恋、はじめました

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 30歳になったのを機に、婚活を始めることにした。  今の平均結婚年齢は29.4歳。20代を漫然と過ごしてしまったけれど、結婚はしたい。平均年齢を過ぎて、火がついた。  20代の気軽な付き合いにはマッチングアプリが流行しているが、無駄が嫌いな山岸は結婚相談所を利用することにした。無料でも使えるアプリに比べるとお金はかかるが、それだけ真剣に結婚したい人だけが利用しているはずだ。効率は重要である。  比較検討した結果、大手のとある相談所に登録することにした。大手だけあって登録人数が抜きん出ていたことと、数少ない厚生労働省認定機関だったことが決め手になった。  安くはない入会料を支払うと、専属のアドバイザーがついてくれた。南方という女性だ。たいていのことはAIが答えてくれる時代だが、山岸のような30代には生身の人間が味方についてくれるとありがたい。南方は母のように細かく、祖母のように優しく、相談所の使い方や婚活の心構えを教えてくれた。  入会後は、ネットでのマッチングが続いた。条件を指定して検索すれば、対象者の一覧が表示される。  気になった人の個別ページを開くと、写真も載っている。全身とバストアップの3D写真だ。結婚相談所で撮影したものだから、修正を疑う心配もない。  細かい経歴や趣味、生活スタイルなども確認する。  人柄が出るのは、フリーコメント欄だ。あまりに前のめりだと余裕がない感じがするし、文章がうますぎるのも胡散臭い。無難な定型文に、クスッと笑える一文が入ってたりするくらいが、山岸の好みだ。  さらに自己紹介動画や、Webカメラで生活環境の生配信をしている人もいる。この辺りはオプションなのだけれど、各種キャンペーンで無料で利用している人たちも相当数いるから、利用しているだけでうがった見方をするわけでもない。いろいろあって面白いと単純に楽しめる。  山岸も初回登録キャンペーンとやらで、無料で動画撮影をしてもらった。  気になった人はお気に入り登録して、両思いになるのを待つ。  たくさん登録するのも節操がないかとあまりしていなかったら、すかさず南方から連絡が入った。少しでも気になった人がいたら、ブックマークをする感覚で登録した方がいいらしい。  確かに、こちらも仕事をしながらの婚活だから、後で見返そうと思っても面倒になってしまったりする。南方のアドバイスに従って、毎日数人はお気に入り登録することを徹底した結果、何人かとはメッセージを交換するようになった。  挨拶程度で疎遠になってしまう人もいるし、しつこく連絡してくる人もいる。そういう人は、縁がなかったことにして次へいく。  多すぎず少なすぎず、適正にコミュニケーションが取れる人数を保ちながら何人かとやり取りした結果、山岸はとある一人と婚約一歩手前になるまで至り、相談所に呼び出された。 「ご登録3ヶ月で両思いが成立するのは、素晴らしいペースです」  南方は手放しで褒めた。 「こういうものは早すぎても遅すぎてもいけません。早すぎると、もっといろんな人を見ておけば良かったという後悔が生まれます。遅すぎるのは優柔不断がほとんどで、あのとき決めておけば良かったと思うことになるでしょう」 「なるほど」 「ですから、3ヶ月で18万名の候補者から、804名をお気に入り登録し、249名と交際、晴れておひとりをお選びになったというのは、まさに理想的なんです」  褒めて伸ばすタイプなのか、客商売だからなのか、南方は大袈裟に称えてくれる。  悪い気はしない。プロに認められて嬉しいし、これで合っていたのだと初めての、そしてできれば最後にしたい婚活に対する不安感が拭われていく。 「この後の流れですが、実際にデートしていただき、ご婚約となればご入籍までサポートさせていただきます。何かご不安な点はありますか」 「ええと」  躊躇を読み取ったのか、慣れた様子の南方は妙に優しく微笑んだ。  さすがはプロだ。AIより機微がわかる。  山岸の親世代はAIに絶大な信頼を置いているが、揺り戻しなのか、若い世代にはアナログ時代を彷彿とさせる人間のプロフェッショナルに対する期待感が強い。山岸がこの相談所を選んだ理由の一つも、ベテランのアドバイザーがついてくれるからだった。 