糖質制限法

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糖質制限法

 五年前に施行された「国民の健康促進ならびに高血糖による血管障害他多臓器不全を予防する法律」によって厚生労働省に新設された職制が、糖質取締官だ。法律の名称はいかにも役人の造語っぽい長ったらしいものだったが、誰も正式名称で呼ぶことはなかった。この法律は一般に「糖質制限法」と呼ばれている。 「ト、トトリが、僕に何の用ですか」 「松本さん、あなたの糖尿診断証明書(DMDC)を見せていただけますか」  汀は糖質制限法によって国民に義務付けられている、年に一度の糖尿病診断を元に厚労省が発行する証明書の提示を求めた。  糖質制限法により国民は外出する際、この証明書の携行が義務付けられている。  DMDCのDMとは糖尿病の略で、diabetes mellitusのことだ。DCは診断証明書、すなわちdiagnostic certificateとなる。  DMDCは二型糖尿病の診断証明だ。自己免疫不全でインスリンというホルモンを作れなくなってしまった一型糖尿病は対象外で、その場合は一型専用のDMDCが発行される。  DMDCはA、B、Cの三段階に区分されている。健康体と証明された場合はレベルAで、初期糖尿病と呼ばれるレベルB、真性糖尿病のレベルCの順にランク付けされている。  レベルBの初期糖尿病という名称は、糖質制限法によって、それまで予備軍、あるいは境界型と呼ばれていた患者群につけられた新しい呼称だ。これは、予備だとか、境界だとかいう曖昧な言葉では、自分がまだ糖尿病に罹患していないなどと錯覚する患者が多かったためにそうなった。境界型も予備軍も立派な糖尿病患者なのだ。 「え、いや、それは・・・今日、ちょっと、家に置き忘れてきてしまって・・・」  松本はしどろもどろになりながら、言い訳をした。 「DMDCの不携行には、罰金あるいは、勾留後の拘留が課せられるのをご存知ですね」 「え、ええ」  松本は財布を取り出した。罰金を支払ってこの場を逃れようというつもりなのかもしれない。汀は一万円札を取り出そうとする松本を制して言った。 「ですが、あなたは蕎麦屋と牛丼屋、コンビニで食事ならびに食品の購入をされました。そのとき店側には何を提示したのですか」 「え、いや、あの、店では・・・」  飲食店、食品販売店では、購入者のDMDCの提示が義務付けられている。店側もそのDMDCを確認した上で食品の販売を行う。提供する食品の糖質量が法令で定められた量よりも多かったことが判明すると店側も罰則を受けることになっていた。  DMDCレベルAには糖質制限はかけられないが、レベルBの者が購入や携行のできる糖質量は、一商品につき最大四十gまでで、一回で携行ならびに購入できる糖質総量は上限が百gまでとなっている。レベルCになると購入、携行できる糖質量は一商品につき最大二十gまでとなり、その総量は上限が六十gまでと厳しく制限されている。  家族の食品を購入するにしても、家族のDMDCの写しを明示しなければならない。しかも購入できるのは同居家族の分のみに限られている。他人の分を購入することは禁じられている。ちなみに、うどん一玉(二百g)の糖質量は四十一.六g、食パン六枚切りの一枚(六十g)の糖質量は二十六.六g、ご飯茶碗一杯の白米(百五十g)には五十五.二gの糖質が含まれている。 「松本さん、あなたは昨年の九月に退職していますね。それから再就職をしていない。間違いありませんか」  肥満して、首と顎の区別がつかなくなっている丸い顔がおずおずと縦に振られた。 「会社員ならば、事業主に義務付けられた従業員への定期健康診断に糖尿病診断が組み込まれていますから、DMDCが間違いなく発行されます。ですが、あなたはこの一年間、個人で受診しなければいけない糖尿病診断を受診していません。だから、DMDCをお持ちでないはずです。退職前のDMDCは失効しています」  DMDCは1年ごとに更新されるのだ。  松本の目が泳ぎ始めた。 「店で提示されたDMDCを拝見します」  汀が手を差し出した。松本はおずおずとポケットからDMDCを取り出し、汀に渡した。それを見て汀が言った。 「このDMDCはレベルAになっていますね」  汀の刺すような視線を受け止めきれず、松本は俯いたままでいた。  「この場で簡易測定を実施します」
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