囚われたのは

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 その箱を開けた瞬間、黒い霧が男の全身を包んだ。  しまった、と思ったときには遅く、男は呪いにかかってしまった。  全身がピクリとも動かず、うめき声のひとつも上げられない。  目が見えて、耳が聞こえることだけが、唯一の救いだった。  人形のようになった男を診た呪術師は、あの箱に古代の呪いがかかっていたようだと告げた。  仲間たちが古文書などを紐解き、ようやく呪いを解除する方法を見つけたのだが、それを聞いて男は死を覚悟した。  解除方法――それは呪いにかけられた者が、初めて肌を合わせた異性と同衾すること。  それが叶わぬ場合は、呪いをかけられてから三十日後に命を落とすという。 ――彼女は俺を助けてはくれないだろう。    なぜなら初めて抱いたのは、かつて自分が裏切った挙句、手酷く捨てた女だったからだ。  恨まれても仕方のないことをしたと思っている。  女はかつて男が冒険者だったころ、献身的に支えてくれた幼馴染み。  妻にと望むほど、優しくて愛しい恋人だった。  あとひとつ、クエストを終えたら結婚してほしい――その言葉に、女も了承してくれた。  しかし、男はその約束を果たさなかった。  ギルドマスターの娘に見初められ、結婚してくれと言い募られたのだ。  娘にめっぽう甘いギルマスは、娘婿になったら将来ギルドを継がせてやると言った。  一介の冒険者として体を酷使し続け、一生を終えるか。  はたまた、ギルドマスターとなって冒険者たちを顎で使い、その利益で平穏な余生を終えるか。  地位と名誉と金を欲した男は、女を捨てた。  その後、女がどうしているかは知らない。  生死すらもわからないのだ。  しかし……もしも生きていたとしても、女は話を受けるまい。 ――自分はそれだけのことをしたのだ……。  男は観念し、死を受け入れた。  しかし、女はやってきた。  数年ぶりに見る女は、以前よりもほっそりとして……むしろ(やつ)れている。  不健康そうな青白い肌は、闇夜で頼りなく灯る蛍の光のようだった。  昔は眩いほどの笑顔で自分を見つめていたはずが、眉を少し下げて困ったように微笑むばかり。  全てが以前とは違う。  昔とはまるで逆の雰囲気を醸し出す女。  しかし、それが逆に儚げで、男の庇護欲をいたく刺激した。 「……お久しぶりです。私などに触られるのもお嫌でしょうが……堪えてください。これは、呪いを解く儀式なのです」  女は身につけていたローブを脱いだ。  その下はなにも身に着けておらず、美しい裸体が闇に浮かぶ。  女はゆっくりと男の元へ歩み寄り、そっと頬を撫でた。  悲しげな表情の女を見て、男はこれまでの全てを後悔した。  あれほど望まれた結婚だったにも関わらず、夫婦関係は数年で破綻。  妻の興味は、そのころ頭角を現し始めた新人冒険者に注がれ、あっという間に(ねんご)ろになった。  しかもそれを隠さなかったため、その状況は男にとって針の(むしろ)となったのだ。  やがて妻は子どもを産んだ。  当然、別の男の胤だった。  怒ったギルマスは、娘と新人冒険者を街から追放した。  いくら娘が可愛くても、地位ある者の立場上、秩序を乱す者を許してはおけなかったのだ。  娘婿であった男には、当初の約束を違えないと誓った。。  次のギルマスはお前しかいない――そう宣言してくれたのだ。  しかし結局はギルマスも、やはり娘を見捨ててはおけないようだった。  こっそりと援助を行い、たびたび孫の顔を見に行っているのも知っている。  さらには娘宛の手紙に『婿が死んだら戻ってこい。お前の夫を次のギルマスにする』と書いてあるのを、偶然読んでしまったのだ。  男は絶望した。  地位と名誉と金を手にし、明るい未来が待っていると信じていたのだ。  そのために、愛した女まで捨てた。  なのに現状はどうだ。  鬱屈した思いを振り切るため、男は数年ぶりにクエストに出た。  ギルド内でも腕利きの冒険者とパーティーを組み、さまざまな依頼をこなしていく。  冒険だけが、男の苛立ちを忘れさせてくれた。  幾多の困難を乗り越えた先にある、爽快感と達成感。  男はそれに酔いしれた。  寝る間も惜しんでクエストに夢中になり、そして油断したのだ。  この呪いは、俺に課せられた罰だ――そんなふうにさえ思っていたのに、女はそれを解くためにやってきた。  涙が一筋零れる。  女はそれを手で拭うと、男に優しくくちづけをした。  女の手が、唇が、男の全身にくまなく触れる。  触れた先から熱を感じ、細胞のひとつひとつが生き返るのを実感した。  それまで動かなかった指先が、ピクリと蠢く。  渾身の力を振り絞り、女の手に触れた。  