「山岸様は当相談所では初めてのデートですもの、ご不安なことはたくさんおありでしょう。なんでもおっしゃってくださいね」  山岸のちっぽけな悩みなど、よくあるご質問一覧に載っているような類だろう。  そう腹をくくった。 「では、お言葉に甘えて。恥ずかしながら、お相手とうまくいくか心配なんです」 「気に入っていただけるか、ということでしょうか」 「いえ。そちらもあるんですけど、そもそも私がその人を好きになれるかを心配しています。カメラを通じてお話しした限りでは、好感を持っていますし、条件も申し分ない方です。ただ……」  南方は、タブレットを操作した。 「登録情報には記載されていませんが、もしかして山岸様は恋愛をご希望でしょうか」 「いえ、あの、そういうつもりじゃなかったんですけど……はい」  山岸はしぶしぶ頷いた。  恋愛だなんて、前世紀の遺物だ。幼少期に刷り込まれた創作物が見せる幻影であり、幽霊や宇宙人と同じくらいの、ほとんどフィクションに近いものだと思っている。  ただ、それでも憧れてしまう人はいる。  脳科学者が科学的に解説しても幽霊の存在を信じる人がいるように、恋愛を信じている人は多い。自分には一生関わりがないものだとしても、そこに一種の夢を見るのだ。 「珍しいことではありませんよ、山岸様。ご結婚を前に、恋愛への憧れがあらわになって悩まれる方は多いんです」 「そういうものですか」 「ええ。恋愛への憧れは、結婚を阻む最大の障壁となっております。山岸様がご結婚をご希望される理由は、お子様を安定したパートナー関係の元で養育したいからとありましたが……」 「もちろん、それが一番大きな理由です。私も大学入学を機に一人暮らしを始め、そこからは親元にも帰っていませんから」  進学や就職を機に独立したら、その後は結婚する以外に他人と暮らすことはない。大昔は下宿やシェアハウスなんてものがあったらしいが、一度独立してしまえば家族でもおいそれと会えない現代ではとても考えられないことだ。昔の公衆衛生観念は、ファンタジーよりひどい。  仕事も勉強も遊びも身体的には一人でするのが普通の現代だからこそ、他人と同居する結婚というものは、最もハードルが高く、憧れの強いものなのだ。  結婚しても、どのくらい空間をシェアするのかは家庭次第だし、別居婚も珍しくない。  子どもは体外受精や特別養子縁組もあるし、一人で育てるのが難しければ、一定の検査の後で親元に戻るという手段もある。  けれど、それでも誰かと暮らしてみたい、自分の家庭を持ってみたいと願ってしまうのは、何世紀にもわたって続いた過去の文化の名残なのだろう。 「お相手とWebカメラの共有は?」 「もう3週間、繋ぎっぱなしです」 「でしたら、共同生活に支障はほとんどないでしょう。本日のデートで問題なければ、各種検査の後、3ヶ月後にはご結婚もご同居もできますよ」  ただ、と南方は眉をひそめた。 「潜在的な恋愛願望を持ったままご結婚された場合、離婚率が高いんです」 「そうなんですか!?」 「多くの人が、どうせ恋愛などできないだろうと諦めてご結婚するわけですが、長く暮らすうちに秘めた恋愛願望が露出してくるのです。他の人となら恋愛できたんじゃないか、離婚すれば恋愛できるんじゃないかと、魔が差すケースが多いんですよ」 「おそろしい」  せっかくお金と手間暇をかけて結婚したのに、離婚してしまったら元も子もない。離婚するくらいなら初めから一人で子育てしたいし、どうしても恋愛したいなら結婚などせずに恋愛を夢見ていればいいのに、迷惑なことだ。 「離婚は面倒だと聞きますけど」 「ええ。各種機関への申請だけでも、3年はかかります。それでも離婚するのは不倫を避けるためでしょう。不倫は重罪ですから、恋愛できるかもしれないという一縷の望みのために、離婚をするんです」 「馬鹿なことを」  そうこぼした後に、山岸は気づいた。 「あ……でも、その馬鹿なことを私もしてしまう可能性があるんですね」 「残念ながら、統計的には素質は十分かと」  羞恥に俯いた山岸に、南方は安心させるように微笑んだ。 「お話を伺いました結果、山岸様には特別なオファーをさせていただきたいと思っております。厚労省指定機関が内密に開発した薬のモニターになっていただきたいのです」 「薬?」  急に話が飛んだ。 「山岸様は、どのようにして恋愛感情が起こるかご存じですか?」 