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「じゃあ、しばらく自転車よろしくな」
カヤが幾分疲れたような表情でアンリに声をかけている。その片手には珍しく一本の箒。ちょうどリュシーがロイと共に帰宅した頃だった。
「え……」
ジークはアトリエのカウチに横たわっていた。傍らのその姿を目にして、リュシーが瞬く。指定されていた時刻まではまだ余裕があるはずだ。本当ならこれからお茶の準備をして湖畔に赴くところだった。
けれども、その気を失ってなおどこか艶めかしいジークの様相に即座に状況を理解する。薄く開いたままの唇から漏れる息は浅く、肌は熱を帯びて桜色に染まっていた。
(ヒート……)
前回の発情はもう二ヶ月以上前のことだ。しばらく平穏な日々が続いていただけに、リュシーは思わずため息をつく。その後ろで、一足先に状況を把握していたロイが密やかに苦笑した。
「荷物、向こうでいいんだろ?」
ロイは何に触れるでもなく、ただカヤとアンリの会話を邪魔しないよう控えめに声をかけた。
耳元に落とされたそれに、リュシーがはっとして振り返る。けれども、その時にはロイはダイニングの方へと歩き出していて、
「リュシーもごめんな、次の修練の日のお茶、楽しみにしてるから」
なのにそこでカヤに声をかけられたおかげで、その後をすぐに追うことはできなかった。
* *
「……ロイ?」
カヤが(どうにかこうにか)空へと消えるのを見送ってから、リュシーは少しだけ足早にダイニングに向かった。
だがそこにはもうロイの姿はなく、テーブルの上にすべての荷物が載せてあるだけだった。一角がガラス張りのリビングから窓外を眺めてみても、既にその気配もない。
「……黙って帰るなよ」
いつもはしつこいくらい纏わり付いてくるくせに。
小さく舌打ちを漏らしながら、リュシーは裏口へと目を向ける。僅かに隙間を残したままのドアは、音を立てないよう配慮したからだろうか。
「また貸しにでもするつもりかよ」
リュシーは溜息混じりに呟くと、静かにドアを閉めた。
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