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七月
七月一日、私は売り時でも何でもない株を売却して千八百十八万八千二百九十六円を作り、それでも足りずママから一千万円を返してもらった。
「父がボヤを出してしまい、保険金が下りるまでの間私が立て替えるしかない」という大ウソまでついて。
ママがそのウソを信用したのかどうか、それはわからない。
しかし、私の「ペナルティとして一ヶ月分の利息は放棄する」という申し出を断り、翌日の夜、彼女自ら成城の駅まで一千万円を持って来てくれた。
「今回だけって約束して。みんながこれやったら、私、本当に潰れちゃうから。」
そのとおりだろうと思う。
私は心の底から詫びた。
七月三日(水)
昼休み。十二時キッカリに私は席を立ち、いつもの電話用指定席、屋上の給水タンクの前に陣どった。
四角く小さな空から射す日でも、一分もしないうちに肌が音をたてて焦げ出すような感覚にとらわれる。
日灼けするのが怖い私はタンクの前に小さくうずくまった。
「もしもし、トップ証券ですか?楠さんお願いします。」
証券会社の担当者を呼びだす。
なかなか出てこない。
― 昼休みかな・・・。
「お待たせいたしました。楠です。」
「もしもし、佐藤です。」
「はい。お世話になっております。」
「あの、確認でお電話差し上げたんですけれど明日、大丈夫ですよね。」
「はい。確かにMRF口座に入りますよ。」
「MRFに!?」
「はい。」
MRFは証券取引のためのプール口座だ。そこから直接現金を出し入れすることは出来ない。
「え、じゃあ明日は現金にならないんですか!?」
「いえ、佐藤様お急ぎでしたよね。私がMRFに入ったのを確認したらすぐにご指定の口座・・・みずほですよね、みずほに移します。大丈夫ですよ。」
「何時に入るでしょう。」
― アサイチは無理なのか・・・。
急いでほしい。トータル二千五百九十四万円なのだ。ATMではおろせない。ということは何がなんでも二時ぐらいまでにはみずほ銀行にお金を移したい。MRFにお金が入るのが遅くなれば明日のうちに現金化することが出来なくなってしまう。
「そうですねぇ、午前中にはMRFに入金があると思うんです。入金と同時にみずほの方に移すように手続きをしておきますから・・・そうですねぇ一時か・・・遅くとも二時には。」
ギリギリだ。ギリギリすぎる。第一午前中にはMRFに入金があると「思うんです。」では弱すぎる。ダメかもしれない。
でも、これ以上この人を問い詰めても、この人に約束をさせても仕方ない。
「わかりました。じゃあ、とにかく出来るだけ早くということでお願いします。一応明日のうちにみずほから現金で出したいので。」
「わかりました。」
電話を切った。
イクサイトオートでしょんぼりする宇響を目にするうちに、仕方なく四日に全額入金しようと提案した時には、「仕方ないわねえ」ぐらいに思っていたはずの私がわずか三日後の今ではどうだ。
明日四日に全額納め、直ちに部品を取り寄せ、チューンナップし、何としてでも十四日の社員慰安旅行前に納車したいとムキになっているのは、もはや宇響ではない。私自身だ。
宇響の喜ぶ顔を見たいから。
宇響の中の私を不動の位置に押し上げ、そのポジションを絶対のものにしたいから。
全ホストが参加する慰安旅行に私が買った車で行ってもらうことで、宇響の、そして私の虚栄心を満たしたいから。
ムキになる私の原動力の内訳は、どれが何割占めているのだろう。
それは私自身にも測りかねる。
とにもかくにも、まったく自分自身の途方も無いエネルギーには驚かされる。
いつもどおり夜には店に行った。そこで宇響と翌日の打ち合わせをした。
二千五百万以上の金の流れは途中で絶つことにした。これは明らかな贈与だから。そのためにイクサイトオートには現金手渡しで支払うのだ。
税務署がひとたび目を付けたらたちまちバレてしまう稚拙な手段だが、振り込みよりはマシだろう。
私はすべて予定どおり、明日は全額を支払うこと、そのためにボアに二時には来ているように、そして二千五百九十四万円を入れるカバンを何か見つくろって持って来て欲しいと伝えた。
この日の会計。八十二万円。チップ三万円。
七月四日(木)
みずほ銀行新宿東口支店には前の日のうちに電話をしておいた。
ここまで順調に事を進めて来たのだ。行ってみたらおろせないというようなことがあっては困る。
銀行側は了解したが、午前中の銀行が空いている時間にしてくれないかと言ってきた。私はそうしたいところだがそれは無理だと断った。午前中にトップ証券から現金が振り込まれる可能性は低かったから。
電話の相手は途中から副支店長に代わり、それでは二時半にという約束をした。
私は会社に車で行き、午後は休みを取った。
