の夕飯もだいたいこんな感じやで。毎日いうわけやないけどな。」  サラダに、分厚いお好み焼きに、日本中でブームになっているソバめしの山盛りがセットになっている。本当にこんなに食べられるのかと呆れたが、宇響は半分以上を残した。 「ああ、もう食べきれん。腹いっぱいや。泰雅が居ったらなあ。」  一ヶ月一緒にいてよくわかったのは、宇響は少食なくせに沢山注文しては平気で残すことだった。  何かにつけて、私をお嬢ちゃま扱いし、自分や周りの友達がいかに貧乏な中で育ってきたかという話を聞かせる割りにはものを粗末にする。 粗末にするのは食べものだけではない。水、電気、紙、ティッシュ。 育った時代と育ちそのものが違うと、しばしば痛感させられる。 ― この人とは絶対に結婚はできないな。  もともと結婚などあり得ない話なのだが、ふとそんなことを思ったりする。  四時過ぎののぞみに乗って、私たちは七時を少し過ぎたところで東京駅に着いた。  ここでも私は中央線に乗って新宿に行きたかった。道が混む時間だし、電車ならばわずか百九十円、十四分で行かれるのだ。何を好きこのんで時間の読めないタクシーに大枚をはたかなくてはならないのだろう。でも、私はもう何も言わないことにしていた。それに、確かに荷物の量が半端ではなかった。 喫茶ボアに行くと泰雅が迎えに来ていた。 宇響は入れ替わりに自分の荷物を持って着替えに自宅まで帰って行った。四十分ぐらいで戻ると言い残して。旅行にはスーツを持ってきていなかったのだ。 もっとも、スーツを持っていても髪をセットするためには家に帰っただろう。 宇響の髪型へのこだわりには並々ならぬものがあった。 自分の大好きなドライヤーと自分の大好きなブラシでなければうまくいかないという。ショーウインドウ、喫茶店のガラスドア、ありとあらゆる反射するものでいつも髪型をチェックしている。ちょっとでもはねていたり、盛り上がっていたりすると気になって仕方ないようだった。  ほんの霧雨でも降り出したら律儀に傘をさすのも、歩いていて風が後ろから吹いてきたら突如踵を返して逆向きに歩くのも、「特別な馬」であるはずの私がどんなに誘っても決してジェットコースターには乗らないのも、すべては髪型をキープするためだ。  「ホストは基本的にナルシスト」だと彼は言う。確かにナルシストなぐらいでなければ売れるホストにはなれないと私も思うし、いつ見ても宇響がキマっているのはナルシストだからこそだとも思う。 それにしても、だ。店に居ても時々心ここにあらずになり、四方八方にある鏡で自分の容姿を確認してばかりいるのにはうんざりさせられることがある。  九時近くなってわたしたちは店に入った。  神戸の「飲み旅行」で私は疲れていたし、子どもたちのことも気になったので十二時前には店を出た。 それでも、店全体が空いていたからなのか、ヘルプが五人ほどついて、新しいボトルを入れた。  この日の会計。六十六万円。チップ二万円。 神戸での二日間の飲み代七十万円、宇響に買ったスーツ十四万円。自分の買い物二十二万円。 六月十四日(金) 「ようちゃん、ゴルフするんやろ。」 「うん、するよ。ものすごく下手だけどね。」 「ええなぁ、ゴルフしたいわ。泰雅はゴルフ上手いんやろ?」 「うまいっすよぉ!」  泰雅がふざけて言う。でも、なかなか本当に上手いらしい。彼は店の古株ホストたちと一緒に時々ラウンドしているという。 「あと一歩で百、切れそうなンすけどねえ。」 「切ったことはないの?」 「ないんすよ、これが。」  宇響が言った。 「ゴルフ、やってみよかな。」 「やろうよ。レッスン受けてみれば?」 「そんなんはええねん。泰雅に教われば済む話やし。」 「それはダメだよ。最初は肝心だよ?泰雅クンがいくら上手でも、自分が上手なのと人に教えるのはまた別のことじゃない?変なクセがついちゃったら直すの大変だよ。宇響さん、ずっと野球やってたじゃない?野球やっている人は特に気をつけないと。」 「そうかぁ?」 「そうだよ。私、いいところ捜して来るから。」 「ううん・・・ほんなら、まあ、捜してみて。」 「うん。」  私は自分の好きなゴルフを宇響が始めてくれたらどんなにか楽しい時間が増えるだろうと期待で胸を膨らませた。  ゴルフ談義に花が咲いていたところに、あまり見かけないホストがやってきて宇響に何か耳打ちをした。 「ゴメン、ちょっと行って来るね。」  宇響が席を外した。  アマンで私がとても嫌だと思うこと。  その一つが内勤やホスト同士の耳打ちだ。 ホストがずっと同じ席にいられないことぐらい重々承知している。彼らは仕事をしているのだ。宇響を自分だけのものだなどとは思っていない。 それならば、昔よく父から聞かされた「○○さん!○○さん!○番テーブルへどうぞ!」という館内アナウンスでもかけてくれた方が耳打ちよりよっぽどスッキリした気持ちで送り出せる。 それがこの店にはまったく似つかわしくないやり方であることも、どこのクラブでもキャバクラでも耳打ちが当たり前なこともよくわかっているから口には出来ないのだけれど。 もう一つは、店じゅうの壁と言わず柱と言わず天井にまでに張り巡らせてある鏡を使って、彼らは常にありとあらゆる状況を伺いながら仕事をしていることだ。 別の席にいる自分の客への応接はうまくいっているか。 今日はどんな本番が来ているのか。その席に自分たちのグループでは、どの順にどんなタイミングで着くか。 ライバルのホストはどんな客を連れて来ていて、何を飲んでいるか。 自分たちは上手に鏡を使っているつもりなのかも知れないが、会話を楽しんでいる振りをしているクセに、その目の動きで本当に考えていることは見えみえだ。 思わず「鏡で見てるぐらいなら行ってくれば?」ぐらいのことを言ってやりたくなる。  室蘭に日帰りで出張してきたその足で店に来た私は疲れていた。 酔いが回るのも早い。 ルイが空き、いつものように泰雅がボトルをそっと指し示しながら聞く。 「ようさん、いいっすか?」 「うん、いいよ。