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幾ヶ瀬と有夏はアパートの隣り同士だ。
狭いアパートの一室である幾ヶ瀬の部屋に、有夏が居候しているという形となっているのは、ひとえに彼の部屋が足の踏み場もないゴミ屋敷と化してしまっているからに他ならない。
ただのお隣りさん、ただの友だち、でないことは見ての通りだ。
「好きだよ、有夏。ね、有夏は? 俺のこと好き?」
「有夏は……うっ……」
穏やかな目に見つめられて、有夏はくちごもる。
こんな朝っぱらから好きなんて言えない──明らかに狼狽えた様子で視線が泳ぐ。
「い、いいから早く行けってば……」
「はぁい。いってきまぁす」
「へいへい。いってら」
細腰を撫でまわしながら恋人の肩に顎を乗せる幾ヶ瀬と、宥めるように相手の胸元をポンポン叩く有夏。
幾ヶ瀬は近所にある飲食店勤務である。
「ランチも充実 洋食レストラン」といった紹介文が合うだろうか。
その雇われシェフである彼の、今日は出張の日なのだ。
系列店の新規立ち上げに有名シェフが関わるそうで、視察兼手伝いを命じられたらしい。
「お昼はお弁当作ったから食べて。夕食はお鍋にシチューあるから。パンの場所は分かるよね。ああ、冷たいお茶は冷蔵庫にポットが入ってるよ。温かいの飲みたかったらお茶っ葉の位置、覚えてるよね。スプーン山盛り1杯を急須に入れてお湯を注ぐんだよ。エアコンで冷やし過ぎないようにね。お腹痛くなっちゃうからね。あと、誰か来ても玄関開けちゃ駄目だよ。変な人だったらいけないから居留守使って。それから、昨日言ったこと忘れないでよ。あ、使った食器は流しに置いといて。ガスの元栓に気を付けて……」
連絡事項・注意事項のマシンガン。
うっぜぇわ!
有夏が叫んで幾ヶ瀬の背を押す。
幼稚園児じゃないんだぞと。
玄関から押し出そうとする動きに慌てる幾ヶ瀬。
「待って待って。心配! やっぱり明日まで有夏を1人なんてできな……」
「ハイハイ、幾ヶ瀬がいなくてさみしいなっと。ハイ、お元気で! いってらっさい!」
「有夏ぁ……」
最後に1回だけと顔を寄せる男に唇を許し、有夏は今度こそ幾ヶ瀬の背を叩いた。
浮気しないで待っててねと尚も名残惜しそうな様子を見せながら、幾ヶ瀬はのろのろと玄関から出て、時折振り返りながら廊下を曲がって階段へ消えていく。
この早朝に珍しいことだが見送りに起きたのは、有夏にも多少の寂しさがあったからだろうか。
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