夕景ビートロック2(5月8日 木曜日)

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夕景ビートロック2(5月8日 木曜日)

「おまえのほうからは連絡してくるな」  そう言うと、俺は、少し着崩した制服ズボンの後ろポケットにスマホを突っ込んだ。どこで誰が聞いているかも分からない校内でのことだ。用心しておくに越したことはない。だが話の内容は悪くなかった。あとは自分の目で確かめるだけだ。  連休明けの学校は、生徒も教師も気だるさ全開で、それでも俺たちより少しばかり長く生きている大人たちは、何とか踏ん張って、これくらい何でもないという振りをしていた。俺も大人になれば、あんなやせ我慢見え見えの顔をするようになるのだろうか。こう言っちゃなんだが願い下げだな。  アンニュイな授業が終わり放課後になると、俺は、一人、茶道部部室、通称「離れ」に向かった。茶道部の部室は、平屋建ての日本家屋で校舎とは別棟になっている。かつて「離れ」を部室として使っていた部は、茶道部の他にも、華道部、囲碁部、将棋部、かるた部と結構あったらしい。だが、実際に今、部室利用しているのは茶道部だけだ。もともと敷居が高い上に最近の少子化で部員不足に陥った華道部なんかは、現在休部中となっている。休部といえば聞こえはいいが事実上の廃部だ。囲碁部や将棋部は、他のほとんどの部が利用している部室棟に移った。校舎と連結している部室棟のほうが圧倒的に便利だからだ。かるた部のことは一度も聞いたことがないから、恐らく今は存在しないのだと思う。  俺が「離れ」に向かっているのは、あることを自分の目で確認するためだった。どうにもそのことが今一つ信じられずにいる。聞かされた話にはどこにもおかしな点はない。だが、俺の心には違和感が生まれていた。  そんな簡単に?  上手くいくに越したことはないが、俺は、見かけによらず慎重な性格なのだ。まだ五月初旬だというのに、真夏のような陽射しを浴びて額に少し汗がにじむ。心の中は、澄み渡った空とは真逆でひどくもやもやしていた。タイミングを見計らったみたいに、前方からその原因が歩いてきた。  市松人形のような長い黒髪と透き通るような白い肌。その美麗な顔に鮮やかに浮かび上がる赤い唇。男子生徒はみんな、この色彩の妙にやられてしまうのだ。遠目にも目を引くその女子生徒は、俺を見つけた瞬間、完璧なまでのアルカイックスマイルを浮かべた。そう、それは俺の目的の人物、菫花流北家次期後継者、六条深桜だった。 「あら、西先輩。ちょうど今、離れに行ってきたところなのですよ」  六条は、強い陽射しに少し目を細めながら俺を見た。 「久し振りだな」 「西先輩がなかなか『離れ』にいらっしゃらないので、こうして今日までしばらくお会いすることが叶いませんでした」  六条は、俺が茶道部員だということを知っている。入部の際に、俺がそこに居合わせからだ。当然、俺が名ばかりの幽霊部員だということも知っている。知った上でわざとそういう言い方をしたのだ。聞きようによっては嫌身に聞こえなくもないが、六条が言うと不思議とそういう風には聞こえない。美人は得だ。俺は苦笑で答えた。 「もう帰るのか? こうして久し振りに俺が来たってのに」 「はい。最後に西先輩にお会いできてよかったです」 「最後?」 「私、本日をもちまして、茶道部を退部してまいりました。今日は、部長や皆さんにそのご連絡と、短い間ではありましたが今日までのお礼を申し上げたくて」 「ちょっと待て。何で退部するんだ?」 「それは……」  俺が理由を尋ねた途端、六条の顔は強く憂いを帯び、いっそう艶やかな印象となった。とても高校生には見えない。 「なあ、六条。もし、おまえが何か事情があって辞めたくない茶道部を辞めなければいけなくなったっていうなら、せめてその理由だけでも教えてくれないか? 俺は幽霊部員だが、それでも同じ茶道部員であることに変わりはないだろ」 「どうして私が辞めたくない茶道部を辞めなければいけないのかもしれないと思ったのですか?」  六条の目が鋭く俺を見た。