ボアに行くと、宇響は先に来ていてレモンスカッシュを飲んでいた。銀行には一緒に行ってもらうつもりだったが、彼の服装を一目見て私は諦めた。宇響があの、神戸に行った時とまったく同じアンチャン服に白い革のツッカケだったから。
「一人で行って来る。待ってて。」
「危ないんちゃうん?何で?」
昨日だって副支店長からは現金でおろすのではなく、送金するというわけにはいかないのかとさんざん訊ねられた。
どうしても現金でなければならないというだけで、十分訝しがられているのに、いくら私が紺色のおとなしいジュン・アシダのツーピースを着ていても、それを後ろで待っている男がアンチャンでは怪しさは増すばかりだ。
私は簡単に、でもあまり傷つけないように訳を話すと、宇響はあっさりそれを認めた。
「それもそやな。オレもスーツ着てきたらよかったわ。そしたら行って来て。気ぃつけてな。」
「カバン。」
「これやけど?」
宇響が私に渡したのはいつも持っているヴィトンのビジネスバッグだった。
「入る?これで。」
「入るやろ。」
― 別にさ、卑屈になる必要はないけど、なんでコイツはいつでもまるで「当たり前」みたいな顔してられるんだろう。
私はこの四日間の慌ただしさ、ママにはどう考えても眉唾もののウソをつかなければならなかったこと、今日も休みまで取って来たことを思い返した。
服装にも、予告しておいたカバンについても、何の考えも無くフラリと来ている宇響には腹が立つ。
しかし、今言い争っているヒマは無い。
ボアから銀行までは百メートルもない。
七月になったばかりでまだ梅雨明け宣言も聞いていないのに、歩道には陽炎が立っている。暑い。
副支店長が予告したいたとおり、銀行は混んでいた。私は番号札を取り、引き出し用の伝票を捜したが、記入台の上には見あたらなかった。
「すみません。引き出したいんですけれど、伝票はありますか?」
「お引き出しですね。それでしたら、ただいま窓口混んでおりますし、ATMをお使いいただいてもよろしいですか?それですとお手数料もかかりませんし。」
私は、どこの銀行に行っても必ず訳知り顔で寄ってくるこの案内係が大嫌いだ。大した知識も権限も無いクセに、やたらと仕切りたがる。
ワザと突っ慳貪な口調で嫌みを言ってやった。
「二千五百九十四万円を?ATMでおろせるんですか?」
「!?ちょっと・・・。それだけ現金をご用意できるかどうか、確認して参りますね。」
「昨日のうちに電話してあります。副支店長とは二時半にお約束しています。」
「そうですか。それではこちらをお使い下さい。」
案内係は引き出し用の伝票を差し出した。
― 失礼しましたぐらい言いなさいよ。だから初めっから伝票はどこですかって聞いているんじゃない。
十分も待たないうちに番号案内のアナウンスに呼び出された。
番号札と一緒に伝票とパスポートを差し出し、聞かれるのが嫌なのでこちらから言った。
「昨日のうちに副支店長とお約束してありますので。」
「わかりました。少々お待ちいだだけますか?」
かなり待たされた後、窓口の女性は私を小部屋に招き入れた。
「数えられますか?」
袋の中を覗くと、帯封がかけられた一千万円の塊が二つ、百万円の束が五つ、そしてバラで九十四万円が入っている。
街金でもあるまいし、ちょっと抜いてあるということもないだろう。私が数えるよりも機械の方が遙かに精度は高い。
「いえ、見ましたから。結構です。ただ、これではカバンに入らないのでちょっとここ、お借りしてもよろしいですか?」
「どうぞ。」
私は紙袋から金を取り出し、カバンに移し替えた。
カバンは実にみっともなくパンパンに膨らんだ。留め金をかけると壊れそうだったが、壊れたら壊れたまでのことと力任せに上から押した。
指先にはさっき感じた宇響への苛立ちが今もまだ残っている。
わずか百メートルを歩いて戻るのにも緊張する。
二千五百九十四グラムは思ったより重い。
銀行からつけ狙われて引ったくられれば終わりだし、かといってビジネスバッグを抱きかかえていれば、「これは貴重品ですよ」と言っているようなものだろう。
無事、ボアに戻ると三時を回っていた。
「行こう。」
「なんか飲まんでええの?」
「いいよ。行こう。」
このお金を一刻も早くイクサイトオートに無事届けたかった。
車の中から秋澤には今から行くと伝えた。秋澤は私の車を認めると迎えに飛び出してきた。
この間と同じ応接セットに座り、現金をテーブルの上に載せた。
「いやあ・・・。本当、初めてですよ。現金を持ってこられたお客様は。」
きっと彼にも私たちがお金の流れを見せたくないと思っていることはバレている。
もっとも、ここに並んでいる車を買う人間の中には、私たち以外にもワケアリの人種が多そうだった。
秋澤と、もう一人の経理担当者が全額数え終わるのには一時間以上もかかった。
デニーズで待っていると宇響の携帯が鳴った。
「お待たせいたしました。確かにございます。」