でも、私、今日はワイン飲みたい。ムートンがいいな。」  ムートンだろうが紙パックのワインだろうが本当のところ私には何にもわかりはしない。 私の中では、ほかの席に行ってしまった宇響を連れ戻したいという思いと純粋に彼を喜ばせたいという思いが交錯して「ルイ+ムートン」という作戦に出たまでだ。 「あ、じゃあ、ちょっと待ってて下さいね。」  言うと泰雅は席を立った。  思ったとおり、泰雅と入れ替わりに宇響が戻ってきた。 「ワインにするん?」 「うん。」 「ちがうん飲んでもええ?ムートンやないヤツ。」 「なあに?」 「マルゴー。ええワインやで。」 「いいよ。」 「トシちゃん、谷岡さんに言うて、マルゴー持ってきて。用意してくれてると思うわ。あと、ちょっと冷やした方が良さそうやからアイスペール持ってきてくれへん?」  やがてテーブルには「Chateau Marugaux 97」が運ばれてきた。宇響はそれをアイスペールにゆっくりと慎重に入れ、美しい指でそっと支えた。 ― 赤なのに何で冷やすんだろ? 「赤ワインは常温で、って思てるんやろ。」 見抜かれた。 「うん。」 「オレも知らんかってんけどな、『常温』いうてもそれはフランスの常温やからだいだい十四度から十五度ねん。そやから、日本でいうたら常温やないねん。」 「へえぇ。そうなんだ。」 「ただな、そっとしとかなせっかく溜まったオリが広がってしまうやろ。だから優しくしてやらなあかんねん。」  ダンスを踊り、ワインについて勉強し、機を捉えては後輩ホストに適切なアドバイスをする。仕事に真摯な宇響を見ると、私はついうっとりとしてしまう。 少し冷やしたマルゴーは確かにおいしかった。 飲みながら宇響は別に今日、ルイを入れなくてもいいのにと言った。 ― いつ入れても同じだもの。別に腐る訳じゃないし・・・。  この日の会計。七十八万円。チップ四万円。 六月二十一日(金)  ネットで調べると、ゴルフスクールは神宮ゴルフ場が一番いいように思えたので、私はパンフレットを取り寄せた。 「行ってみない?体験レッスンが受けられるみたいよ。」 「レッスンなあ・・・。行かなアカンもんかなあ・・・。」 宇響はプライドが高い。 泰雅と遊びながらゴルフを覚えるのはよくても、生徒が一列に並んでクラブの握り方から習うことをよく思うはずがない。 「気持ちは分かるの。でもね、神宮ってゴルフ場は、来ている人間がみ~んな宇響さんが知り合いたいような人ばかりなのよ。ホストクラブのお客さんっていう意味じゃなくても。だから、レッスンだって捨てたもんじゃないと思うの。もしかしたら何かいい出会いだって転がっているかもしれないじゃない?」  上昇志向が強く、いつも私に「オレ、大物になりたいねん。誰かそういう転機となるような人間と知り合えんもんかなあ。」と口癖のように繰り返している宇響のツボをくすぐる。 「・・・。まあ、それやったらいっぺん行ってみよか?」 「うん。じゃあ、予約とってもいい?」 「ようちゃんも行ってくれるんやろ?」 「いいよ。」 ボアで五時二十分に待ち合わせた。 ゴルフ練習所は神宮第二球場をそのまま使っている。  ここはヤナセの展示場なのかと見まがうほど、駐車場にはステータスの高い外国車がずらりと並んでいた。 「ここには国産車で来ちゃいけないっていうきまりでもあるみたいね。」  私はわざと言った。宇響に、そこが彼の憧れている世界であることを認識させるために。  神様が私の演出を手伝ってくれるかのように、実にいいタイミングで石田純一がマセラッティで乗りつけた。  体験レッスンは一時間弱で終わった。なかなか充実した内容だった。 「これで、終わりです。七月から入会するのであれば下で手続きしていってください。じゃ。」 パンフレットにも写真が出ていた講師は、特に勧誘する風もなくあっさりと言い残していった。 貸しクラブを返し、受付に向かって歩きながら話した。 「どうする?」 「どうしょう。やってみよかな。」  私は宇響がヘソを曲げずにレッスンを受ける気になって来ていることが嬉しい。ここでしくじりたくない。 「そうだよ。あの先生、教え方うまいような気がするし。それで早くコースに出ようよ。」 「ようちゃんも一緒にやろうよ。」  私の袖口を引っ張りながら、宇響が甘えるように言う。 ― どうしよう・・・。 宇響にそんな風に言われたら、目眩がするほど私は喜んでしまう。 けれど、この練習場は私にとって決して便利な場所ではない。通勤途上でもなければ家に近いわけでもない。私の家の近くには都内でも有数の距離と打席数を誇るゴルフ練習所がある。 躊躇するにはほかにも訳がある。 宇響と一緒に通える時間帯が果たしてあるものだろうか。 それにあらゆるスポーツが得意な私が、不思議なことにゴルフだけは何度レッスンに通ってもまったくうまくならない。 いろいろ考えてはみるが、答えは初めから出ている。 「うん、いいよ。私も申し込む。ゴルフ上手くなりたいし。」 ― 甘えた振りしちゃって・・・。ずるいよねぇ。 宇響はたかがゴルフレッスン代を客に払わせるようなことはしない。 けれど、私をレッスンに誘い、一緒に通うことがどれほどの波及効果を自分にもたらすかということを瞬時に弾き出す。 決められた日の決められた時間に一人でここまで通うほど熱心にはなれないし、何だかちょっと寂しいしつまらない。だから私を誘ったという部分もなくはないだろう。 しかし、内訳で言えばそんなのはコンマ以下だ。 たかが月一万四千円の会費を払うことで、他の客には決して与えていない「定期的なプライベートタイムの共有」という特別切符を私だけに与えるのだ。 これまで以上に「馬」が宇響に傾倒し、会費の何十倍、何百倍もにして返すだろうことは間違いない。  宇響のそういう計算は見事だとしか言いようがない。脳ではなく、身体で、肌で計算しているのだとしか思えない。 しかも、彼は自分で計算していることに気付いてさえいない。 ― 若くても、骨の髄までホストなんだね。 