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夕景ビートロック5(7月28日 月曜日)
その日、俺は、補修のため学校にいた。生徒の姿もまばらで、学校全体がすっかり夏休みの雰囲気に変わっていた。だるい補習に出席した後で、俺が向かったのは体育館だ。そこではバスケ部が練習をしているはずだ。しかし、少し動いただけでも汗が噴き出てくる。見上げると、頭上には抜けるような青空が広がっていた。山際からせり出している入道雲が、本格的な夏の到来を感じさせる。もっとも、俺の心には、この見渡す限りの青空とは似ても似つかない暗雲が立ち込めていたのだが。
体育館は、半面をバレー部が使い、残りの半面をバスケ部が使っている。夏の間、下小窓が全開なのは換気目的だ。閉め切っている体育館ほど熱中症になりやすい場所もないだろうからな。俺は、鉄格子の入った下小窓からそっと中を覗いてみた。
そこにいるはずのバスケ部の姿はなかった。右側半面には、バレー部が車座になってミーティングをしている。一人が前に出て両手を大きく振りながら説明している。フォーメーションの説明でもしているのだろうか? だが、そんなことはどうでもいい。肝心のバスケ部はどこに行った?
「あれ? 西島じゃん。何だよ、覗き?」
振り返ると、びしょびしょに濡れた頭をタオルで拭きながら、こちらを見ている背の高い女子生徒がいた。Tシャツにハーパンという格好だ。膝から下はよく日焼けしていて、無駄のないしなやかな筋肉が付いていた。まるで黒豹のような脚だ。惜しげもなくそんな脚を披露しているこの女子生徒こそ、女子バスケ部キャプテンの佐々木。今日、俺がだるい補習後で疲れているのにもかかわらず、わざわざ会いに来たやつだ。
佐々木は、ハーパンのポケットからペットボトルを出すと、ごくごくといい音を立てて喉を潤した。その後で、サンダルをペタペタさせながら俺のところへやってくる。
「何でいんの?」
「おまえに訊きたいことがあって」
「私に? ふーん、男なら間に合ってるから紹介してくれなくていい。あと、うまいもうけ話なんてのも絶対もうからないからいい。それから誰か女を紹介しろってんなら断る。金を返しに来たんなら受け取るから置いてさっさと帰れ。あとは……」
「待てって、そんなんじゃないから」
「忘れた頃にやってくるやつが持ってくるのは厄介ごとって相場が決まってんだよ」
「違う、本当に違うんだ」
佐々木は、さげすんだ目で俺のことを見ていた。まあ、確かに久し振りに会いに来た古い知り合いがろくでもないってことには同意する。
俺とこいつは、昔、同じバンドのメンバーだった。佐々木の担当はギター。見た目とは裏腹に繊細なカッティングが持ち味だ。かといって、魂が震えるような激しいビートも刻む。女だからといって馬鹿にするやつもいたが、俺の知る限り、男女関係なくこいつに敵うギターはいなかった。
こいつが俺に冷たく当たるのには理由がある。それは俺が勝手にバンドを抜けたからだ。抜けた理由は言っていない。それは本当にくだらない理由だったから。だが、俺にはどうすることもできない理由でもあった。あの女にバンドをやめろと言われたのだ。選ぶ権利のない俺にはバンドを抜けるしかなかった。そうしないと、こいつや他のメンバーに危害が及ぶ可能性があった。俺は、こいつのことを女としては見ていないが、同じロッカーとして尊敬はしている。だから、俺は、こいつがこの先もずっと魅力的なビートを刻めるように、黙ってバンドを去ったのだ。
今でもバンドをやってるじゃないかって?
同じことを佐々木にも言われたよ。それから自分たちを捨てて他のやつらと組んだクソ野郎だとも言われた。だが、それもまたクソみたいな理由なんだ。今のバンドには女が一人もいない。それなら構わないって。やきもちかよ、くだらない。そう言ったら容赦なく蹴り上げられたけどな。
「じゃあ何しに来た? さっさと言え」
どうやら話を聞いてくれる気持ちにはなったらしい。心変わりしないうちにさっさと訊いてしまおう。
「東上っていう一年知ってるよな? この前までバスケ部だった。そいつが今、茶道部にいる。バスケ部はいろいろあって辞めたって聞いてる。何があったのか教えてほしい」
佐々木は、一瞬フリーズしたが、すぐに元の蔑んだ目に戻った。
「そうか、おまえ茶道部だったな。どうせ名前だけでろくに出てもいないんだろ?」
「俺のことはいい。東上について教えてくれ」
「おまえが言ったままだ。いろいろあっただけだ」
「いろいろって?」
「いろいろはいろいろさ。練習方針の違いとか交友関係とか」
「交友関係?」
「十日くらい前に校門のところにメイド服の女がバイクつけて大騒ぎになってたろ」
「いや、知らない」
「何で知らないんだよ。おまえ、ちゃんと学校来ないと卒業できないぞ。まあ、それは私の知ったことじゃないからいいや。そのメイド服の女は、どうやら東上を訪ねてきたらしいんだ。何かいかにもやばそうな女だったって話だけどな」
バイクに乗ったメイド服の女……。あの女だ。やはり東上の知り合いだったのか。でも、それで退部っていうのは少し変じゃないか?