戻ると、既にテーブルの上に現金はなく、領収証が作られていた。
「大変お待たせいたしました。確かに二千五百九十四万円ございましたので、これは先日お預かりした一万円を合わせた二千五百九十五万円分の領収証です。お確かめいただいて問題が無ければ、先日の預り証はこちらにお返し下さい。」
宇響は一読するとそれを懐に入れ、反対に先日受け取った一万円分の預り証と、この四日間で揃えた書類を秋澤に渡した。
二人の間で細かい打ち合わせが始まったので私は車を見に立った。
しばらくすると宇響が呼ぶ。
「お~い。行くよ~。」
私たちを見送りながらもう一度秋澤が言った。
「ありがとうございました。それでは間違いなく十四日に納車いたしますので。」
まるで立位体前屈の測定のような姿で彼は礼をしていた。
七月九日(火)
ゴルフのレッスン。
ここにタクシーで来るのは今日が最後だねと言い合った。
「今日さぁ、ちょっとだけ店寄ってくれへん?」
レッスン帰りに店には行かないと私は心に決めていたが、今週は水曜日も金曜日もはずせない用事があった。
― じゃあ、今週は特別ね。
店では日曜日の納車の話、社員旅行にはその車に泰雅を乗せて行くという話で盛り上がった。
さらに、社員旅行では写真を撮ったらすぐに引き上げ、宇響と泰雅は私の別荘へ来ることになった。 ~正確に言うと「私の別荘」ではなく、「私の祖母の別荘」なのだが~ そして、その翌日にはラウンドしようということになった。
宇響のコースデビューだ。
たった二回のレッスンで、まだやっとグリップとスタンスを覚えたぐらいなのに果たしてコースに出ても大丈夫なものだろうかと少し心配だったが、まあスリーバッグ、しかもこの身内だけなのだから何とかなるだろうと思い直した。
― ああ、いよいよ納車なんだ!その車で宇響さんと泰雅クンが社員旅行に行けば、きっとほかのホストも宇響さんの車を見るよね。誰が買ったのかわかってくれるな。そうして伊豆に二人が来るんだ。久しぶりだからなぁ、先に行って掃除しなくっちゃ。温泉にも行きたい。それからゴルフ。あっそうだ!ウェアやクラブも買ってあげなくっちゃ。宇響さんだけじゃなくて私も。私のウェア古いし・・・。美味しいものも一杯食べたいなぁ。
体中がワクワク感で一杯になる。
いつになく酒が進む。それは宇響も同じだった。
この日の会計。八十九万円。チップ、三万円。
店を出てからみんなでボーリングとゲームに行き、掛けに負けて五万、それからバーで二万円。
七月十四日(日)
納車。
前の日の夜の電話で引き渡しは午後一時だと言われた。
「うまくいって、よかったね。来週見せてもらうのすごく楽しみにしてる。」
「え?一緒に行こうよ。」
私は引き渡しに一緒に行くつもりはなかった。「お金さえ出してしまえば私の役目は終わり。あれはもう、あなたのものですよ。」ということを示したかったからだ。半分は本心から、半分はポーズとして。
「一緒に行ってもいいの?」
「当たり前やん。ようちゃん以外の誰乗せんねん。」
「ホント?うれしい。じゃあ、あたし電車で行くね。」
「わかった。そしたら、向こうでな。一時やで。」
私は昨日買ったばかりのリゾートウェアを着、新しいバーキンを持って行くことにした。
* * *
一週間前の土曜日。私はふらりと成城の店を覗いた。
小振りのエブリンでちょっと変わった柄のものが棚に飾られていた。
「珍しいでしょう?」
「ええ。オレンジとか、この間私が買ったのなんかはよく見ますけれど、柄物ってあるんですね。」
「ダルメシアンって言うんですよ。」
確かに「百一匹わんちゃん」の柄だった。
「おいくらですか?」
「二十四万八千円です。」
「この間のより小さいのに高いんですね。」
「この間お買い求めいただいたものに較べるとかなり手に入り難いんですよ。でも、この間のが茶系で、これは白と黒ですし、少し遊びの要素があるから使い分けにはいいと思いますよ。」
上手な勧め文句だ。確かにこれまで人が持っているのを見かけたこともないし、内側に何の仕切もないエブリンだから小さい方が使いやすいかも知れない。
私はすぐに買うことにした。
エルメスオレンジの箱を棚から下ろし、白手袋をはめながら、さらに店長は言った。
「佐藤様、今度もっと珍しいものが入りますよ。」
「何ですか?」
「ブルージーンのバーキン。四十センチです。ブルージーンも珍しいけれど、四十って言うのがまた珍しいですよね。」
「おいくらですか?」
「う~ん。今まだ税関通ってないんで税金がいくらになるかによっても変わって来るんですが、だいたい百八十万から九十万ぐらいでしょうね。」
度肝を抜かれた。クロコでもオーストリッチでもないに二百万近くする。
― ブルージーンってどんなのだろう?ジーンズ地で出来てるのかな。でも、布製だったら百何十万もしないよね。だいたいケリーとかバーキンとかで布製なんてあるのかな?