こうして、私にはすべてが読めている。 それなのに、結局計算外な行動は何もとれない。私が計算外な行動をとるとすればそれは予想以上に宇響の期待に応える時ぐらいだろう。  私たちは並んで申込書を書いて提出し、詳しい説明や規則の並ぶパンフレットと一緒に会費の銀行振りこみ用紙を受け取った。 「レッスンは七月からでいいですか。」  受付嬢の問いに、宇響が私に訊ねる。 「ええやろ。」 「うん。」 七月から私たちは毎週火曜日、六時のクラスに通うことに決まった。 店に向かうタクシーが新宿内藤町の交差点に差しかかると宇響が運転手に言った。 「次、そこ左曲がったらトヨタのディーラーがあるんで、ちょっとだけ停めて待っとってくれます?」 「はい。」 宇響はそこに駆けこむと、ものの三分もしないうちに封筒を手にして出てきた。 「ありがとう。そしたら歌舞伎町行って。」 いつものように他愛ない会話が続く。やがてヘルプが入れ替わり、少し静かになったところで私は宇響に訊ねた。 「車、買うの?」 「買うで。やっぱり車の無い生活は考えられん。だいたい、ゴルフかてどうやって通うねん。ゴルフバッグ無いうちはええけど。なぁ?」 「今日、それでパンフレット貰ってきたの?」 「そうやで。」 「何、買うの?」 「ソアラかなあ。セルシオもええねんけど、中古でええのんあるかわからんしなあ。」 「中古にするの?」 「あたりまえやん。今日行ったん、中古のディーラーやで。新車なんか買えんもん。」 ― 買ってあげたい。 抑えきれない衝動が胸の中に沸き起こる。 ― 買ってあげたい。そしてこの人の喜ぶ顔を見たい。どうせ買うのなら新車、しかも、ホストとしてのステイタスシンボルになるような。 「私が買ってあげるよ。」という言葉は、もう喉まで出かかっている。 言ってしまいたい。 けれど一度口にしたらもうその言葉を引っ込める事はできない。車と時計は違う。慎重にならざるを得ない。 ― でも、でも、どうしても買いたい。私一人で。 数週間前、テレビでトップダンディの京介が、自分の客何人かが協力し合ってフェラーリを贈ってくれたという話をしていた。 宇響が「教育」の一環として私に読ませたホストのマンガ「ジゴロ」でも、主人公が数人の客に話を持ちかけ車を買わせる話が出てくる。 でも、私はそれではイヤだ。自分一人で買うことにこそ意味があるのだ。車以上にこの人を喜ばせることの出来るものは絶対に無い。それなのにグズグズしていたらこの人は自分で中古車を買ってしまう。 今しかない。 「贈ってあげるよ。」 「オクルて?」 「車。私が買って、あなたに贈ります、って言ってるの。」  私は「買ってあげる」という言葉がどうしても好きになれない。 それが何故なのかは自分でもよくわからない。 控えめな女の振りをしているからかも知れない。でも、自分の心の中には本心本音から「何々をしてやる」というスタンスを嫌う部分も確かにある。 「ホンマに!?」 「うん。だから新車にしようよ、ねっ。」 「ううん・・・そやけど・・・車やで?」 「大丈夫よ。」 「・・・。」 何で考えこむのだろう。 もしかすると、車は欲しいけれど、それでこの「馬」を潰すようなことにでもなったら事だ、と考えているのではないだろうか。 「インサイダー取引って知ってる?」 私はにっこり笑いながらテーブルの影に身を潜めるように前屈みになって言った。 「?」 「インサイダー取引。」 インサイダー取引を知らないわけではないらしい。たぶん、私の余りに唐突な質問の意を解しかねているのだろう。 「それよ。私の仕事は。」 「インサイダー取引は知っとうで。そやけど・・・。」  「そやけど犯罪やで、それは。」と宇響が言おうとしているのを見て、私は彼が本当に「インサイダー取引」を理解していることを知った。 「大丈夫、私自身が取引してるわけじゃないから。ただ、伝書バト見たいなもんだから。私のしていることは。」 「ホンマにぃ?あかんでぇ、自分やったダメよ。」 「大丈夫だよ。私はお使いしてるだけだもん」 「気ぃつけよぉ、ホンマ。」  私は自分で自分のウソに驚いた。 宇響には沢山のウソをついてきたが、今回は何だか勝手に、口からウソの玉が福引きのようにこぼれて出てきてしまった。 今のウソの出所は「課長 島耕作」だ。大会社の取締役たちがインサイダー取引をするのに、愛人を使ってマネーロンダリングならぬストックロンダリングとでもいうようなことをやるのを、もう何年も前に読んだ記憶がある。 何かわからないけれど何か怪しいものに縛られている私。 子どもがいるのに一緒には暮らせない私。 何もすることなく日がな一日成城のお屋敷でぼーっと、その時のために待機している事が仕事の私。 なぜか湯水のように湧き出る金はインサイダー取引の片棒を担いでいることで稼いでいると言う私。 このウソで宇響の中にある虚構の私が仕上がった。 なぜ、こんなにウソは膨れ上がってしまったのだろう。私は一体、何を考えているのだろう。 でも、今日のウソに何の悪意もない。 私はただ「大丈夫。私にとって、あなたが欲しい車の一台ぐらい、どうって事なく即金で買えるのよ。だから、心配も遠慮もしないで。」と、伝えたかっただけなのだ。 「わかった。気を付ける。だから、車、新車で見に行こう。」 「うん・・・そうやねぇ。わかった。ありがとう。」  約束してしまった途端、今度は私が不安になる。 宇響が欲しい車とは、いったいどんな車なのだろうか、いくらするのだろうか。 もう、ここまで来たら引っ込みはつかない。  この日の会計。六十六万円。チップ三万円。 六月二十八日(金)  池袋でママに増資分の一千万円から今月の利息三十万円を差し引いた九百七十万円を渡してから私はアマンに向かった。 「あさってな、ガッツのセールあるんやけど行ってみる?」 「ガッツって?神戸の?」 私が神戸のおみやげに泰雅のシャツを買った並行輸入店だ。宇響は結構気に入っているようで帰省すると必ず立ち寄ると言っていたが、どうという店ではない。 「こっちに支店あるの?