だが、それも一瞬のことで、すぐにまた憂いを含んだ哀れげな相貌に戻った。そして六条は、俺が答えるよりも先に自分で言葉を継いだ。 「西先輩の目にもそう映るほど、私の顔は不安をたたえていたのですね。確かにこれで全て解決したというわけではないかもしれませんしね」 「どういう意味だ?」 「……実は、私は脅迫されているのです。早々に茶道部を退部しなければ、学校に来られなくなるような目に遭わせると」 「脅迫? 何で六条が? 心当たりは?」 「ございません」 「誰かの嫌がらせか? おまえは味方も多いが敵も多いだろうからな」 「私のことをよく分かっていただけているのですね」 「平凡じゃないやつほど目立つし分かりやすいからな。警察には?」 「そこまでのこととも思えませんが。それに仮にそうだったとしても、私も家元もそこまで大ごとにはしたくないのです」 「見えや体裁を言ってる場合じゃないだろ。おまえはそれでいいのか?」 「……時期的には、ちょうどよかったのかもしれません。私は、まだ入部して一カ月と日も浅く、茶道部で築き上げたものは何一つありません。それに、皆さんが思っているほど私も強い人間というわけではないのです。今回のような激しい悪意には、他の方と同様、普通に恐怖もするのです。こう見えて、ただの女子高生ですから」  六条は、憂いを含んだ相貌のまま儚げに笑った。ただの女子高生は、こんなに大人びた顔はしない。だが、浮世離れしているように見えていても、中身はやはりただの十五歳の少女なのだろうか。俺の心は、わずかな痛みを伴って緩やかに締め付けられていった。  仕方ないんだよ。  自分にそう言い聞かせる。そう、仕方ない。なぜなら俺には選ぶ権利などないのだから。  六条を脅迫したのは俺の仲間だ。六条深桜を茶道部から退部させたいと言ったら、あいつらは「脅迫しちまえばいい」と簡単に言った。俺は迷った。だってよく考えてみろ。部活を退部させるために脅迫するって何か不自然じゃないか? いや、どう考えても不自然だろ。何かこう、目的と手段がリンクしていないというか。そこまでする理由を求めるはずだ。だが、迷っている俺にあいつらはこう言った。 「考えるより先にやっちまうんだよ。理屈はその後で考えればいい。世の中なんてそんなもんだぜ」  分かったような、分からないような話だ。だが、俺はあいつらに任せることにした。こういうことには、俺よりもあいつらのほうが慣れているし、他に何か代替案が思いつくわけでもなかったからな。それにしても、こんなにもうまくいくものだろうか? 「西先輩ともまたどこかでお会いすることがあるかもしれません。そのときはよろしくお願いいたします」  六条は丁寧なお辞儀をした。 「残念だ」 「それではごきげんよう」  六条は、最後までアルカイックスマイルを崩さなかった。俺は、去っていく六条の背中をしばらく見続けていた。そして、このまま「離れ」に向かうべきかどうかを考えた。俺の目的は、今の六条との邂逅でもう達せられてしまったのだから。  しかし、やはりこのまま向かうことにした。六条は、たった今、退部を申し出たと言っていた。それはつまり、今日「離れ」を訪問しなければ、その連絡が幽霊とはいえ一応茶道部員である俺のところにいずれやってくるということだ。できればそれは避けたい。茶道部部長、咲耶葵という女は、そういうところに妙に気が回る女だった。時に過分に。 「これはこれは、珍しい方がお見えになったわ」  入り口の引き戸を開けた俺を見て、開口一番嫌味ったらしくそう言ったのは本城(ほんじょう)和奏(わかな)だった。茶道部副部長、二年生だ。こいつの言葉は、六条と違って嫌味は正しく嫌味としてしか聞こえない。もちろん、俺は何とも思わないが。それよりも、そのマンガでしか見たことがないような豪勢な縦巻きロールをどうにかしたらどうだ。こいつ一人がいるだけで歴史ある茶道部がまるでキャバクラのようだ。 「あ、西先輩。ご無沙汰してます。ちょうど良かったです。明日にでも教室にお伺いしようかと思っていたので」  ほらな、思ったとおりだ。そう、この思ったとおりのことを言ったのが茶道部部長の咲耶葵。