「ブルージーンのバーキン」というものが珍品であることは周知の事実だと言わんばかりに店長が言うので見栄っ張りの私は何も聞けない。
「入ってきたらお取り置きしておきましょうか?」
「え、でも買うかどうかわからないし。そんなに珍しいもの内金も入れずにおいて置いていただくのはまずいでしょう?」
「いや、全然構いませんよ。でも、入ったらすぐご連絡を差し上げますので二、三日うちには見に来ていただけますか?」
「それなら、ぜひ。」
その「ブルージーンのバーキン」が入ったと昨日電話が入った。私はすぐに見に行った。
ブルージーンというのは布製なんかではなかった。
艶消しのトリヨンクレマンス地全体がエルメス独特の水色で、表縫いのステッチがすべて白糸だから「ブルージーン」なのだった。
美しい。私が持っている濃紺のオータクロアに較べると、このバーキンはぐっとカジュアルだ。それなのに何とも言えない品がある。
これからの夏、Tシャツにジーンズ、ミュールでこのバーキンを下げたらどんなに素敵だろう。
しかし、百八十五万円だという。さすがに躊躇する。
ただ単に高いというだけでなく、カバン一つにそんなお金を使うのは、何かもう道を外れているような気がする。人としてやってはいけないことのような気がする。
そもそもエルメスのカバンがどれも高いのはその希少価値に依るだけのものだ。希望通りのものをオーダーすれば十年近く待つことさえある。それが嫌で誰もが大枚をはたくが、ケリーの正価は二、三十万円、バーキンだって五、六十万円なのだ。
四十センチという大きさも気になる。私は身長が百五十二センチしかない。手足が長く、背もすらりと高い今の女性が持つのならいいかも知れないが、試しに腕に通した私の立ち姿は何だかカバンが歩いているようだ。
私は止めることにした。お金の話をするのは嫌だったので、私の体には大きすぎる事を理由に。
「でも、佐藤様は三十五センチでしたらオータクロアをお持ちですし、これでしたら一泊旅行にも行けますよ。機内持ち込みにも便利ですし。外縫いなので中が広いんですよ。」
「機内持ち込み」という言葉にちょっとくすぐられる。
店長は言いながら中に詰められているクッション材を取り出してその大きさを見せてくれる。
「今朝方、櫻川様も店頭でこれをごらんになって売約済の札にがっかりしておられたんですよ。」
この言葉が私の虚栄心を一気に燃え上がらせた。
櫻川様というのは横綱の妻である櫻川美紗子のことだ。彼女が時々この店を覗いていることは知っていた。あの彼女が、私のために店長がつけてくれた売約済の札にがっかりしていた!?
「そうですか・・・。せっかくのチャンスなんですね。じゃあ買わせていただきます。」
近頃の買い物で、もうさんざんカードを使っていて、百八十五万円全額をカードで切ることは出来なかった。私は向かいの銀行に行って百万円をおろし、残りをカードで支払った。
ここまでくればもう同じだ。私はマックス・マーラのリゾートワンピースも買った。白地にいかにもイタリアらしい風景画が群青色に描かれている。ひらひらと頼りない生地と透け感が盛夏にぴったりだった。
* * *
あまりにも暑いのでイクサイトオートに電車で行くのは止めにした。ワンピースの背中が汗で抜けたらみっともない。しかし、タクシーはなかなか来なかった。
十分ほど遅れて行くと、宇響は店の外で車の説明を受けていた。
この車は標準仕様では五千五百CCだが、それをBRABUS社の改造で6.1リットルにしている。ナンバーが品川330 う ・・61なのはその排気量に合わせたものだ。車好きはそうするものらしい。
「う」は偶然だという。宇響の「う」なのかと思った。彼はこの偶然をとても喜んでいた。私も嬉しかった。
改めて美しい車だと思った。
買おうと決めた日にも、お金を払いに来た日にも美しい車だとは思ったが、いまこうやってエンジンをかけ、路上に置かれてみると命が吹き込まれたようだ。エンジン音は深く地響きを立てる。
その横に立って説明を受けている宇響も、車との相乗効果なのかいつも以上に素敵に思える。
一通りの説明が終わると、秋澤は言った。
「お乗りになっておわかりにならないところなどありましたら、いつでもいらして下さい。ステアリングと日本語の説明書は入り次第ご連絡いたします。それ以前に千キロ点検になるかと思いますが。お問い合わせはお電話でも結構です。いつでもお待ちしております。」
「わかりました。ありがとうございます。そしたら、また色々聞くこととかあると思いますけど。そん時はよろしくお願いします。」
「はい、お気をつけて。」
宇響は私の方に向き直ると
「乗ってええよ。」
と言った。
ドアが重くて開けにくかった。と、いうより、どこかにぶつけでもしたら大変だと思うと緊張する。
女には、特にスカートをはいた女には実に乗りにくい車だった。座席が極端に低い位置にある。私はお風呂に入るような形で乗り込んだ。せっかくマックス・マーラのヒラヒラでキめてきたのだから、エレガントに両足を外で揃えてスルリと体を回して乗りたかったのに。
宇響が横に座った。
「この車な、キーで回さんでもエンジンかかるんやで。ホラ。」
言いながらシフトレバーに付いているボタンを押すと本当にエンジンがかかった。そのほかにも無数にある装備のうちいくつかを私に教えた。
宇響が車をそろそろと動かす。助手席に座っていても、車全体の重量感がシートから伝わってくる。
縁石を上り下りして公道に出るとき、宇響がまた何かボタンを押すと視界が少しだけ変わるのがわかった。
「空気抵抗減らせるように車高が低いやろ。そやから、段差を越えたりするときのために車高が五センチ上げられるんよ。」
秋澤はまだ、見送っている。あの男にとっては初めての大仕事だったに違いない。
青梅街道を走り始めて百メートルも行かないのに宇響は車を端に寄せた。
「?」
「実はちゃんとCDもMDも持って来てるのよ。カワイイやろ。そやけど秋澤さんずっと見送ってくれとったからな、早よ出んと悪いな思て・・・。」
照れくさそうに自分で「カワイイ」と言いながらMDを入れる宇響を私は本当に可愛いと思った。B’zだった。
「こういう車に乗るときは洋楽の方がカッコエエなぁ。でも、しゃあない、今日はないねん。」
私は、本当はオープンにして欲しかった。
一つ前のタイプでは、天蓋を手で外して家において置くしかなかったが、この車はわずか十六秒で全開になり、折り畳まれてすっかり収納されるという。
オープンにして、世界中の人にこの車と、この車に乗っている宇響と、その横に座っている私を見せたい思いだ。
― 見てみて~っ!素敵でしょう!この車、私が買ったの!私がこの人にプレゼントしたのよ!私、この人がダ~イ好きなの!素敵でしょう!いい男でしょう!でもダメよ、私のものよ。ワタシのものだからね!