あそこ、小っちゃいじゃない。」 「支店やないけど、ホール借り切ってフロア中にブランドもん出すのさ。あそことは全然規模がちゃうで。」 「そうなの。じゃあ、女物もある?」 「あるある。寝具、食器、靴、小物、とにかく何でもあるで。多分。たぶんやで。少なくともいつもはそうやねん。」 「ふうん。じゃあ行こっか。」 「それでさあ、そのあと車見に行きたいと思てるんやけど、ええかな。」 「いいよ。」 ― ガッツは撒き餌? そうは思うが、私があっさり「いいよ。」と言うのを聞くと、宇響は本当に嬉しそうに、そして安心したように笑い、急にはしゃぎ出す。 ― かわいいなあ。  私は、彼の強面の顔にはアンバランスな笑顔に思わず見入ってしまう。 前週、車を買うと約束して、私はもうそのためのお金を用意していた。  一時払いの生命保険を解約すればお釣りが来ると思っていたが、呆れたことに私はこの二ヶ月間に一回百万円ずつ十五回、計千五百万円を取り崩していた。 結局のところ、手数料やこれまでの借入に対する利息などを差し引きすると、私の口座に振り込まれたのは千二百五十五万円だった。  店を出て、二人でタクシー乗り場に向かって歩いていると宇響が言った。 「ホテル、行く?」 「いいよ。」  周りにいくらでもラブホテルがあるのに宇響は携帯を取り出すとヒルトンに予約を入れた。  今、これから行くホテルを予約するというのは私にとって初めてのことだった。 ― 東京のホテルに泊まるのって大学受験の時以来?かな。 違う。私が大学生の頃にセンチュリーハイアットの「お正月プラン」を家族で利用したのが最後だ。 ラブホテルならこれまでにも行ったことはあるが、シティホテルに男と泊まるのは初めてのことだった。 ― 携帯にホテルの電話番号が登録してあるんだ。 そう思うと少しだけ悲しかった。 ― あさってはいよいよ「車」だもんね。留めを刺しておかなくっちゃってとこなんだね。    この日の会計。六十七万円。 六月二十九日(土)  アマンに行く少し前まで付き合っていた土建屋の社長が、お見合いパーティーを主催するから来ないかと誘うので顔を出してみた。  三カ月ぶりに会うので少し驚かせてやろうと私はドルチェ・アンド・ガッバーナの純白のスーツを着ていった。  神宮の貸しパーティー会場の受付で彼は私を認めるとびっくりした。 「オマエ!?いやぁ~お前、本当にきれいになったなぁ。何だよ、いい男でも出来たのか?」 「別に。男がいたらお見合いパーティーになんか来ないわよ。」 「それもそうだな。いやあ、でも見違えたよ。こうやって真ん前で見ててもお前だって思えないもの。いや、お前なんだけどさ。でも、全然違うんだよな。」 ― 当たり前じゃない。一体、いくら投資してると思ってるのよ。それに男は本当にいないけれど、恋はしてるもの。  彼の絶賛はさらに続き、心地よく響く。 ― 宇響は何も言ってくれないけど、あたし、やっぱり綺麗になってるんだ。  パーティーは実に退屈でつまらなかった。  いや、違う。 ホストクラブに通う私には、もう、日本人の当たり前の男のすることの一から十までが気に障る。 姿勢が悪い、スーツがくたびれている、ワイシャツの襟が汚れている、ネクタイの先が毛羽立っている、靴が汚い、鼻毛が伸びている、口が臭い、ドアを押し開けて自分が通れば後ろも見ずに手を離す、バイキングの料理に同時に手を伸ばせば平気で自分が先にトングを取る、背を屈めて料理をベチャベチャと食べては口の周りをトマトで真っ赤にする、ものの挟まった歯を見せながら大口を開けて笑う、フケが肩に落ちている、女を立たせたまま自分は当たり前のように座り続け面白くもない話をし続ける。  メキシコから帰ってきたばかりの私が耐え難く感じていた不快さが久しぶりに蘇った。  もっとも、そこにいる男たちの目には、千趣会やニッセンの通販衣料か、せいぜいDCブランドでフェミニンに装う女たちの中で、私だけが場違いに浮いて見えたに違いない。  土建屋の社長だけは、今日は主催者なのでものすごく忙しいがぜひ二次会まで残っていて欲しい、二人で飲みに行こうと私のところに合間合間に来ては言っていたが、つまらないので私は途中で帰ることにした。 ― 私、もうホストじゃないとダメかも。そうでなければ外人。  急に宇響に会いたくなった。私は店に電話をした。 「はい、宇響です。」 「もしもし?今から行ってもいい?」 「っていうか、誰?」  そういうつもりはないのだろうが、吐き捨てるようなトーンで言われて私はかなり傷ついた。 ― 声でわからないの? 「陽子。」 「ようちゃん?どないしたん、珍しいやん。」 「急に行きたくなっちゃった。忙しい?今から行っちゃダメ?」 「何かあったん?」 「別に。そういう訳じゃないけど・・・。」 「ええよ。来たらいいさ。今、どこ?」 「神宮。246。」 「わかった。店着いたら電話して。」 「店に着いたら?」  店に着いたら電話するという意味が私には理解できなかった。店に着いたら中に入ればいいだけの話なのではないのだろうか? 「タクシーで来るんやろ。そやから傍まで来たらもっかい電話ちょうだい。」 ― いっぱいお客さん来てるのかな。迷惑なのかも。ヘルプのやりくりとかするからかな。  私は一人で勝手に遠慮し、一人で勝手にイラつく。大枚はたくのにどうしてこんなに遠慮する必要があるんだろう、と。  予想に反して宇響は忙しそうでもなかった。私が行くと席からまったく離れず、殆どマンツーマンで座ってくれていた。  もっともヘルプがトシちゃん一人しか来ないというのは初めてのことだった。店全体が本当はてんてこ舞いなのだが、明日の車のことがあるので何とかやりくりして自ら私のところに座り続けているのかも知れない。 「明日、新宿に昼前ぐらいにしよか。そしたらオレ、今日はもう早く帰るわ。」 「いいよ。わかった。だいたいそのぐらいのつもりでいるから起きたら電話ちょうだい。」 「そうするよ。」  それにしても。 