♥23.月夜の晩に

2/12

987人が本棚に入れています
本棚に追加
/260ページ
「じゃあ、しばらく自転車よろしくな」  カヤが幾分疲れたような表情(かお)でアンリに声をかけている。その片手には珍しく一本の箒。ちょうどリュシーがロイと共に帰宅した頃だった。 「え……」  ジークはアトリエのカウチに横たわっていた。傍らのその姿を目にして、リュシーが瞬く。指定されていた時刻まではまだ余裕があるはずだ。本当ならこれからお茶の準備をして湖畔に赴くところだった。  けれども、その気を失ってなおどこか艶めかしいジークの様相に即座に状況を理解する。薄く開いたままの唇から漏れる息は浅く、肌は熱を帯びて桜色に染まっていた。 (ヒート……)  前回の発情(ヒート)はもう二ヶ月以上前のことだ。しばらく平穏な日々が続いていただけに、リュシーは思わずため息をつく。その後ろで、一足先に状況を把握していたロイが密やかに苦笑した。 「荷物、向こうでいいんだろ?」  ロイは何に触れるでもなく、ただカヤとアンリの会話を邪魔しないよう控えめに声をかけた。  耳元に落とされたそれに、リュシーがはっとして振り返る。けれども、その時にはロイはダイニングの方へと歩き出していて、 「リュシーもごめんな、次の修練の日のお茶、楽しみにしてるから」  なのにそこでカヤに声をかけられたおかげで、その後をすぐに追うことはできなかった。  *  * 「……ロイ?」  カヤが(どうにかこうにか)空へと消えるのを見送ってから、リュシーは少しだけ足早にダイニングに向かった。  だがそこにはもうロイの姿はなく、テーブルの上にすべての荷物が載せてあるだけだった。一角がガラス張りのリビングから窓外を眺めてみても、既にその気配もない。 「……黙って帰るなよ」  いつもはしつこいくらい纏わり付いてくるくせに。  小さく舌打ちを漏らしながら、リュシーは裏口へと目を向ける。僅かに隙間を残したままのドアは、音を立てないよう配慮したからだろうか。 「また貸しにでもするつもりかよ」  リュシーは溜息混じりに呟くと、静かにドアを閉めた。
/260ページ

最初のコメントを投稿しよう!

987人が本棚に入れています
本棚に追加