心の中で叫ぶ。
新宿に着くまでの間、宇響は車についてさらに細々と説明してくれた。
彼がひととおり話し終えるのを待って私は言った。
「私もう、当分店には行かれないな。お金なくなっちゃった。」
「大丈夫やて。店行ったら飲んでへん、ええ酒なんかゴロゴロしてるんやから。オレがいくらでもタダで飲ませてあげるよ。心配せんと来たらええねん。」
「そう?」
ヒルトンでお茶を飲んだ。私はこの車は十年分の誕生日プレゼントだと伝えた。
金無垢のロレックスも誕生日プレゼントとして渡したのにちょっとヘンかな、とは思ったが今度こそ破格だ。
「わかったよ。ありがとう。」
宇響はそう言いながら、相撲取りが賞金を受け取る時のように片手で二回礼をした。
七月十六日(水)
社員慰安旅行。
約束どおり、宇響と泰雅は熱海のホテルでの記念撮影を終えると伊豆の別荘にやってきた。
この日、私はずっと使っていなかった別荘の掃除のために朝一番で先に来て、隅から隅まで掃除し、三人分の布団を干し、使うかも知れない食器を全部洗い直し、飲み物や氷を買い揃えて冷蔵庫に入れた。
彼らがついたのは夜十時を回っていた。
私は、「この私」でさえまだ阿佐ヶ谷から新宿までしか乗っていない車に、泰雅が東京から熱海、さらには伊豆までの道をオープンにした助手席に乗ってきたということが少し面白くなかった。
三人でお茶を飲み、社員旅行の話を少し聞いてから私は先に寝た。彼らはそれから面白くもないテレビを見続けていた。急に十一時や十二時に寝ろと言われても眠れないのだろう。
次の日は昼過ぎに起きて、打ちっ放しに行った。
自然の傾斜地に作られた悠に三百ヤード以上ある練習場を宇響と泰雅はとても気に入ってくれた。夜には温泉に行き、ゆっくりとご飯を食べた。
スーツを着ていない彼らと風呂上がりでスッピンの私。
何か不思議な時間が流れていた。傍目に一体私たちはどんな組み合わせに見えるのだろうか。
食後にマスカットが出ると、宇響が
「剥いたろか?」
と聞く。
「え、いいよ。自分で出来るから。」
「フォークで剥くねんで。」
「フォークで?ブドウを?」
ガラスの皿を宇響は手元に引き寄せると、美しい指でマスカットを一粒取り上げた。添えられていたフォークの先をてっぺんの穴に入れて一回転させるとたちまちマスカットはツルリと裸になって皿にこぼれ落ちた。あとの四粒も雑作もなく宇響の手で剥かれた。
私はびっくりした。
「うまいもんやろ。と、言うても何の役にも立たんのやけどな。こんなんできるんホストかホステスだけやで。」
宇響は笑った。
私は、こんなつまらないことでますます彼に惚れ込んで行く自分が怖かった。
私たちは翌日のゴルフに備えて早寝した。
ラウンドはさんざんだった。やはり宇響のコースデビューはまだ早すぎた。それでも平日でコースが空いていたのと、キャディさんが優しい人だったのでそれほど問題なくホールアウトすることが出来た。
私は一三八、泰雅が一〇五、そして宇響は一七二だった。
私はあまりのスコアに宇響がこれでゴルフを嫌いになってしまったらどうしようとそればかり心配していたが、そんなことは全くなかった。
「ゴルフってホンマにおもろいもんやなぁ。もっと早よ始めとったらよかったわ。レッスンがんばろっと。」
と言う言葉が嬉しかった。
七月十九日(金)
紀尾井町のヴェルサーチで宇響のタキシードを、並びのドルチェ・アンド・ガッバーナで自分の洋服を買ってから、西麻布にある六根というおでんやで食事をしてからアマンに行った。
車を買ってから、私たちの同伴もアフターも様変わりした。
ますます自分たちを本物の恋人と錯覚してしまうような日が続いていた。
しかし、この日、私はある決意を胸にして来ていた。
途中でトイレに立つと、泰雅がついてきた。ちょうどよかった。
トイレから出て、熱いおしぼりを差し出す泰雅に向かって私は言った。
「私ね。今日で終わり。もう、来ないから。今日、宇響さんにもそれをちゃんと話すから、もし、アフターでどっか行こうって宇響さんから誘われても今日は上手に断ってね。」
「え!?そうなんすか?え・・・でも・・・。」
「おねがいね。」
私は先に立って席に向かって歩き出し、それ以上泰雅が何か言おうとするのを振り切った。