さっきの烏合の衆に較べ、なんといい男なのだろうか。 トイレに歩いていく後ろ姿さえも美しい。ちょうど、頭のつむじの部分を空から糸で吊されているような姿勢で歩く。 タキシードデーに店に来たのは初めてだったので、それがさらに新鮮だった。  ちょっと顔が見られればいいやぐらいの気持ちで行ったのだが、忙しいのにずっと座ってくれたので奮発することにした。  宇響に言うと、ラトゥールの八十六年ものを選んで持ってきた。 周りの喧噪はさておき、マオ・カラーの宇響と二人きりで極上のワインを飲むのは本当に楽しかった。私はつまみにもフルーツや珍味とわざと値の張るものを頼んだ。  この日の会計。四十五万円。 六月三十日(日)  どうせ朝になったら起きられないくせにと思っていたが、意外にも宇響からの「起きたよコール」は十時前に入った。 宇響にとってこんな時間は深夜も同然で、今日はやっぱり特別なのだろう。  私は慌てて身支度を整え、十一時に宇響を迎えに行った。 二人が出かけるのに、私が車を出すのはこの日が初めてだった。 自分の車が何の変哲もない白いストリームであることはイヤだったが仕方ない。むしろ車種については珍しくウソをついていなかったことをラッキーだと思わなければならないだろう。 もっとも、国産大衆車に乗っている理由については 「私、運転すごく下手なの。しょっちゅうぶつけちゃうし。だからいい車に乗る資格がないの。」 と、店で繰り返し説明していたが、これはウソ八百だった。 私は運転が下手ではない。上手いかどうかはわからないが、特に下手ということはないだろうし、何よりも運転することが大好きだった。しょっちゅうぶつけてしまうなどというのはまったくの作り話だ。 何につけ「何だかぼ~っとした、頼りない、独りにはしておけない女」であることをアピールしてきた。 本気なのか、迎合しているのかはわからないが、泰雅は 「ようさん、ストリームって感じしないっすね。ワゴン車ってイメージないもん。」 と言っていた。それは私のイメージ作りが間違っていない事を確信させる嬉しい誉め言葉だった。 本当の私は子ども二人と犬を乗せてキャンプやスキーに行くのだ。セダンになど乗ったことは無いし、四輪駆動はマストアイテムだった。  喫茶ボアの前は新宿駅東口の大きな横断歩道だ。 私は遠慮がちに車を縁石に寄せると店内に走りこんだ。 携帯で予め聞いておいたとおり、宇響は地下の一番手前にこちらを向いて座っていた。 「おまたせ。」 「おはよう。」 「車あるから、すぐに行こ。」 「なんか飲まんでええの?」 「飲みたいけど、停めておけないよ。」 「大丈夫やろ。」 「いやよ、交差点だもの。横断歩道にかからないように停めるのが精一杯だったの。」 「ほな、行こか。」 ほんの二分ばかりのやりとりだったのに車内はもう熱くなっていた。 「どこ?」 「有楽町。」 言いながら宇響はダイレクトメールを私に見せる。ガッツのセール会場は有楽町の交通会館だった。私は一瞥して、そこがひと月ほど前に子ども服のセールで自分が行ったところだとわかった。 つまり、そこはそういう場所なのだ。セカンドクラスものを一気に売るための。 「行き方知ってる?」 「いやあ、わからんなぁ。ナビつけたらええんちゃうん。」  目的地には三十分とかからずについた。日曜日の午前中は本当に道が空いている。  会場の入り口で宇響は陽子の方に向き直ると言った。 「適当に時間たったら捜すわ。携帯持っとうやろ。」 「うん。」  こんな普通の場所で、どうしてこんなに優しい目をしているんだろう。どうしてこんなに優しい声で語りかけるんだろう。 この目で見つめられ、この声に包まれると、愛されているような錯覚に陥ってしまう。世界の中で自分一人だけが彼に守られているような気がしてしまう。 私は頭の中の妄想を振り払った。  二、三十分経っただろうか。全身ヒョウ柄のスーツを試着していると、宇響がやってきた。 「どう?」 「派手やろ、それは。どこで着んねんっちゅう話や。」  少なからずショックを受けた。自分ではかなり似合っていると満悦していたのに。  自分だって、こんなに大胆なパンツスーツを着こなせるとは思っても見なかった。九割方無理だと思いながらも憧れ半分に弄んでいたら、店員が声を掛けてきたから試着してみたまでのことだ。  昨日も土建屋の社長に驚かれたばかりだが、自分でも鏡の中の自分は別人のように思える。 わずかふた月で何故こんなに変われたのだろう。 ダイエットをしたわけではない、もちろん整形なんかしていない。 しかし、綺麗になった事は自他ともに認めざるを得ない事実だ。無理をして一回り以上も若い男に釣り合う女でいようと思うことが急速に私を磨き上げたのは間違いなかった。  宇響が認めてくれない悔しさ半分で、私はそのパンツスーツと揃いのスカートまで買う事にした。さらに店員に言われるがままにシルクのシャツを色違いで二着、スーツに合うピンヒールを一足。スーツとシャツはヴェルサーチ、靴はプラダ。  スーパーセールであるにもかかわらず、しめて十二万円強になった私の買い物に宇響は驚き、呆れた。 「あっかんで、それは反則やろ。持ってきた現金、全部なくなってしまうやん。」  私は恐縮した。宇響に買ってもらうつもりはまったくなかったからだ。自分で買うからこそ好き勝手に選んでいたのだ。 「親以外の人からものを貰っていいのはクリスマスと誕生日だけ。」幼い頃から親にそう教えられてきた。今や破茶目茶な生活を送っていてもなぜかこんな事だけが盲腸のように残っている。 「そんなつもりなかった。いいよ、だって・・・。いっぱい買っちゃったんだもの。自分で払う。本当にそのつもりだったの。」 「ええよ、買うたるよ。ただ、ちょっとだけ足りへんかもしれんから、そしたらその分だけ払って。」 「でも・・・。ねぇ、ホントにいいよ。ホンッとにそんなつもりじゃなかったの。それならこんなに買わなかった。」 「買うてあげるよ。カードで払おうとしてたんやろ。