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夕景ビートロック7(8月20日 水曜日)
あの海でのバーベキューから二週間が経っていた。それは、俺が東上に敗北した日から二週間が経ったということだ。俺は、その日の夜に現れた本城に今後のことを詰問されたが、女王が満足するような返事は献上できなかった。そんな俺を見て本城は、失望と憤怒の入り混じったような表情をした。その後、どのくらいの時間罵倒され続けたのだろう。俺は、ただ平伏して女王の怒りが収まるのを待つしかなかった。
俺が本城和奏と初めて会ったのは、今から十年以上前のことになる。親父の医院が駄目になったとき、町医者をなくしてはいけないと先頭に立って支援してくれたのが、本城薬品の社長、本城の父親だった。母親と妹は家を出た後だったので、俺は、親父に連れられて本城の父親に会いに行った。本城の父親は、当時からやり手で、多くの新薬を製造し、自ら開拓した流通ルートに乗せることで会社を急速に成長させていた。子どもながらに金持ちの家だと感じたのを覚えている。親父が本城の父親と話す間、俺の相手をさせられたのが当時五歳の本城和奏だ。
最初から不遜なやつだった。俺に対する第一声は、「何だか薄汚いわね、おまえ」だった。本城は、自分が何をするわけでもないのに、「助けてやるんだから、今からおまえは私の忠実なしもべになるのよ。それは決定事項なの」と歳の割には難しい日本語を口にした。父親の影響、あるいは教育だったのかもしれない。もちろん、俺は拒否したが、本城は自分が父親に言えば、おまえたちへの支援はなくなる。そのことを帰ってからよく考えなさいと言った。
その日、帰宅してからの親父は本当にうれしそうだった。もう一度医者をやれるのが心底うれしかったのだ。本城の社長は、弱い人間の気持ちが分かる立派な人だとも言っていた。親父のそんな顔を見ていたら、俺は、本城和奏から言われたことを親父には言えなくなった。そして、本城和奏が言っていた言葉の意味を理解した。
あれから十数年。本城は、決して表立っては俺のことを下僕扱いしたりはしない。だが、真実は、俺に解けることのない首輪を付けて、必要な時にだけ必要なことをさせている。そんな関係が今まで続いたのは、本城がただ単に俺を使役するだけの無能な女王ではなかったからだ。俺は、見た目どおりこんなだから、街のごろつきともいろんな問題を起こした。警察沙汰になることだってたくさんあった。そんな俺が塀の向こうに行かなくていいように守ってくれたのもまた本城だったのだ。その理由を「おまえがいなくなると私が困るのよ」と本城は言っていたが、幼い頃、母親に捨てられた俺は、あいつのそんな歪んだ優しさの中に母親の幻想を見ていたのかもしれない。
今度のことも本当の理由は知らないが、あの二人が本城にとって何か都合が悪かったというだけだ。二人を追い出した後で自分が部長にでもなるつもりだったか。だとすると、考えられるのは菫花流の問題だ。俺には分かるはずがない。そもそも関係のないことだ。もちろん、だからといって今回の件がもういいということにはならないが。
この二週間の間、どちらにも進めなくなった俺は、最終的に咲耶と直接話してでも退部してもらうしかないという状況にまで追い詰められていた。直接話したところで、いくら他人に気を遣いすぎるきらいのある咲耶でも、さすがに首を縦には振らないだろう。それに、そんなことは東上がさせないはずだ。俺は、何もできないまま、ただ蜻蛉のように空ろな気持ちで毎日を過ごしていた。そして遂に今日、女王から再び呼び出しを受けた。
「おまえも知っているとおり、もうあまり時間がないの」
俺は、絨毯の上に正座し、複雑な装飾を施した、いかにも高そうな椅子に浅く腰掛けている本城からその言葉を聞いた。八月末に催される茶会まではあと十日ばかりだ。本城はそれまでに何とか咲耶を追い出したいのだろう。だが、今となってはもう限りなく時間切れに近い。何の前振りもなくいきなり本題を話しだしたのは、余裕がなくなってきている証拠だ。
「俺にどうしろと?」
「咲耶葵を拉致してしばらく監禁しなさい。場所は私が用意するわ」