* * *
この頃、私は店から真っ直ぐ家に帰ったことはなかった。
アフターは実にさまざまだった。
アマンの系列店に行くこともあれば、宇響と二人でバーに行くこともある。それは夜景の綺麗な落ち着いた店の事もあれば、新宿二丁目のゲイバーのこともある。
ホスト五、六人を連れてカラオケや卓球、ボーリングにも行った。卓球やボーリングは必ず賭けてやっていたので、そのあとは賭けの精算を兼ねて必ずみんなで食事やバーに行った。もっとも賭けも支払いも宇響と私だけの間でのやり取りであって、ほかに何人ホストがついてきても彼らは一円も出すわけではない。掛け金も含めてアフターで七、八万円使うのは当たり前だった。
私が新宿を出るのは早くて三時、辺りが明るくなり始めてからということはザラだった。家に帰ったら一睡もせずにシャワーだけ浴びて、子どもを起こし、弁当を作り、駅まで送ってたら自分も出勤する。
仕事は仕事で残業までこなす。
こんな事を一週間に二回も三回もやっているのだから自分でも自分のタフさには驚く。
もっとも宇響の前ではいまだに「成城のお屋敷で独りぼーっと、日がな一日何もすることなく、インサイダー取引の片棒担ぎをするために出番待ちをして暮らしている」事になっているのだから、彼はまさか私がこんなにハードな生活を乗り切っているとは思っても見なかっただろう。
神戸で「スポーツしよう」と誘われてセックスをしてからは、金曜日の店の後にはホテルに行くことも当たり前になっていた。
だいたいは新宿のヒルトンだった。ホテルは宇響が支払うことが多い。
時々、それはお金のない時なのか「今日はラブホでいい?」と聞かれることもあった。ラブホテルでも私は一向に構わないのだが、宇響はラブホテルだと朝まで過ごすということが絶対にない。それが嫌だった。
シティホテルに泊まれば、チェックアウトまで、あるいは延長してでもゆっくり眠り、遅いランチを二人で食べてから別れるのだが、ラブホテルの時は私が眠りに落ちかけると無理矢理にでも起こして帰ろうとする。
泊まって行きたいと言うと、
「こんなところで中途半端に寝たところで疲れがとれへんし、家に帰っからも変に目が冴えて寝られんようなるからイヤや。」
と言ってきかない。
私が泰雅に「誘われても上手に断ってね。」と言ったのは、今日もどこかアフターに行こうということになるかも知れないが、今日は宇響と二人きりにして欲しい、そして今日を最後にもう店には来ないことをはっきり伝えたいと思っていたからだ。
私は恐ろしいスピードで宇響に惹かれていく自分が本当に怖かった。
どんなに好きになったところで相手はホストなのだ。こちらは本気で、向こうは仕事として時間の切り売りをしているに過ぎない。でも、今の自分は宇響に何かしてくれと頼まれたら、それがどんな無理であっても断れないだろう。
頼まれてならまだいい。何も頼まれなくても、宇響を喜ばせるためならば何でもしてしまう自分が怖い。
母からの遺言に目を背けて湯水のように金を遣ってしまう自分も怖い。
こんな事をしていたらあっという間に何もかも失ってしまう。店やプレゼントで宇響にはお金がかかる。しかし、それ以外に「宇響と一緒にいて見劣りしない自分」を作り上げるためにも私は途方もないお金を使っている。
ウソばかりついて付き合ってきたことも負担になっていた。
騙そうとか、何か得しようと思ってついたウソではない。
初めはアマンに来る時だけ本物の自分とはちょっと違う自分を演出して楽しもうと思っただけのことだった。
まさか、週に二回も三回も通うことになるとは思いもしなかった。
やがて、宇響の中での私を神秘に満ちたものにしたいと思ってウソは膨らんだ。膨らんだウソは止まらなくなってしまった。
借金苦で夫と別れたのは本当だった。その元夫が時々金をせびるために電話をしてくるのも本当だった。
けれど、私は「悲しい境遇に耐えている頼りない陽子」にもっと心を寄せて欲しくて、宇響と一緒にいる時に携帯のアラームをセットし、電話を受けて、涙を流しながら夫の無心に受け答えしている独り芝居を打ったことさえあった。
私の狙いは外れてはいなかった。
電話を切って ~つまり独り芝居を終えて~ 携帯を折り畳むと、宇響は私の手をぎゅっと握り
