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夕景ビートロック1(4月16日 水曜日)
それはまるで、この世界全てを燃やし尽くしてしまうかのような赤い夕陽だった。
母親が、俺と親父を捨てて家を出ていったのは、俺が五歳のときのことだった。それまでいつも優しかった母親は、なぜかその日だけは普段より微笑みがぎこちなかった。もちろん、当時の幼い俺にそんなことが分かるはずもなく、俺は、妹を抱えて夕飯の買い出しに行こうとしている母親に、俺も付いていくと駄々をこねたのだ。母親は、俺を見てひどく辛そうな顔をした。おまえは連れていけない。そういう顔だった。もしかしたら、俺は、そんな母親の顔を見て、子ども心に何かを感じ取ったのかもしれない。泣きながらしがみついて食い下がった。しばらくそんなやり取りが続いた後、遂に母親は、俺を振り払い、小さく「ごめんね」と言うと妹だけを連れて出ていった。泣きじゃくりながら、開け放たれたままのドアまで行くと、もうどこにも母親の姿はなかった。代わりに、この世界全てを燃やし尽くすかのような赤い夕陽が俺を襲う。それは、本当に鮮やかで美しく、そして悲しい色だった。その夕陽を見た瞬間、どうしてだか子どもの俺にも分かったのだ。ああ、もう母親には二度と会うことができないのだと。
母親が出ていったのには、それ相応の理由がある。当時、うちは、親父の経営する小さな町医者で生計を立てていた。医者だからといって特段裕福なわけでもなかったが、ひもじい思いをした記憶もない。だが、実は、当時から多額の借金で既に首は回らなくなっており、どうにも手の施しようのない経営状態だったらしい。大幅な設備投資を行ったにもかかわらず、それに見合う投資効果が得られず、債務だけが増加した。それに加え、人の良かった親父が、銀行担当者に言われるまま、必要以上の借り入れを重ねたことが原因だ。銀行は、返済できなくなった債務者に優しくはしてくれない。機械的に回収処理を進めるだけだ。そこに住めなくなるのも時間の問題だった。だから、母親は俺と父親を捨てて出ていったのだ。妹を連れて行ったのは、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのか。それとも自分自身への言い訳を作るためか。いずれにしても、母親の中に俺を連れていくという選択肢はなかったのだ。
恨んでいるかって?
そりゃ、正直、恨む気持ちがないわけじゃない。でも、今では母親の顔も思い出せないし、今さら捜しだして恨み言を言うつもりもない。もう家族だとも思っていないし、向こうだって、俺のことなんてもう忘れてるだろう。俺の方だけ縛られてるなんて何か癪だし、はなからいなかったと思ってれば、負の感情が暴れだすこともない。こんなことを言うと、年中問題を起こしてるやつが何を言ってるんだって言われるかもな。ああ、今、俺を射している夕陽があまりにも赤かったから、柄にもなく色々と思い出してしまった。もう長い間、母親を思い出すことなんてなかったのに。
「ねえ、ちゃんと聞いてる?」
目の前の女は、不愉快そうに俺をねめつけた。俺の意識が別のことに向いているのに気付いたらしい。さすがに往時に思いを馳せているとまでは分からなかっただろうが。即座に俺は首肯した。聞いていたのは間違いない。
「ならいいのだけれど。分かっていると思うけれど、おまえに選ぶ権利なんてないから。おまえは、一生私にかしずいて生きていくのだから」
俺は、俺を直視する鋭い二つの目から少しだけ視線を外して、もう一度小さくうなずいた。たった今、この女が俺に告げた要件は二つ。いや、実質的には一つと言ってもいい。
『六条深桜と咲耶葵を茶道部から退部させること。手段は問わない』
どうしてその二人を茶道部から退部させるのか?