それは、つまり、茶会に出席できないようにその間だけでも幽閉しておけということだ。何が本城をそこまでさせるのか分からない。だが、口答えを許さない口調とまっすぐに俺を見ている切れ上がった鋭い目が冗談ではないということを告げていた。もちろん犯罪だ。だが、それがどうした。世の中には表に出ていないだけで、この手の話は幾らでもある。本城が俺を守ってきてくれたのだって、ある意味そういう事件ばかりだった。だが、俺は素直に従うことができなかった。選ぶ権利なんてないはずなのに、その言葉にはどうしても素直に首を縦に振ることができなかった。
「どうしたの?」
「もうその方法しかないのか?」
「変なことを訊くのね。今さらおじけづいたわけでもないでしょうに」
確かにおじけづいているわけではなかった。だが、俺の脳裏に浮かぶ咲耶の顔は、いつもへへへなんて笑っている咲耶の顔は、俺の決心を鈍らせた。もし俺が本城の言葉どおり咲耶を拉致したとしても、恐らく、咲耶は俺が犯人だとは思わない。何か事情があるのだと最後まで俺を信じているだろう。そんなだから簡単に騙されるんだと言っても、人を疑うよりも信じていたいなんて甘いことを言って俺をどうしようもない気持ちにさせるだろう。それが俺の罪悪感と後悔をさらに募らせるんだ。
駄目だ。俺にはできない。
「何か別の方法を」
「いいえ、これは決定事項なのよ。おまえは今までどおり私の言うことにだけ従っていればいい」
本城は、珍しく口答えをしようとした俺をさえぎって強く言った。それは、異論を認めない女王の言葉だった。ああ、やはり俺はこうして一生この女に従うことしかできない人生なのだ。
その時、ドアをノックする音がした。今まで俺が本城の部屋に入っている間は、誰かが入ってくることなんてなかったし、それどころかドアがノックされることすらなかった。ドアをノックした主は、本城の答えを待たずに部屋に入ってきた。
「女性の部屋に礼を欠いた入室の仕方で申し訳ない。だが、私としても家族を守りたい一心でのことなので、その辺の無作法は許してほしい」
え? 何で親父が?
そう、入ってきたのは親父だった。親父は、入ってくるなり俺を一瞥すると、本城に向かって非礼を詫びた。そしてそのまま言葉を継いでいく。
「本城の社長には、今まで本当にお世話になった。返しきれないだけのことをしてもらったと心より感謝している。それは、娘である和奏さん、あなたにもだ。だが、私はその全てをたった今返上してきた。もちろん、全てを返せたわけではないが、残りはこれから少しずつ返していこうと思う。私にできる限りのことはするつもりだ」
何だ? 何の話をしている?
突然のことに驚いている本城にはお構いなく、親父はさらに言葉を継いでいく。
「本日をもって、西島医院は本城薬品との関係を絶つ。たった今、社長、あなたのお父さんにそう告げてきた。だから、今後一切、荒人とは関わらないでほしい」
親父は、自分の言うべきことは全て言ったとでもいうように、正座している俺の腕を掴むと立たせようとした。
「行くぞ、荒人」
目の前で起きた嵐がどういう意味を持つのか次第に理解してきたのだろう。女王の顔は徐々に怒りで紅潮していった。本城の理解は速かったと言えるだろう。俺ですら親父の言葉を理解するのに、それらの言葉をいったん頭の中で分解し、再構築してからでなければ最終的な答え、意味するところにまではたどり着けなかったのだから。
「お待ちなさい。まだ話は終わっていないわ」
「申し訳ないが和奏さん、こちらにはもう話すことがない」
親父は、俺の背中を二回ポンポンと叩くと、この部屋を出るように促した。俺は、親父と一緒にその場から去っていこうとして不意に立ち止まった。一瞬だけ見た怒りに震える本城の表情の中に別のものがあるような気がしたからだ。俺は、大丈夫だからと親父を先に行かせた。そして、また権威を失った女王のほうに振り返る。
「本城……」
「私は見世物じゃないわよ」
そこにはもう俺が十数年間見上げてきた女王はいなかった。その悲しげな表情は、まるで俺が自分の元を離れていくという現実に耐えようとしているみたいだった。この女は、そんな女だったか? 果たして俺が一瞬だけ感じた本城の中にある怒りではない別の何かとは一体何だったのか。俺の気のせいだろうか?