「だいじょうぶ?負けたらあかんで、頑張りや。何かあったらオレが助けたるさかい言うてよ。」
と言ってくれた。とても嬉しかった。
どんなに酔ってもウソは覚えておかなければならない。辻褄が合わなくならないように会話をしなければならない。
私はそのことに疲れていた。膨らんでしまったウソに押しつぶされそうだった。
* * *
私がトイレから席に戻ってほどなく、宇響は別の客のところへ立った。席には泰雅が残り、宇響と入れ代わりに煌聖が来た。
私は最近自分の席に座ってくれるヘルプの中で、煌聖が大好きだった。好きと言っても恋愛感情ではない。よくも悪くも子どものまま図体だけが大きくなったような、失敗談も含め話が面白く、何だかとても人間臭くて暖かい煌聖がいると、とても楽しかったのだ。
煌聖はアフターにもよく付き合ってくれた。
煌聖の顔を見ていると、涙が溢れてきた。
「私ね、さっき泰雅クンにも言ったんだけど、今日が最後。もう、来ない。」
「なんで!?宇響さんには言った?」
「ううん。」
「何でなんで。宇響さん、ヒメが来なくなったらすっごく困ると思うよ。」
「わたしね・・・私ね・・・。私、宇響さんを好きになっちゃったの。本当に好きになっちゃったの。でも、ホストなんか好きになってもどうにもならない事ぐらいよくわかってるの。だから、もう辛いから来ない。」
ウソつきの私だが、この涙にウソはない。
初めは「頬を伝う」ぐらいの涙だったのが、あっという間に私は子どものように泣いていた。
声を上げて、おーんおーんと泣いていた。
「ヒメ、泣かないで。いいんじゃないの?ホストを好きになるお客さんって一杯いると思うよ。こっちだって、お客さんを本当に好きになってしまうことだってあるし。宇響さん喜ぶと思うよ。それに、今、ヒメが来なくなったら宇響さん本当に困っちゃうと思うよ。それはお金遣ってもらうって事だけじゃなくて。宇響さんはすごくヒメを頼りにしてると思うよ。」
煌聖は宇響とはまた全然違った山口訛りで優しく言う。
口下手な泰雅がその隣でしきりにうなずく。
― 本当に?宇響がお金以外でも私を頼りにしている?私は彼にとって金蔓以上の意味があるの?必要な存在なの?ううん、ホストのチームプレーに騙されちゃダメ。決心してきたんじゃない。今まで楽しかったんだし、宇響さんにはもう車だって買ってあげたんだもの。してあげられることはこれで全部終わり。
「でも、もう無理。どんどん好きになっちゃうの。辛いし、悲しいの。もうやだ。」
「そっか・・・。ヒメ、来なくなっちゃうんだ。寂しいな。でも悲しい思いしてるの無理することはないよ、とにかく宇響さんに話しなよ。」
「うん。だから、戻ってきても宇響さんには何にも言わないでね。自分でちゃんと言うから。お別れするから。でも、みんなとも今日でお別れ。ほんのちょっとの間だったけど、ありがとう。すごく楽しかったよ。」
「そんなこと言わないでさ、宇響さんに話せば、また来られる気持ちになるかも知れないじゃない。ねっ。」
「う~ん。どうかなあ・・・。私としてはそれじゃ困るんだけど。決心してきたんだし。」
「・・・。」
「ね、顔、変じゃない?」
「トイレ行って来る?ヒメ。」
「うん。そうする。」
今日で最後なのだ。綺麗な顔でいたい。宇響の前ではもちろん、ヘルプの前でも。
トイレから戻ると煌聖は居なくなり、宇響が席に戻って来ていた。
私が泰雅に頼んだからなのか、偶然なのか、この日はアフターでどこかに行こうという話にはならなかった。
泰雅は宇響がSLを留めている駐車場まで私たち二人を見送りに来た。
店にほど近いタワー式の駐車場で、愛想のいい小さなオジサンは遠くからでも私たちの姿を認めるとすぐに宇響の車が乗ったトレーの番号を押してくれる。
三つ乗せ口のあるこの駐車場で、SLは車幅と車長が大きいため、一番右の大型専用にしか入らない。一ヶ月六万円だ。
白のSLが降りてきて、それに乗り込む宇響を見ながら泰雅が言った。
「カッコいいっすよね。ホンッと、キレイっすよ。でも、これがまた、ムチャクチャ宇響さんに似合うんすよね。」
― 泰雅クンて、この車、私が買ったこと知ってるのかな?ホストってそういう話するのかな?