ようちゃん招待券も持ってへんのにそれでカードやったら全然割引にならんで。一緒に来た意味ないがな。ええから貸して。」  私は場内専用の透明ショッピングバッグを宇響に渡した。  宇響は私が本当に自分で買うつもりでいたことに少し驚いた様だった。彼は初めから今日の買い物は全額自分が支払うつもりで来たのだろう。 「海老で鯛を釣る」とはまさに今日この日のために作られたような言葉だ。 私たち二人の買い物は宇響の手持ちを四万ばかり超えていた。私はその分だけ宇響に手渡した。   駐車場に戻る途中で入った喫茶店には私たちのほかには誰もいなかった。  アイスコーヒーとアイスティーを頼むと、宇響はGジャンの胸ポケットから折りたたんだ雑誌広告の切り抜きを取り出した。 「これやねんけど。」  それは白いベンツだった。 「ベンツ?」  訊ねながら、やっぱりベンツが好きなのか・・・と納得した。 「ベンツって言ってしまえばそうなんやけど。これ、まだ日本には入って来てないねん、正規ディーラーではな。これ、ブラバスやで。カッコええやろ。」 ― ブラバス?でもこれベンツなんだよね、だって鼻の先にイヤっていうほど大きなロゴが入ってるもの。ブラバスっていう種類があるのかな。 私には宇響の話がよく飲みこめなかった。 ― 確かにすっごくカッコいい。ツーシータ―なんだ。ベンツってオジサンの車だと思ってたけど、これはそうじゃないし。  隣に自分が座るとどんな感じになるのかをちょっと想像してみる。悪くない。  切り抜きの写真の下にある価格欄には「お問い合わせ下さい」とだけ書かれている。何とも不気味な表示だ。まあ、どう少なく見積もってもさっき私が宇響に手渡したショッピングバッグの中身の支払いはその百分の一にも満たないだろう。 「これ、値段書いてないね。」 「そうやねん。まあ、オレのカンでは・・・そうやなあ・・・」  ここで値段を聞くのが、何だか彼に懺悔させているようでイヤだった。 「まあ、いいじゃない。とにかく行って見ようよ。でもこれ、まだ実物はないの?」 「それが、あるのよ。あるから売れてしまわないうちに早く行って見たいんよ。日本中でも五台位しか入ってへんはずやねん。」 「ふう~ん。そうなの。」  有楽町から日比谷に抜け、新宿に出る。後は青梅街道をひたすらまっすぐ行き、阿佐ヶ谷にさしかかると道路の右手にイクサイトオートはあった。 スペイン風の赤壁で作られた店の外にも中にもベンツがずらりと並んでいる。そこにストリームを横付けにするのはなんとも嫌だったが、仕方ない。 エンジンを切る前に若い店員が店から飛び出してきた。 「いらっしゃいませ。ご来店ですね。」 「うん。見せて欲しいねんけど。」 「それではお車はこちらでお預かりいたしますのでどうぞキーを挿したままお降り下さい。」  店の外にもなかなかな車が置いてあったが、店内にはさらに選び抜かれた車が並べられていた。どの車も国産車とは較べものにならない厚さで塗装されていることが、私にも一目でわかった。 それらはどれも磨き上げられてぬれぬれと光っている。  私はしばらくの間宇響から離れ、一人で店内を見て回っていた。 宇響の用事につきあってどこかに行くとき、私は必ずそうしていた。並んで一緒に歩いたりはしない。宇響がそれを好まないことをなんとなく肌で感じていたからだ。 店内の一番奥には、宇響の前で作り上げているウソの陽子にぴったりな車があった。とてもコンパクトなのだが国産車にありがちな安っぽさは微塵もない。 八百万円だった。 ― 私も買っちゃおっかな。 「何見てるん。」 「ん?きれいだなあって。」 「あったで、さっき見せた広告の車。」 「どれどれ、見せて。」 ついて行こうとすると宇響が言った。 「無理や。」 「どうして。」 「二千四百万やと。」 ― うそでしょ!? 声を上げそうになるのを奥歯を噛みしめて堪え、平然と言った。 「そうなの?とにかく見せて。」 「こっちやで。」  宇響はある車の前で停まった。 「これ、頼人さんの車や。」  貴婦人のように優雅で美しい車だった。 フロントガラスの側に廻ると、それまで私が見てきた自動車販売店独特のド派手なポップとは全く違った小さな金文字で「CLS500 2368万円」と書かれている。 「これや。」 通路を挟んで「貴婦人」の反対側に、さっき見せられた切り抜きの写真と同じ車があった。 こちらは若く血気盛んな「騎士」のように見える。 SL6.1リッターだと教えられた。何が6.1リッターなのかよくわからなかった。 「なあ、きれいやろ。」 「きれいだわ。」  本当に美しかった。何よりも美しいのは車体を描く曲線。 極限まで無駄を取り除くことこそが美なのだと主張している。人造物にこれほどまでストレートな「美しさ」を感じたのは、初めての事だった。 「でも、無理や。」 「・・・。」 「なあ。ホンマカッコええねんけどなあ、二千四百万は反則やで。」 「・・・いいじゃない。」 「!?」 「買おうよ。」 「・・・。」 「大丈夫だと思うよ。うん。大丈夫。」  「ホンマに?」 「うん。」 「でも・・・これが一杯いっぱいかなあ、諸経費は無理、かも。」 「ほんなら、話、してみる?」 「そうね。とにかく話、聞いてみようよ。」 宇響が先に立って接客用のテーブルに着くと、先ほどストリームの鍵を預かった若い男が来た。 私がどうしようかと迷っていると宇響が自分の隣の椅子を引いた。 「いかがですか?」  言いながら男は胸ポケットで何故か引っ掛かってうまく出てこない名刺入れを焦りながら探る。 「失礼いたしました。秋澤と申します。」  この店には似つかわしくないほどイヤミのない男に私は好感を持った。 「あれ、欲しいんですけどね。」 宇響は半身を翻してSL6.1リッターを指した。 「・・・というか、ここにこれがあるて読んだんで買おう思て来たんですよ。」 「ありがとうございます。」 秋澤は膝の上で手を揃えて頭をぴょこりと下げた。 「色々付けて欲しいもんがあるんですよ。」 「はい。何をおつけしましょうか?」 