本城は、どうしてとは訊かなかった。頭のいい女だったから、親父が俺と本城の関係を知ったのだということはすぐに理解したようだった。もちろん、俺が本城との関係を親父に言うことはないと分かっていたはずだ。親父がどうしてそれを知ったのかは俺も知りたい。
「おまえは、どうしてそこまで咲耶を目の敵にするんだ?」
「あの子が私からおまえを奪っていったからよ」
「何を言ってる? いつ咲耶がおまえから俺を奪った?」
本城は、俺のその言葉を聞いて「これだから」と小さくつぶやいた。自嘲気味に言ったように聞こえたのはどうしてなのか。
俺は、何て言うのが正解なのか分からなかったので、取りあえず「じゃあな」とだけ告げて本城に背を向けた。本城は、小さな声で何か言った。よく聞き取れなかったが、恐らく「早く出てけ」と言ったのだと思う。
俺が部屋を出てドアを閉めると、中から本城の嗚咽が聞こえてきた。俺は、その嗚咽が本城のものではないと自分に必死に言い聞かせていた。普通の出逢いで始まった関係ではなかったが、十数年という短くない時間を共にして、俺は、心のどこかで本城が強い女だと思っていた。そう思っていたかった。だから、あの泣き声は決して本城のものなんかじゃない。
玄関を抜けたところで、心配そうな顔をした親父が待っていた。俺は、一度だけ振り返って本城の部屋を見上げた。そこはカーテンが閉められ、ここからでは人のいる気配も感じられなかった。もう二度とここへ来ることはないのだろう。感傷的になっていたわけではないが、ぼんやりとそんなことを思った。
帰り道で親父は、何度も気付いてやれなくてすまなかったと謝った。俺は、自分で選んだことだし、親父の謝罪なんて少しも求めていなかったからやめてくれと言ったが、どうしても親父は止めなかった。そうなのだ。俺は、選ぶ権利がないと言いながら、結局、自分でそれを選んでいたのだ。親父を言い訳にして、自分を悲劇のヒーローにしていたのだ。
どうして親父は事実を知ったのか? それは何とも不思議な話だった。今日の午後、自宅の郵便受けに消印のない一通の手紙が投函されていた。差出人は不明。宛名は親父宛てだった。開封して中に入っていた手紙を読むと、そこには俺が親父の医院への支援を盾に本城和奏に下僕になることを強要されているといった内容が書かれていた。誰かのいたずらかとも思ったが、そこには本城の父親と親父しか知らないはずの内容も書かれていたので、真偽を確認するために本城邸へやってきたらしい。そして、本城の前で平伏している俺を見て、親父は手紙の内容が真実であると確信した。
だが、一体誰がそんな手紙を? 俺と本城の関係を知っている人間なんて……。もしかして東上? それなら得心が行くが、東上がそんな回りくどいことをするだろうか? しかし、他に思い当たる人間はいない。
「本当にすまなかった。私がもっと早く気付いていれば」
「もういいって。何度目だよ」
「だが、これからはおまえの好きに生きるんだ。あ、もちろん他人様に迷惑を掛けるのは駄目だぞ」
そんなこと分かってる。親父は、本城からの支援を断ったから、あまり贅沢はさせてやれないとも言った。だが、俺は別に贅沢なんてしたいわけじゃない。当たり前に、自分の生きたいように生きられるのなら、他に何を望むことがあるというのか。二人で歩く歩道には長い影が伸びていた。俺と親父の背中には夕陽が射していた。
「これはまた真っ赤な夕陽だな」
親父は、暢気にそんなことを言う。人の気も知らないで。俺は、夕陽を見るとどうしてもあの日のことを思い出してしまうのに。
「そういえば、母さんが出ていった日もこんな夕焼けだったな。覚えているか?」
俺は、もちろんという風にうなずいた。忘れるはずがない。あの日、俺は、母親に捨てられたのだから。
「あの日から、おまえは私を守っていてくれたんだな」
ん? どういう意味だ? 親父は、俺が不思議そうな顔をしているのに気付き「何だ、覚えてないのか?」と言った。あの日、俺は何を言ったのだろう? 全く記憶がない。覚えているのは母親が妹だけを連れて家を出ていったことだけだ。
「あの日、母さんは、おまえも連れていこうとしたんだが、それをおまえがどうしても嫌がったんだ。パパが一人だとかわいそうだからってな。そういえば、あのときは、まだおまえも私のことをパパと呼んでいたんだよな、ははは」
親父のその言葉を聞いて俺の体に電流が走った。その言葉が真実なら、俺は、母親に捨てられたわけではない。妹と同じように一緒に連れていこうとしてくれたのだから。断ったのは俺の方だったのだ。それを俺は、曖昧な記憶を根拠に十数年間も母親に捨てられたと勝手に思い込んで……。
自然と少し頬が緩む。背中に押し寄せてくる夕陽は、いつもみたいに俺を追いかけてくることはなかった。むしろ、そっと背中を押してくれている気がした。背中がとても温かかった。その温もりを感じたとき、俺は心に決めた。俺は、俺自身の夢を叶えるために、十数年間、俺を縛っていたこの街から出ていくと。俺の心の中では、いつか聴いた熱いビートが、まるではなむけであるかのように響き渡っていた。
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