本城と同じ二年生だ。部長、副部長の他には一年生が三人。いや、六条が退部したから今は二人か。六条同様ほとんど話したこともないが、確か咲耶の隣に座っている頼りなさそうなのが木花(このはな)で、本城の隣で俺のことをずっと見ている無表情なのが三枝(さえぐさ)だったはずだ。 「今日は何で?」 「何でってこともないだろ。これでも一応茶道部員なわけだし」 「あ、いえ、そういう意味じゃないです。何か御用があったのかなと思って」  咲耶が慌てた様子で言葉を取り繕う。咲耶は、少しからかうとこんな風にあたふたする。俺はそれが面白いから、咲耶に会ったときは必ずからかうようにしている。本城みたいに毒がないしな。 「咲耶さん、西先輩に気を遣うことなんてないわ。どうせまた冷やかしにやって来ただけなのですから」 「本城は、本当にかわいげがないな。そんなんじゃ男できないぜ」 「大きなお世話です。私は、西先輩みたいな方でなければ構いませんから。割と心は広いほうだと自負しております」  口では本城に適わない。しかし、久し振りに来ても、ここは何も変わらないな。俺は、靴を脱いで座敷に上がった。そのまま座卓を挟んで咲耶の正面に座る。奥のほうからコポコポと茶釜の音が聞こえていた。その音を聞くだけで少し心が洗われる気がすると言ったらみんなは信じるだろうか。そこはあまりにも平和な世界だった。 「ここに来る途中、六条に会ったよ」  明らかにみんなの顔に動揺が走るのが分かった。脅迫の話が頭をよぎったのだろう。 「じゃあ退部するということを……」 「ああ、聞いた。その理由もな」 「……そうですか」  誰も何も言わなかった。周りの出方を窺っているような嫌な沈黙だった。その沈黙に耐えられなくなったのか、それとも部長であるという責任感や使命感からだったのか、咲耶が切り出した。 「どうするのが良かったんでしょうか?」  哀切な目をしていた。そんな目で見つめられて、俺はまた心の奥のほうが少し痛んだ。仕方がなかったんだ。だからそんな目で俺を見ないでくれ。 「俺たちに何かできることがあったとは思えない」  俺は、自然な感じを装って咲耶から視線をそらした。人は望まれた答えを持ち合わせていないとき、なぜかこういう風に訳もなく下を向く。まるでそこに答えが落ちているかもしれないという風に。だが、どれだけうつむいてみても、そこに答えが落ちていたためしはない。そんな簡単に手に入れられる答えなんてどこにもない。 「もしかしたら、西先輩ならどうにかできたのではないですか?」  今度は本城がまっすぐに俺を見ていた。 「無茶言うなよ。俺は、真面目とは言わないが、ただの高校生なんだぜ。そんなよく分からないやつら相手に何もできねーよ」  その言葉を聞いても本城は、まだ俺のことをじっと見ていた。だが、しばらくして諦めたのか、また視線を畳の上に戻した。 「部長の私が守ってあげなきゃいけなかったのに」 「そんなに自分を責めるな。仮に部長が他のやつだったとしても、きっとどうすることもできなかったと思うぜ」 「それでも私は守ってあげたかった」  咲耶が先代部長から後継に指名されたのはこういうところなのだろう。咲耶は、いつも他人のことで一生懸命になる。なりすぎるくらいに。そういう咲耶の性格をここにいるみんなはよく知っている。だから、咲耶はそんなに自分を責めなくていいんだ。ここには咲耶の責任を問うやつなんて一人もいないだろ?  俺の心は、相変わらず緩やかな痛みを伴って血を流し続けていた。もしかしたら、この血が止まることはもうないのかもしれない。俺は、このまま体中の血を一滴残らず全て流しつくして、哀れに一人で死んでいくのだろうか。もし、そんな風に俺が死んだとしても、咲耶は今と同じように自分を責めるだろうか。もしもその時が来たら、咲耶にはそんな俺を嘲笑ってほしい。そうすれば少しは俺も気が楽になる。だって俺は知っているんだ。次は咲耶、おまえが標的にされるということを。
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