「交友関係に問題があると退部させられるのか? それなら俺にはどこにも居場所がない」
「さっきから聞いてると、まるで私が東上をクビにしたみたいな言い方だな。あいつがそう言ったのか? 退部は東上が自分で言いだしたことだからな。人聞きが悪いことを言いふらすなよ」
佐々木はこう言っているが、俺はこいつの性格をよく知っている。恐らく、本当のところは東上と馬が合わなかっただけだ。だから、いろいろ理由を付けて追い出そうとした。そこに東上から退部の申し出があった。佐々木にしてみればちょうど良かったというわけだ。
咲耶を退部させようとしている俺もひどいが、こいつもなかなかのクズだな。だが、これでつながった。東上が茶道部に入部したのは、やはり咲耶から脅迫されていることを相談されたからだ。そして東上は、諸悪の根源を絶つため知り合いのあのメイド服の女を倉庫によこした。なるほど。よくできたストーリーだ。だが、まだアドバンテージは俺のほうにある。東上は、電話の主が俺だとは気付いていないはずだ。
俺は、用が終わったならさっさと帰れと罵倒する佐々木を無視して、これからどうやって反撃するかを考えていた。
その日の夕方、俺は、久し振りに「離れ」を訪れた。夏で日が長くなったとはいえ、さすがにこの時間になると辺りにも夕闇が迫っていた。気温も昼間よりは下がり、少し涼しくなっている気がする。毎年この時期になると、茶道部は、今から約ひと月後に催される茶会のための段取りで忙しくなる。今年は、経験者が咲耶と本城の二人だけだから、なおのこと忙しくしていることだろう。
「今ごろいらっしゃっても、もう片付けが済んだところですよ。いつも終わる頃にいらっしゃいますけど。それともタイミングを見計らっているのかしら?」
俺が「離れ」の中を覗くと、いつものように本城が嫌味を言ってきた。本城は、俺に嫌味を言うのを生きがいとしているのか? 俺は苦笑しながら中に入った。
座敷に上がると、確かに茶道具はきれいに片付けられていた。いつもニコニコと迎えてくれる咲耶といつも仏頂面の本城のコントラストが今日も見事だった。一年生の手元には、それぞれメモ帳があった。今度の茶会の説明を聞いてメモを取っていたのかもしれない。
「でも、片付けも終わったし、本当にもう帰るところだったんですよ」
申し訳なさそうに咲耶が俺に告げる。もちろんそれは分かった上で来た。だからそんなに申し訳なさそうにしなくていい。咲耶のせいじゃない。心なしか少し痩せたように見えるのは、俺に咲耶に対する罪悪感があるからだろうか。
「今日は木花と話がしたくて来たんだ」
その言葉を聞いて木花が驚いた顔をした。いや、驚いたのは木花だけではなかった。ここにいる全員が不思議そうな顔をして俺を見ていた。まあ、それも仕方ないだろう。今まで木花と話したことなんてほとんどなかったのだから。
木花という男子生徒のイメージは、何度も言うが、頼りなさそうの一言に尽きる。茶道の経験はないと言っていたが、友達がそういう家の人間なので、以前から興味はあったらしい。そういう家というのがどういう家なのかはよく分からないが、恐らく、茶道関係者ということだろう。
「どうして木花くんと?」
「それは俺と木花だけの秘密だ」
みんなは、いよいよ目をぱちくりさせた。
「木花くん、どういうことかしら?」
「おまえ、何かやったのか?」
本城と東上が木花に答えを求める。だが、木花は訳が分からないといった顔で首と両手を左右に振り続けるだけだった。その情けない姿がいかにも木花らしい。相変わらず無表情な三枝は、今日もなぜか俺のことをずっと見ていた。三枝なりに不思議がっているということだろうか。全く何を考えているのかよく分からない。
「片付けが終わったんならちょうどいい。悪いが俺と木花の二人だけにしてくれないか?」
「でも施錠しないと」
ここ「離れ」の鍵を管理しているのは部長の咲耶だ。つまり、咲耶は俺たちを残して先に帰るというわけにはいかない。
「それなら鍵を預かる」
「そういうわけには……」
