20.束の間の

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「ジークのことなんだけどさ」 (……俺のこと?)  廊下へと続くドアに、隙間ができていた。  カヤがアトリエから戻る際、閉め損ねてしまったらしい。  廊下を拭き始めたところだったジークは、不意に聞こえてきた自分の名前に手を止め、瞬いた。 「思ったより筋はいいみたいなんだけどな。ただ、箒に名前がなかなか出ないみたいで。……アンリ、何か聞いてる?」 「……特には」 「そっか」  言いながら、カヤはまだ中身の残っていたアンリのカップに、勝手にハーブティーの追加を注ぐ。その横に、持参したバスケットから焼き菓子を一つ添えて、 「……じゃあさ、あの話、してやっていい?」 「何が〝じゃあ〟だ。別に言う必要はないだろう」 「いや、だってあれ絶対励みになるし」  カヤは当たり前みたいにそう続けると、宥めるかのようにアンリの皿に菓子を増やす。  重ねられたフィナンシェ(焼き菓子)が、ぎりぎりのバランスでゆらゆらと揺れる。  あの話?  あの話ってなんだろう。  さすがに扉のすぐ前まで行くわけにはいかず、声量によってははっきり聞こえない。  ジークは壁に身体を沿わせるようにして、思わず耳をそばだてた。 「だってまさかこのアンリがだよ? このアンリが、箒に名前が出るまで一年もかかったなんて……俺だって信じられなかったし!」 「あれは箒の不具合だと思っている」 「いや、それ普通に職人さんに怒られるやつだから」 (え……?!)  ジークはとっさに口を押さえる。漏れかけた声をどうにか抑えながら、大きく見開いた目を僅かに泳がせる。  カヤが力説したばかりに、はっきり耳に届いてしまった。  どこかでジーク(自分)を慰めるための嘘ではないかと思っていた、名前が出るまでに一年かかったという魔法使いの話。あれはどうやら本当のことだったらしい。しかも、それがアンリだったなんて――。
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