その理由については考えない。考えるだけ時間の無駄だ。どうせ俺が知ることはないのだから。さっき、この女も言っていただろう。初めから俺には選ぶ権利なんかないと。俺は、そのことをよく理解していたし、無駄な労力は使わない主義だ。いつだって、この世界にあるのは、抗いようのない現実だけなのだ。
その二人を茶道部から退部させることがどれだけ難しいかは、最後に付け足した「手段は問わない」という言葉で何となく分かるだろう。逆に、この女がどれだけ二人を退部させたいと思っているのかということも。
六条深桜――神東高校一年C組、茶道部員。茶道菫花流北家家元の娘にして後継者という茶道サラブレッド。菫花流北家は、代々「静樹」を号としているが、現在の六条静樹は深桜の母親なので、世襲制を基本とする茶道家元において、近い将来、彼女がこの名を継ぐことになるのは約束された未来だ。
彼女の名を学園で有名たらしめているのは、何もその豪奢な背景ばかりではない。彼女自身も、市松人形のような長い黒髪と透き通るような白い肌という魅惑的なコントラストを有した和風美人だった。その美麗な相貌は、おのずと由緒ある茶道界の住人であることを、見た者全てに強く印象付けた。化粧をしているわけでもないのに、真っ赤な色味を帯びた唇が、周りの男子生徒の心の平穏を奪う。一言で言えば、彼女には陰湿的な淫靡さがあった。入学以来、彼女に交際を申し込んだ男子生徒は、わずか一週間で片手の指では足りなくなったらしい。それらの男子生徒たちは、例外なく、みんなあえなく散っていった。俺は、特段六条深桜に興味を持たなかったが、それだけたくさんの男子生徒を袖にしておいて、一体どんな男が理想なのかという点についてだけは少し興味がある。
そしてもう一人の女、咲耶葵――神東高校二年F組。茶道部部長。茶道菫花流南家家元の娘にして第二後継者。菫花流南家は、代々「珠瑠璃」を号としており、そのまま何ごともなければ葵の姉がその名を継ぐだろう。六条深桜とは違い、第一後継者というわけではなかったが、後継者であることには違いない。第一後継者である姉に、いつ何が起こるかも分からないのだから。
六条深桜が、その美貌と背景から近寄りがたいという風評を得ているのとは逆に、咲耶葵は、それこそ高名な茶道家元の娘とは思えないほど気さくな人間だった。恐らく、第二後継者という気楽な地位がそうさせているのだろう。会ったことはないが、姉は、六条深桜に勝るとも劣らぬほど優秀な人間だとも聞く。そんな姉がいるのなら、自分が家元などという重責を担うこともないと安心し、おおらかな性格に育ったのかもしれない。末っ子気質とでも言うのだろうか。咲耶葵には、六条深桜のような美貌はなかったが、代わりに誰をも魅了する天性の愛らしさが備わっていた。こういう愛らしさが、人をたらし込ませる強力な武器になるのだ。本人に自覚はないだろうが、だから尚のこと始末が悪い。
茶道菫花流について、もう少し詳しく話しておく。菫花流には、北家、南家、それから院という三つの家元が存在する。今では、畏敬の念を込めて三菫家と呼ばれているその三つの家元は、開祖が菫花流を開いて以来、茶道界にその名を轟かせいたが、子どもたちの代になって、兄弟間の諍いが起こり、分家したらしい。もちろん、茶道にこれっぽっちも興味のない俺がそんなことを知っているわけはなく、これはあくまでも聞いた話だ。
当然、分家してからというもの、それぞれの家元が、自家こそが茶道菫花流の極北であると声を大にしてはばからなかったのだが、茶道の優劣なんて俺には分からない。仮に、一堂に会して茶を点ててもらったところで、何を基準に優劣を決めるのかすら分からないだろう。侘び寂なんて言葉をたまに耳にするが、その言葉の本当の意味を理解している者がどれだけいるというのか。みんな分かった風なことを言ってるだけじゃないのか。俺に分かるのは、分からないという事実だけだ。ここにも抗えない現実がある。
そんな由緒ある家元に生まれた彼女たちが、たかだか学校の茶道部ごときに在籍していることに少し違和感を覚えるが、だからといって、あり得ない話だとも思わない。どちらかというと、彼女たちは、部内において習う側ではなく教える側の人間だろう。それを彼女たちが面倒だと思わないのなら、茶道部としてはありがたい話だ。逆に、他の部員たちが二人を疎ましく思うことがあるとしても。