「そうね。」
何を聞いても悲しい。
何を言っても切ない。
今日で見納めだ。
「ありがとね、泰雅クン。ごめんね。」
「・・・。」
ターンテーブルで向きを変えた車に私も乗り込む。
「おつかれっ。」
と宇響。
「あぃっしたあ~。おつかれぇっす。」
泰雅が返す。
車が鬼王神社の交差点で止まると宇響が聞く。
「ホテル、行く?」
「いいよ。」
― そうだね。最後だものね。
私は宇響とセックスするのがとても好きだった。それには二つの理由があった。
宇響は照れ屋で見栄っ張りなので、ホストとして擬似恋愛に時間を切り売りしている間でも、人前で手をつないだり、腕を組んだり、肩を抱いてくれる事は滅多にない。
でも、ベッドの上でなら別だ。
彼に触れることが出来る。その美しい指に、太い腕に、厚い胸に。
髪だけは嫌がる。もう、今からどこに出かけるというわけでもないのに、髪型が崩れる事だけは絶対に許せないのか、私が髪に触れると背中を反らして逃げる。
もっとも、宇響は私の髪にも、頬にも、胸にも、どこにも触れようとはしない。セックスはしても、私という女を愛おしむ気などさらさらないのだ。
もう一つの理由。それはセックスしているときに宇響が漏らす言葉だった。
「キッツいなぁ。ホンマ、キッツいわ。子どもおるのになぁ・・・スポーツしとったからやろな、ようちゃん。」
「狭いわ、ヤバイ、すぐにイッてしまいそうや。」
「ようちゃん、ホンマに穴ちっさいから、全部入らん。」
夫からはいつもユルいとバカにされ続け、悲しくなるようなトレーニングまでさせられていた私にとって、これほど嬉しい言葉はなかった。
初めはホストが客に言うお世辞なのだ思った。
しかし、宇響とのセックスでは私自身、本当にキツい事を実感できる。
整形したわけでもない私の体がこの数年で変わった筈がない。宇響のペニスが大きいのだ。
神戸以降、その後何度触れても、その都度私はその大きさに驚かされる。それまでに三十人ほどの男と寝てきたし、その約半分は外国人だった私が、かつて一度も出会ったことのないような大きさだ。
あまりのキツさに痛みを覚えるセックスなんて、生まれてこの方経験したことのなかった私にとって、それは物理的なこと以上に精神的に大きな喜びだった。
大好きな宇響に粗マンだと思われるのは悲しい。
「穴ちっさいから」という何とも木訥な言い方も好きだった。そう言われているわずかな時間、自分が本当に小さくて、大切にしなければ壊れてしまうもののように思えて宇響にしがみついた。
「私ね、今日でお別れしようと思うの。」
「・・・。」
「もう、店には行かない。もちろん、外でも会わない。」
「何で?」
本当に眠いのか、演技なのか、宇響は気怠そうに半分寝ているような口調で訊ねる。
「私ね、宇響さんのこと好き。だから。」
「なんで、ええやん?好きなんはええことやないの。」
「でも、辛いよ。宇響さんは仕事だもの。私は本気で好きなんだもの。ホストなんか好きになったってどうにもならないよ。」
「なんでよ、ええやん。女に好きや言われたら男冥利に尽きるで。そやろ。」
「・・・。」
「な~んも、気にすることなんかないさ。好きでおってくれたらええねん。寂しいこと言わんとってよ。」
「好きでもいいの?」
「ええよ。」
何の解決にもなっていなかった。
宇響にとって私に好かれて困ることは確かに何もないだろう。男冥利に尽きるかどうかは別として、ホストをしていれば本気で惚れ込まれる事など日常茶飯事だろう。それをスルリと交わしながら上手に操るのもまた彼らの技量の一つに違いない。
今日、私が決意してきたのは「好きでいてもいいかどうか」などという問題ではなかったはずだ。
店で煌聖と泰雅に涙ながらに訴えた後、私がトイレに行って化粧を直している間に緊急事態は速やかに宇響に伝えられたに違いない。いくら口止めされてもホストのチームプレーとしては当たり前のことだ。
宇響はこの事態をどうやって切り抜けるか、私が切り出すまでの間平静を装いながらも必死で頭を巡らせたのだろう。
でも。
私はそれ以上強い決意を突きつけることは出来なかった。
既に隣で寝息を立て始めた宇響の腕に自分の腕を絡ませて、胸に顔を押し当てて言った。
「好き。」
別れることは出来なかった。
私はこれ以降、どう少なく見積もっても十回以上同じ理由で別れを決意し、その都度うまく引き留められては別れられずに来た。
好きだから。
引き留められてもそれを振り切るほど強くはなれないから。
この日の会計。八十七万円。
七月。
店には七回行った。
店に落とした金額四百四十一万円。
宇響のアイアンセット、タキシード、アスコットタイほか小物で三十八万円。
アフターとチップで四十一万円。
櫻川美紗子が欲しがっていたというブルージーンのバーキン百八十五万円。そのほか自分の衣類、装飾品は五十二万円。
そして、Mercedes Benz SL6.1L BRABUS仕様は二千五百九十四万円。
いくらでもゴロゴロ転がっている筈の「飲んでへん、ええ酒」をタダで飲ませてくれる話はどこへ行ってしまったのだろう。
ずるい宇響は忘れた振りをしている。
見栄っ張りの私は自分からは何も言えない。
私は仕方なくその後も株を売り続けた。山之内製薬株三千百四十円で千株、浜松ホトニクス株二千六百五円で四百株、NTTドコモ株二十七万六千円で三十三株。投資信託の解約百万円分。同じく投資信託の償還金七十九万百八十七円。
ママの信用を取り戻すべく、月末にはこの中からひとまず一千万円を預けた。
一度は宇響に惚れ込みすぎる自分に怯え、財産を湯水のように使い果たしていく自分を怖れていた私が、結局のところ一番怖れていたのは、もう間もなく財産がなくなってしまったら店にも行かれなくなり、宇響に捨てられるのだろうかという事だったのかもしれない。
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