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* *
「ノエル様」
一匹の小ぶりな蝙蝠が夜空を飛来する。
「そろそろ出発しないと間に合いませんよ」
「ああ、もうそんな時間か」
次がれた呆れるような声に、けれども屋根の上で満月を眺めていたノエルは優雅に微笑むだけだった。
「ご機嫌ですね。そんなに美味しかったんですか?」
蝙蝠がノエルの肩に止まり、僅かに首を傾げる。
「……そうだな。大変美味だった」
ノエルは感慨深そうに笑みを深め、開け放たれたままの窓へと視線を向ける。つられたように蝙蝠が同じ方向を見遣り、「へぇ」と興味深そうに呟いた。
「――さて、では行くとしようか」
漆黒のマントを翻し、ノエルが音もなく屋根を蹴る。満月を背に、同じく蝙蝠へ姿を変えたノエルは、時折くるりと旋回しながらアンリの屋敷から遠ざかっていく。迎えに来た小ぶりな蝙蝠もそれに続く。
「そうだ、土産は……」
「用意してあります。青薔薇のワインにしました」
「喜びそうだ」
ノエルが褒めるように声を和らげると、後方に従う蝙蝠が「当然です」と返す。その事務的な声は、そのわりにどこか嬉しそうにも聞こえ、それにまたノエルも密かに微笑むのだった。
* * *
「寒っ……」
リュシーがいつもより早く目を覚ましたのは、室温が妙に下がっているように感じたからだ。寒くなってきたとはいえ、屋敷は一応、アンリが設置した魔法道具により空調が効いている。なのにこんなにも冷えるということは――。
「……あれ、なんで窓が」
空気の流れを辿り、リュシーはジークの部屋の扉を開ける。そして目に留めたのは、吹き込む風をはらんでゆらゆらと揺れるカーテンと、開け放たれたままの窓だった。
「……またあの人か……?」
リュシーの頭に、真っ先に浮かんだのはギルベルトの顔だった。
まぁ、前回窓を壊したのは正しくはラファエルなため、ギルベルトがこの場にいたら「俺じゃねぇ!」と即刻声を荒げていただろうが。
「いや、でもそんな物音……」
独り言ちながら、リュシーは窓に手をかける。幸いにもどこも壊れておらず、立て付けが悪くなっているようなこともなかった。
記憶を辿るも、特に何かあったような覚えもない。ということは、ヒートで体温が上がったジークが暑くなって自分で開けたのかもしれない。
「あ」
カタンと傍らで傾いた箒に目を遣ると、その柄の部分には昨日の朝までなかった文字が刻まれていた。〝Siegrid〟――ジークの名前だ。
「……名前、出たんですね」
リュシーの表情が無意識に綻ぶ。箒をまっすぐ立てかけ直すと、背後のベッドで規則的な呼吸を繰り返すその姿に目を向ける。服も寝具も何ごともなかったように元通りで、情事の名残などは一切感じられない。ノエルが魔法で整えた状況に、リュシーは気付かない。
「ヒートも収まったみたいだし……」
リュシーはカーテンを閉め直し、その横をすり抜ける。
「……良かったですね」
夜明けまではまだ時間がある。呟き、部屋を後にしたリュシーの後ろで、ジークはすやすやと安らかな寝息を立てていた。
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