そう言いながら秋澤がチューンナップカタログを開いて見せた。宇響は一つひとつ丹念に指差しながら説明を求めた。殆どのものは既に装備されていたが、それでもさらに私にはわからない難しい名前の装備を付け加えるようだった。 ― 私、あの値段でも一杯いっぱいだって言ったのに・・・。 「あ、そや。あとこれには載ってへんけどステアリングも換えて欲しいんですよ。」 秋澤は在庫を確認してくるので少し待ってくれと言うと、事務室に入っていった。 「ねえ、これ以外に諸経費がかかるのよ。そんなに上乗せして大丈夫?」 「だいじょうぶやて。こんなん言われるままに払うヤツおらんで。」 ― そうだよね、この人関西人なんだもんね。むこうの言い値でなんか買う訳ないか。 そう思う一方で、自分は一銭だって払う気もないくせに何でこんなにエラそうなんだろうと少し不愉快になる。 「申し訳ありません。ステアリングのほうはこのカタログに載っていないのではなくて、まだ日本に入ってきていないんです。」 「ええ~、ホンマぁ・・・ショックやなあ。」 「あのう、あれですよねえ?ダッシュボード周りと同じ木目調の・・・。」 「そうそう、それなんです。あの方が今付いてるヤツよりだいぶ太いような気がすんねんけど。」 「う~ん、そうなんでしょうかね。ちょっとわからなくて・・・申し訳ありません。」 「今に入ってくるんですか。」 「あ、それは間違いないと思います。よろしければ入り次第ご連絡いたしますので。あとは・・・?」 「う~ん、そしたらさっきお願いしたことだけでいいですよ。」 「かしこまりました。それでは書類を作らせていただきたいのですが、お支払いや納車はどういたしましょうか。」 「支払いは現金で。」 「はい。え~・・・どのように。」 「一括で。ええやんな。」  宇響は途中から私に向き直って聞いた。 「ええやんな。」と言われても、問題なのは一括かどうか、そういうことではない。総額で結局いくらになるのか・・・ということだ。 秋澤は辛うじて声には出さなかったが、宇響の現金一括という言葉に驚きを隠さなかった。 私は宇響の「ええやんな。」で、もう自分とこの若い男の関係はこの営業マンに読まれてしまったのだろうと思うと、悲しく、いたたまれなかった。 ― 仕方ないね。「ええやんな。」のせいじゃない、本当は誰が見ても一目瞭然なんだろうなあ、私たちの関係って。  諦めて私は秋澤に訊ねる。 「う・・・ん、それはいいけど、あの、これ、諸経費とかそういうの色々入れるとどうなるんですか?」 「そうですね、先ほどオプションでご注文いただいたものもありますし、やはり書類を作りながら計算させいただいてもよろしいですか?。」  そう言いながら秋澤は複写式の購入申し込み用紙を開き、電卓を用意した。  一つひとつの項目についてこれでよいかと確認を取りながら本体価格、オプション価格、車庫証明、取得費、手数料、消費税ほか諸経費と、順に書き込んで行く。 「ここまでで二千六百五十二万円になりますね。」  宇響はいったいどんな交渉をする積もりなのだろうか。 「あ、そや!ナビつけてもらうん忘れとった。」 ― ウソでしょ!?もう完全に予算オーバーだよ! 私は唖然とした。 「付けたいのん決めてるんですけどね、あのう・・・何て言うたかな・・・画面の上で、指で直接操作できるんですよ。ホンマきれいなんですよ、画面が。」  宇響が求めていたナビゲーションシステムを秋澤はすぐに察し、パンフレットを持って来た。 「そや、これやねん。どうです、これ?」 「まあ、今出てる中では色々な意味で一番いいんじゃないでしょうかねえ。」 「そしたら、これも付けとってもらえます?」 「かしこまりました。こちら、税抜きで二十六万円になりますので・・・っと、こうなりますね。」  秋澤は再度電卓をはじき、こちら向きに数字を示して見せた。 26,801,580  宇響は笑った。 「ちょっとこれは難しいですねえ。もうちょっとなんとかなりませんかねえ。さっきも僕言いましたけど、現金一括ですからねえ。」 「そうですねえ、ただこの諸経費とかはどうすることも出来ないんですよ。」 「いや、そらそうやと思うんですけどね、そこ以外で削れるとこ、無いんですかねえ。」 「ちょっとお待ち下さい。」  秋澤は席を立った。確かに、この男に値引きの裁量権があるとは思えない。 「大丈夫?」  宇響が私の顔を覗きこむ。大丈夫な訳が無い。もともと車を買ってあげると言った時、私の頭に浮かんでいた金額は一千万、せいぜい千五百万だった。  さっき、つい「買おうよ」とは言ったが、それも二千四百万という値札についての事だ。 ― どうしよう・・・どうしたらいいだろう。どこからお金を持ってこようか。  生命保険を解約したお金のうち九百七十万はもうママに預けてしまった。返してくれとは言えない。こうなったら株しかない。ああ!でも今ぜんぜん売り時じゃないのに!  頭をフル回転させる。 ―落ち着くの!とにかく、あるにはあるんだから。あとはその中で、どれをどうしたら一番損が小さいかをゆっくり考えればいい。何も今、それを決めることはないんだよ。 秋澤が戻ってきた。 「すみません、お待たせして。それではですね、本体価格を一パーセントお引きいたします。それで、ナビにつきましてはサービスで付けさせていただきます。そのほかのオプションは部品代実費のみいただいて、取り付け費用等をサービスとさせていただきます。そうしますと・・・」  言いながら、書類の数字を次々と書き換えて行く。最後に出てきた数字は25,957,500に変わった。 ― つまり、二千六百万か・・・。 「一万円未満は切り捨てさせていただきますので二千五百九十五万円になります。」 「これでキマリすか?」 「そうですねえ。」 「でも、現金一括ですよ。あとひと声っ!どうです?」 半分諦め顔で宇響が笑いながら押す。 「いや、ホント、勘弁してください。本当は本体価格は絶対に引いちゃいけないことになってるんですよ。