女は驚いたように男を見遣ると、ふっと淡く微笑んだ。  男の目に、再び涙が浮かぶ。  一刻も早く彼女を抱きしめたい――そんな気持ちでいっぱいだった。  女は下半身へと移動すると、男の萎えた一物を口に含んだ。  しっとりと温かい口内に包まれた瞬間、男の物が芯を持ち始める。  ジュッジュッジュッ。  音を立て、唾液を絡めながら舐めしゃぶる。  カリ首や裏筋を舌先で丹念に(ねぶ)り、男の情欲を煽っていく。  喉の奥深くまで男を飲み込むと、ゆっくりと頭を上下させた。  次第にその速度が早まり、男の猛りは最高潮となっていく。 「くっ……」  思わず声が漏れた。  呪いをかけられてから初めて出す声。  しかし喜びとは違う感情が、男の中に渦巻いていた。 ――俺はこんなこと、教えた覚えはない。  女に口淫をしてもらうのは初めてだった。 ――俺の次の男が、彼女をここまで淫らに仕込んだのか。  激しい嫉妬が男を苛む。  湧き上がる怒りに同調するかのように、男の一物がどんどん膨張していく。  今にも爆発しそうなそれを、女は自らの手で支えながら、ゆっくりと腰を落とした。  以前は男が上になり、女の中に入り込んでいたのが、今は女自らが進んで男を迎え入れている。 「ふぅっ……!」  その扇情的な状況に、男は堪らず吐精した。  体がビクンと跳ね、女の奥にこすりつけるように腰を揺すった。 「……あ」  このときになって、男はようやく自分の体が動くことに気付いた。  女もまた、驚きの表情で男を見ている。  そして男は上半身を一気に起こすと、女の唇を奪い、そのまま押し倒して――。  数時間後、男は心地よい倦怠感に包まれていた。 ――できることなら、このまま女を離したくない……。  それが今の男の、偽らざる本心だった。 ――もう一度、やり直してくれるだろうか。  そう切り出そうとしたとき、女はおもむろに身を起こし、脱ぎ捨てたローブを拾った。 「どうした?」  男の問いかけに、女は「もう、帰らなければなりません」と静かに答えた。 「帰るって、どこに?」  まさか女はすでに家庭に入っているのか?  男の胸が、怪しくざわめく。 「見世(みせ)に……。朝までに帰るという約束なのです」  まさか……と、男は目を見開いた。  見世と言うのは娼館のこと。  彼女は今、娼婦になっているのか?  慌てて引き留めて問い詰めると、女は渋々ながらも過去の忌まわしい出来事を、静かに打ち明けたのだった。  悲しみにくれる女のもとに借金取りが現れ、返済を迫られたらしい。  女には覚えがなかったが、見せつけられた証文に書かれていたのは、確かに彼女の名前だった。  しかも自分の筆跡によく似ている。  そんな借金は知らないと必死で訴えるも、証文があるの一点張りで、(さら)うように女を花街へ連れて行ったという。  女はそのまま娼館に入れられ、無理やり客を取らされた。  いくら抵抗しても逃げることすら叶わず、幾人もの男たちに夜ごと抱かれる生活を強いられたのだ。  そんな女を可哀想に思った客が、ある秘密を教えてくれた。 「借金の証文はな、ギルマスの娘がお前を陥れるために作った偽物だ。あの男と結婚するために、どうしてもお前が邪魔だったんだな。二度とお前が男の目に入らないよう、花街に沈めたって言ってるのを聞いたぜ」  その告白に、男は驚愕した。  まさか妻がそんなことをしていたとは……。ではなんの罪もない女は、つまらぬ嫉妬から娼婦に堕とされたのか? 「すまなかった!」  男は床に頭を擦り付けて、女に謝罪した。 「……もう、終わったことですから」  女は静かに呟いた。  その声は全てを諦めきっているかのようで、男は胸が潰れるような思いだった。 「此度(こたび)は呪いゆえ、このような形でお会いしましたが、もう二度と会うことはないでしょう」 「なぜ」 「あなたは将来この街の冒険者たちの頂点に立つお方。私のような、しがない娼婦と関わり合いになってはいけません」 「だめだ!」  男は女を抱きしめると、女は腕の中で身を固くした。 「君がこんな目に遭ったのも、全て俺のせいだ。俺は今までなにも知らず、君に苦労をさせてしまった。その償いがしたい」 「ですが」 「俺はあのとき君を捨てたことを、ずっと後悔していた。もう二度と離れない。必ず幸せにする。だから俺にもう一度チャンスをくれ!」  激しく言い募る男に困惑する女。  色よい返事をしない女を抱きかかえ、男は花街へと急いだ。そして娼館へ駆け込むと、その場で女を身請けした。  次に男はギルドマスターの元へと向かった。  娘の悪事を洗いざらい話すと、ギルマスは観念したように「そのことは知っていた」と告白したのだ。  娘のしたことを知りながら、なにも話さなかった舅に男は激怒。  