で、さっきも言ったが、この目の前の女が、どうしてその二人を茶道部から退部させたいのかは分からないし分かる必要もない。俺は、俺に与えられた仕事をするだけだ。はなから俺には選ぶ権利なんてないのだから。ただ、この二人を退部させることは、言うほど簡単なことではない。二人とも茶道名家の出自だ。たいして意味もない学校の茶道部とはいえ、退部させるにはそれ相応の理由が必要となる。ましてや咲耶葵に至っては部長だ。当たり前だが、「退部してくれ」とお願いして「分かりました」と答えてくれるほど、俺は二人と親密な関係ではない。もっとも、親密な関係だったら退部させられるというものでもないだろうが。だから、俺は、俺のやり方で二人を茶道部から退場させるしかない。少し気分のいい話にはならないかもしれないが仕方ない。できれば、俺が思っているよりも、簡単に終わってくれるとありがたいのだが……。
「分かっていると思うけれど……」
また何か言いかけた女を、俺は右手を差し出して制止した。
「大丈夫だ。俺に選ぶ権利がないことは分かってる」
「そんなの当たり前でしょ。そうじゃなくて、もし万が一何かあったとしても、私とおまえは何の関係もない」
そういうことか。それも分かっている。俺は、有無を言わせない強者の目で俺を見下ろしている女に向かってうなずいた。もし、俺がしくじったら、それは全部、俺一人が考えてやったこと。だから、責任も全部俺一人が取る。俺は、この女に容赦なく切り捨てられるのだ。それもまた、俺に選ぶ権利がないことの表れだ。この女は、もし俺がしくじったとしても手を差し伸べてくれることはない。最初からそういう関係だ。
思えば、今までにも何度かこういうことはあった。だが、今回みたいに誰かを名指しで標的にするのは初めてだ。それほど深い因縁めいたものがあるということだろうか。咲耶葵については、おっとりとしたその性格から想像することもできないが、六条深桜に関して言うなら、どこかで誰かに恨みを買っていたとしてもおかしくない印象だ。あの浮世離れした女がそんなことを気にしているとも思えないが。それに、それは一方的な嫉妬から生み出された逆恨みである可能性が高い。
「どうするつもり?」
「それは、俺に任せてくれるんだろ?」
「……そうね。おまえがどんな下衆な方法を使おうとも、この私には全く関係のないことなのだからね。それはそうと、おまえ、今でもバンドを続けているの?」
女は、その問いに答えない俺に苛立つでもなく、また急かすでもなく、しばらく黙って返事を待っていた。それでも俺は答えなかった。答える必要がないと思ったからだ。どうせこの女は俺をからかおうとしているのだ。バンドなんか組んだところで、おまえが望む未来がやって来ることはないのだと。
この女が言うとおり、俺は、中学の頃の仲間たちとロックバンドを組んでいた。もちろん、技術的にも拙く、決して人様に自慢できるような立派なバンドじゃなかったが、それでも、いつだって街の小さなライブハウスを満杯にすることはできた。バンドを続けているのは、持っていき場のない、このくすぶった俺の気持ちを、激しいビートに乗せてシャウトするのが最高に好きだったからだ。あの瞬間だけは、何もかも忘れることができる。他の憂鬱になるような余計なことも全部忘れて。だから、それをこの女にとやかく言われたくはない。
「いつかデビューできるといいわね。微力ながら私も応援しているわ」
その言葉が、この女の性格の悪さを物語っていた。この女は、ついさっき「おまえは一生私にかしずいて生きるのだ」とそう言ったではないか。この女は、俺にそんな夢が叶えられるわけがないと分かっていて、言葉では応援していると言いつつ、心の奥底では嘲笑っているのだ。その証拠に口元がかすかに笑っている。この女は、いつだって俺のことを蔑み、哀れみ、そして弄んでいる。俺の心には、もはや怒りすら生まれない。初めからそういう関係だ。俺には選ぶ権利がないのだから。
「話が終わったんなら、俺はもう行く」
立ち上がりかけた俺を女が呼び止めた。緩くウェーブのかかった長い髪を右手で気だるそうにかき上げながら口を開く。
「待ちなさい。おまえに選ぶ権利はないって言ったはずだけど」
その言葉で俺の心は暗い海の底へと沈んでいった。目の前の女は、どこか勝ち誇っているかのような微笑みでじっとりと俺を見ていた。その微笑みを見て、俺は忘れていたことにもう一度気付き絶望する。そうだ、俺には選ぶ権利なんてなかったのだと。女が無造作に自分の長く細い魅惑的な脚を俺の目の前に差し出す。俺は、まるで粘液質のような何かに埋め尽くされた息のつまるその部屋で、ゆっくりと一度だけ息を吐いた。相変わらず、この世界全てを燃やし尽くしてしまうかのような夕陽は、目眩がするほど俺のことを赤く染め上げ、何度も何度も俺の体から血を流させているのだった。
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