三月

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三月

 緒方は振り向いた。  そこには自分より、ひと回りもふた回りも大きい男が立っていた。  柔道場では、学期の締めくくりに試合が行われている。二組合同で行われる体育の授業。体格が近い者同士で試合が組まれていたが、緒方が対峙したのは明らかに巨人であった。  緒方は、これまでの体育でも少なからず理不尽な目にあっていると感じていた。他にもダラダラと走っている生徒がいるのに、見せしめに怒られたり、桜丘高校に伝わる独自の体操『桜丘体操』の試験では、他にごまかしている生徒もいるのに、「そんなことして恥ずかしくないのか!」と一喝されたりした。だから高一最後の授業ぐらい抗議をしても良いだろうと思った。  熊を擬人化したサンプルとして採用されそうな風貌をもつ山口先生に向かって、緒方は口を開いた。 「先生」 「どうしたの?」 「ぼくだけ無差別級なんですか?」  だが緒方の反発係数からすると、山口先生は、驚くほど穏やかに返答した。 「うーん、そうではないんだけど、どうしてもね、人数の関係で少し体格差が出てしまったね」  緒方も引かない。 「あの……結構、差あると思うんですけど」  そのぼそっと言った一言と、眼前のリアリティが一致したので、見ていた生徒からは失笑が漏れた。  緒方は十六歳の平均身長・平均体重をともに少し下回る。さらに猫背なので、余計に体格差があるように見えた。 「緒方、お前ならいけるって」  兼本のいつもの茶化した声がきっかけとなって、周りの生徒たちも煽り始めた。  勘弁してくれよ……緒方は生徒たちを一瞥すると、対戦相手の様子を見た。  隣のクラスの巨人は「やってやる!」という顔とファイティングポーズをとっている。  緒方は急に不安になった。相手の持って生まれた恵まれた体躯を目の前にすると、掴んで投げられる想像しかできない——その時だった。 「若い人は知らないと思うけど——」  山口先生がおもむろに口を開き、先ほどまで煽っていた生徒たちも静かになった。 「姿三四郎って知ってる?」  緒方は山口先生と目が合ったので、顔で知らないと伝えた。  山口先生は表情を変えず、独特の間合いから正面を向いて言った。 「小よく大を制す、柔よく剛を制す」  緒方はポカンとした。それは周りの生徒も同じで、柔道場に妙な沈黙が訪れた。山口先生は、再び緒方の方を向いて言った。 「つまり、君はヒーローになれる可能性があるんだよ」  一瞬の静寂のあと「おぉ」と生徒たちが歓声をあげた。柔道場は再び、野次馬の声に包まれた。そこには明らかに嘲笑いが含まれていたが。  でも緒方は、そんなことは意にも介さなかった。それどころか山口先生の言葉に見事に乗せられていた。“ヒーロー”という言葉に弱かったのだ。小さい頃になりたかったのは、戦隊モノのレッドだったし、時々授業中に外を眺めては、自分がマーベルヒーローだったら……と世界を救う妄想をしていた。  緒方は、テレビで見たオリンピックのメダリストのように、自分の頬を二回叩き、気合いを入れ、ファイティングポーズをとった。 「はじめ!」  山口先生の声が響いた。 「一本!」  あまりに一瞬の出来事で、緒方は何が起きたか頭で理解するのに時間がかかった。だが理解する前に「もう一丁!」と気合いを入れ直し、再び相手に向かっていった。 「一本!」  観衆の生徒たちは、先ほどのリプレイを見たかのようだった。さすがの緒方も、自分が立て続けに畳にたたきつけられたことで、負けを理解した。 「あぁー」という小馬鹿にした声の中、ぐったりしながら緒方は元の立ち位置まで戻った。 「今回は剛よく柔を断つだったね、へへへへへへへ」  山口先生は場をなごませようとしたが、独特の気持ち悪い笑い方が出てしまい、生徒たちも苦笑いするしかなかった。 「大丈夫?」 「はい」と答えたが、緒方は明らかにふてくされていた。山口先生の笑い声が少し癇に障ったのもあるが、それ以上に自分の不甲斐なさが情けなかった。それに受け身がうまく取れず、体も痛かった。  その様子が気の毒だったのか、山口先生は緒方に近づき、提案した。 「あのさ、ぼくが直接受身教えてあげるよ。君、頑張ってたから」 「え?」 「何部だい?」 「いや部活はしてないです」 「じゃあ今日放課後、来なさい」  山口先生の真剣な表情に、緒方が戸惑っていると、兼本が口を開いた。 「いいなぁ~。俺たちも山口先生に個人指導で受身教えて欲しかったぜ!」  柔道場は笑いで包まれた。緒方は、力なく笑うことしかできなかった。  一年生最後の体育の授業は、嘲笑に包まれ、幕を閉じた。
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