この件を世間に知られたくなければ、今すぐ資産の半分を譲り渡せと脅し、莫大な金を手に入れた。 「お前の娘とは離縁する。もしも再び俺の前に姿を現せば、そのときは容赦せず切り捨てる」  吐き捨てるようにそう言い残すと、女を連れて隣の国に移り住んだ。  その国のギルドに入った男は、再び冒険者としての毎日を送ることとなる。  以前捨てたはずのその生活は、男の心に潤いを与えてくれた。  新しい生活は、順調そのものだった。  女は慎ましくて献身的で、あんな過去があったにも関わらず男を優しく支え、癒してくれた。  昼は聖女のような慈愛に溢れる一方で、夜は自分の下で淫らに咲き誇る毒花となる。  そんな女に夢中になった男は、その全てにのめり込んだ。  しかしそんな生活にも、徐々に影が差していく。  女は美しすぎたのだ。  その庇護欲をそそる容姿や(たお)やかな雰囲気が、いやでも街の男どもの目を引いた。  ただ歩いているだけで、方々から声をかけられ誘われる。  断っても、無理やり連れ去ろうとする輩まで出る始末。  このままでは、女が浚われるかもしれない……。  男が危機感を抱いたころ、事件が起こる。  男の不在中、女を手籠めにしようと賊が家に押し入ってきたのだ。  しかし男が早く帰宅し、賊を一刀両断にしたため、女は事なきを得た。  この一件で女に言い寄る男はいなくなったが、男はそれでも安心できなかった。  いつまた、女に無体を働く奴が出てくるかもしれない。  それだけならまだしも、もしも女が自分以外の男に心を移してしまったら?  そう、かつて自分が女にしたように。  ある日突然、今度は自分が女に捨てられてしまうかもしれないのだ。 ――彼女を失うなんて、絶対に考えられない!  恐怖心に心を蝕まれた男は、人口の多い街を捨て、人の少ない田舎に移り住むことにした。  そして女を家から一歩も出さず、囲い込んだ。  さらには自らも冒険者でいることをやめ、ずっと女に寄り添った。  幸い、なにもせずとも一生食っていけるだけの金はある。 ――これで誰の目にも触れることはない。彼女は永遠に、俺だけのものだ……。  そうして男は片時も女の側を離れようとはせず、家の中に籠もりきったまま、女を慈しみ続けたのだった――。 **********  情事のあとの疲れから、深い眠りについた男の髪を、女は優しく撫でた。  恋しくて、憎らしくて、それでもやっぱり愛おしい男。  死ぬほど辛い目に遭ったにもかかわらず、女は男を忘れることができなかった。 「……あなたを永遠に繋ぎ止めるために、どうしたらいいのか考えたの」  女は誰に聞かせるでもなく呟いた。  最初は呪い。  その話は娼婦時代の客が、場繋ぎに語ってくれたものだった。 『古代の呪術の中には、心変わりをした男を殺すものもあるらしい』  ただの与太話と思いきや、それが真実であることを女は知る。   ――もしあの人が呪いにかかったら……。それを私が解いたなら……。  男の心が自分に戻ってくるかもしれない。  女はそう考えた。  幸いにも、男の夫婦関係は破綻していることを、噂で知っていた。  男の胤ではない子どもまでいるという。 ――ここで私が彼の救世主となったら、あの人は、私の元に帰ってきてくれるかもしれない。  そこで常連客らを上手く操り、男が呪いにかかるように仕向けた。時間はかかったが、男は見事、呪いにかかったのだ。  女は嬉しさと愛おしさをグッと堪え、神妙に男の前へと歩み出た。  そしてこれまでに培った性技を駆使し、男を籠絡した。  男は予想通り、すぐ女に夢中になった。  次に女は、自らに溺れていく男に献身的な態度で接した。  かつて元妻からは得られなかった安らぎを、望むだけ与え続けたのだ。  さらには、昼は清らかな淑女のように。夜は淫らな娼婦に戻り。  そうして男を虜にしつつ、一方でこっそりとほかの男たちに色目を使った。  見た目は清楚ながらも、元娼婦特有の色香を持ち合わせた女に群がる輩は後を絶たず。  そうして男の嫉妬心を、最大限に煽ったのだ。  押し入った賊に陵辱されそうになったのは計算外だったが、このことがさらに男の心を狂わせた。  結果、思い詰めた男は女を離すまいと、一日中家に籠もるようになった。  外に一歩も出ず、食料や生活必需品の類いは定期的に訪ねてくる商店に手配するので、生活するには全く困らない。  誰の干渉も受けない、ふたりだけの愛の巣。  男も死ぬまで、ここから出ることはないだろう。  全ては自分の目論み通り……女はうっそりと嗤った。 「これでもう、ほかの女の目にとまることはない。あなたは私だけのもの。もう絶対に、逃がさないわ……」
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