手を差し出した俺に咲耶は明らかに困惑していた。幽霊部員の俺に信用がないということもあるだろうが、それ以上に咲耶の施錠管理者としての責任感がそれを許さないのだろう。こいつはそういうやつだ。
「大丈夫なんじゃない。西先輩だって別にルミオを取って食おうってわけじゃないでしょ。ねえ、先輩?」
少し気まずい沈黙の後で東上が俺に微笑みかけた。果たして、この微笑みは何を意味するのか? だが、咲耶も考え直してくれたみたいだ。俺のほうに鍵を差し出す。木花は、まるで世界の終わりみたいな顔をしていたが俺は見逃さなかった。東上が、木花に目で何かを訴えていたことを。それは、まるで心配しなくていいと言っているみたいだった。
何とか話がまとまって「離れ」には俺と木花の二人だけが残された。俺は、卓を挟んで木花と対坐していた。
「そんなにかしこまらなくていい」
俺は、木花の緊張をほぐすつもりでそう言ったが、あまり効果はなかったみたいだ。さっきからうつむいた顔を上げない。そんなに俺は怖い先輩だろうか?
「少し訊きたいことがあるだけだ」
「……はい、何でしょうか?」
「ああ、実は、俺の親父は小さな町医者をやってるんだが、この前の終業式の日、何人かの俺らくらいのやつらが運ばれてきた」
俺は、木花の目をまっすぐ見ながら話しだした。話の内容は少し事実と変えてある。木花は何の話だろうといった顔で俺を見ている。
「けがか何か……ですか?」
「どうしてそう思う?」
「え? い、いや、何となくですけど……」
「……まあいい。木花が言うように、そいつらはみんな、揃いも揃ってけがをしていた。骨折していたやつもいる。誰かにやられたらしい。柄の悪いやつらだからそういうこともあるだろう。だが問題はそこじゃない」
「どういうことですか?」
俺は、目の前で不安そうに俺を見ている木花から目を離さずにその問いに答えた。
「問題の一つ目は、そいつらが俺の知り合いだったこと。そして二つ目は、別の仲間がその場から去っていくうちの生徒を見ていたこと」
そこまで話したとき、木花の体が少し震えだしたように見えた。視線は、俺ではなく畳の上に戻っている。俺は、木花が何か言うかとしばらく待ってみたが、どうやら話しだす様子はない。だが、これではそこにいたことを白状しているようなものだ。実際、俺は、そんな話は知らなかった。鎌をかけただけだ。そして、それはビンゴだったようだ。少なくとも、木花は、あの日倉庫にいたらしい。こんな臆病な男が一人でいたはずがない。恐らく、そこには東上もいたはずだ。
「なあ、木花。赤いバイクに乗ったメイド服の女に心当たりはないか?」
依然、木花はうつむいたまま動かなかった。東上に口止めをされているのかもしれない。俺は、本当に木花に何もするつもりはなかったが、木花はそう思っていないようだ。しばらくして木花は小さな声で言った。
「いえ……知りません」
夕闇迫る「離れ」に居心地の悪い沈黙が広がっていく。俺たちは、まるで地獄の業火に焼かれているかのように赤く染め上げられていた。ああ、またこの色だ。またこの色が俺に襲い掛かる。母親が俺を捨てて出ていったあの日のように。仄日の朱に貫かれて、俺の体から真っ赤な血が流れ出す。
「……西先輩は、その人たちの敵を討ちたいんですか?」
「そんなんじゃねーよ」
「じゃあどうして?」
「こう、世の中にはさ、どうにもならないことってあるだろ?」
木花は何も答えなかった。この目の前の臆病な少年は、答えるべき言葉が思いつかないのではなく、俺の言葉が痛いほど分かっているからこそ何も答えられないのだ。なぜだかそう思えた。俺は、木花のことが嫌いではなかった。もしかしたら、どこか似ているところがあるのかもしれない。こんな俺に似ているなんていうのは木花に悪いだろうか。
俺は、後はやっておくと言って木花を先に帰らせた。そして、また地獄に一人残される俺というちっぽけな存在。いつまでも永遠に止まることがないと思っていた真っ赤な血は、いつしか暗い闇に飲まれ、その傷口すら見えなくなっていた。
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