ただ、お客様のおっしゃるとおり、現金一括という方は大変少ないので、もう本当に特別で一パーセント引かせていただきました。」 「じゃあ、二千五百九十万で!」 「いや、もう、ホント・・・無理なんで。」 秋澤は泣き出しそうな顔で縮こまっている。 彼は決して有能な営業マンではないだろう。 このチャンスを何としても逃したくはないのだ。大袈裟に言うなら、少し自腹を切ってでも、ぐらいの必死な思いかも知れない。 しかし客に押し切られ、上司の許可も得ずに下手な約束でもとりつけては大変なことになる。  私たち二人には秋澤の苦しい思いがすっかり読めた。 「じゃあ・・・しゃあないな、それで。ええ?」  最後の「ええ?」だけは私に向けられている。 「うん。」 「ありがとうございます!!それで・・・本日おいくらか入れていただけますか。」 「じゃあ、おろしてきます。」  まさか、今日、即入り用になるとは思ってもいなかったので、さっきのセール会場で遣ってしまった四万円が今日の私の全財産だった。 「ええやん。今日は一万円でもいい?」  宇響は秋澤に訊ねる。 ― そんな無茶な!?二千六百万円の買い物の内金が一万円だなんて。 「いえ、いいです。私、行ってきます。一番近いATMどこですか?」  私が半分立ち上がって聞くと秋澤はそれを手で制した。 「結構です、一万円で。ただ、残金はどのように・・・?」 「七月四日までに千五百九十四万円振りこみます。で、残りの一千万円は七月末ということでいいですか?」 「ハイ!結構です。」 「引き渡しって、いつごろ出来るんですか?」  宇響が訊ねる。 「そうですねえ。オプションの方揃えるのにどのぐらいかかるかにも依りますが、月末までには間違いなく。」 「そういう意味じゃなくて。月末て言うんは、月末にならないとこちらがお金を渡せないからですよねえ。もし、お金は全部払えるとしたら?」 「あ、それでしたら二週間で。」 「二週間でオプションの取りつけやら手続きやら、そんなんも終わります?」 「大丈夫ですよ、間違いなく。ただ、作業の方は全額納めていただいたのを確認してからでないと取りかかれないものもあるんですよ。」 オプションの取り付けは車体自体に手を加えるような作業が生じる場合全額入金を確認してから取りかかるという。高額部品の取り付けも同じらしい。 それは私にも十分納得できる。需要の少ない部品を取り寄せたり、まして新車に手を加えて「やっぱり買えなくなりました」と言われたら、洒落では済まない。 ― 欲しいんだ。すぐに。  納車を急ぐ宇響の様子に私は思った。その理由もわかっていた。 二週間後、七月十七日には二年に一度の社員慰安旅行がある。宇響はそれにこの車で行きたいのだ。 もちろん見せびらかしたいからに決まっている。別にそれを悪いとは思わない。こんな車、見せびらかすためにあると言っても過言ではないだろう。そして、ほかのホストへの見せびらかしとして、二年に一度の社員慰安旅行以上のチャンスはないだろう。 私だって、買う以上は宇響に見せびらかして欲しい。  でも・・・。無いものは無いのだ。明日早速、株を売りに出せば、四日後には千五百九十四万円は入金できる。残りは月末にママから一千万円返して貰うしかない。ママは言っていた。お金のやりとりは月末の五日間だけ、と。九百七十万円預けたのはわずか二日前だ。どうにもならない。  三人三様の思いで無言になってしまった。 「わかりました。ほな、そうしょう。四日に千五?六百万やったっけ?残りは月末でということで。」 「ええ、そうしたら全額入金を待たずに最初のご入金があったら部品の取り寄せと、作業に取りかかりますね。」  秋澤は手続きに当たって宇響の方で揃えなければならない書類を取りに事務所に戻っていった。 宇響はしょんぼりしている。 私にはその気持ちがよくわかった。 もちろん嬉しいのだ。 二千四百万円という値札を見たときに「無理や」と言ったのは、多分ポーズではなかっただろう。切り抜きの「お問い合わせ下さい」価格がまさかそこまで高いとは宇響も思っていなかったのだ。そして自分ではストリームに乗っている女にこの車の価値を理解しろ、買ってくれというのはいくら何でも無理だと判断した、それが「無理や」という言葉だ。 しかし、一旦手に入るとなったら欲しい。目の前にある車はキーさえ持ってくれば乗って帰ることだって出来るのだ。 欲しいとなったら、今すぐに欲しい。待てない気持ちが私にまで感染してきた。  秋澤が書類を手に戻ってきた。 「あの、やっぱり四日に全額振り込みます。だから、二週間で納車していただけます?」 「!?」  秋澤が驚いている。宇響はもっと驚いている。 「大丈夫なん?」 「大丈夫よ。」  私はママにウソをついてでも渡したお金を返して貰おうと決意した。利息をつけてくれとさえ言わなければママに損害は与えないのだ。何か止んどころ無き事情を考えればいい。 「ホンマに?無理したらあかんで。」  もともと何もかもが無理なのだ。これだけの出資をしておきながら、もろ手を挙げて喜んでもらえないのでは悲しすぎる。 「大丈夫。心配しないで。」  宇響の顔が明るくなる。秋澤は言った。 「わかりました。どちらにしても四日までは何もできませんので、四日のご入金額が決定したらご連絡下さい。」 「そうですね。そうします。」  イクサイトオートを出て、私は宇響を阿佐ヶ谷の駅まで送った。 「ごめんな。無理させるんちゃうん?」 「そうでもない。まるっきり無理がない、って言ったらウソになるけど何とかなると思う。」 「無理やと思たら言うてな。四日まで考える時間あるんやし。」 「うん、わかった。」   六月。 店には十回行った。 店に落としたお金は六百十二万円。同伴、アフターの食事代、チップで三十二万円。神戸での飲み代七十万円。宇響へのプレゼント(スーツ二着、シャツ、札入れ)三十四万円。自分自身の買い物二百五十八万円。
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