「それは……なんとなく気が合うとか、ビビッと来たとか?」  絵本で読んだおとぎ話を思い出す。 「恋をしてしまう理由が、最近になって判明しました。実は、恋愛感情はウイルス感染によって起こるのです」 「ウイルスに感染すると、恋に落ちるということですか?」 「ええ。この恋愛ウイルスに感染すると、特定の相手に対して思考力が鈍り、心拍数の上昇などの身体的変化や、ホルモンバランスの崩れなどが引き起こされます」 「言われてみれば、病気と同じですね」  南方は神妙に頷いた。 「このウイルスに強制的に感染させる薬ができました。それが、こちらです」  山岸は蓋付きシャーレに入った錠剤を見せた。7mmほどの白いカプセルで、市販の風邪薬などと見かけは変わらない。 「これをデートの30分前に飲んでください。お相手の方に恋することができるでしょう」 「相手を間違えることはないんでしょうか」 「この薬の効用は遅効性なので、いわゆる一目惚れは起こりません。数時間、濃厚接触した相手に対して、緩やかに作用します。効き目は穏やかですし、臨床試験は十分に行って厚労省の認可も降りている薬品ですから、心配いりませんよ」 「なぜ市販されていないんですか」 「恋は神秘のものという俗説がありますからね。どのように広報していくか、国も悩んでいるようですが、近いうちに大々的に販売されるようですよ。それに先んじて、弊社のお得意様にだけに特別にオファーしているのです。恋愛に妙な憧れを抱いて結婚を躊躇ったり、果ては離婚したりすることはお客様の不利益に繋がります。でしたら、最初からお相手に安全な形で恋をしていただき、ご納得された上でご結婚されてほしいのです」 「なるほど」  南方の説明には、説得力があった。 「副作用はありますか?」 「特にありません。この試薬の効能は緩やかですから、劇的な恋愛感情に飲まれて短絡的な行動に陥ることも、激しい嫉妬に駆られたりすることもないでしょう。万一に備えて、そうした素質がないことが心理検査によって認められた方にのみオファーしています」  それなら安心だ。 「一度かかれば、二度とかからないものでしょうか」 「このウイルスにはいくつか型があるそうですが、最初にこの薬で罹患すると、他の型も含めて後の罹患率は著しく低くなるという研究結果が出ています」 「結婚してから、また罹患するという悲劇には逢いたくないのですが」 「ご心配はごもっともです。恋愛結婚後に生活が安定すると、罹患しづらいようです。また、思春期をピークとして、年齢が上がるほど罹患率は下がります」  それなら、確かに今が最適なチャンスのようだ。 「治癒したら、離婚したくなるということはありませんか」 「人間は慣性で生きる生き物です。生活に慣れれば、治癒後も結婚生活に支障はありませんから、罹患している間にパートナーと適正な生活スタイルを確立することが重要です。そのためには、初期段階でパートナーと良好な関係を結ぶことが大切で、この試薬はその助けになるでしょう」 「わかりました。この薬、飲んでみます」  薬を飲んだ山岸が意気揚々とデートに出かけた後、南方の背後に年老いた男性が現れた。無論、実際には別の場所におり、ここにいるのは映像だけだ。 「感染症に備えてできた新しい社会様式で暮らす現代人が、喜々としてウイルスとやらにかかりたがるとは皮肉なものだね。簡単に恋を病と同一視したり、いわんや偽薬を信じてしまうとは、人間が退化したとしか思えない」 「生身の人間と関わることはほぼないのですから、濃厚接触した相手を意識して、鼓動が速くなるくらい自然なことでしょう」 「緊張を恋愛感情と錯覚すると?」 「ドキドキは恋の代名詞ですよ」 「ならほど、古典は普遍か」 「元々好感を抱いた相手なんですから、案外本当に恋をしているかもしれませんよ。御省の目論見通りでは?」  老人はやれやれと首を振った。 「恋をするのに偽薬が必要とは、時代が変わったものだ」 「たかがビタミン剤で国民が幸せになるなら、いいことではありませんか。当社にも御省にも利益しかなく、三方よし」 「これはまた古い言葉を」 「時代は変わっても、人間は大して変わらないものですよ」  年齢不詳の二人はほくそ笑んだ。 - 終 -
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