彼女のみた空

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 隣の家のお姉さんが記憶を売り始めた。  またか、と呟いて、私は隣の家へ向かう。  お隣のお姉さんは記憶を売り始めるたびに違ったのぼりを塀の前に上げる。前回は赤色で、その前は縞模様、今回のものは青い色をしていた。  のぼりの文字も毎回違うもので、今回ののぼりには何の冗談か「記憶売り、はじめました」なんて書かれている。そんな冷やし中華みたいなノリで記憶を売らないで欲しい。でも、そんなところも彼女らしいと思ってしまうから、きっと私はどうかしている。  彼女が売る記憶というものは、毎回ありふれた日常の中にあるものだ。前回のものはりんご飴で、その前はシマウマの記憶だった。今回は、空の青さを売ってしまうらしい。  消えてしまった記憶はもう戻らないから、彼女は動物園に行ってもシマウマの名前だけが分からない。  彼女の空は、放っておけばきっと高く買い取られて誰かの娯楽として消費されることになるだろう。  でも私はその前に、その空を買うことにした。彼女のつける値段は言い値なので、私は通常つくだろう相場の三割ぐらいで彼女の空を買う。しかし、彼女はお金に困っている訳じゃないのでそれでも大層喜ぶ。  私は彼女のお得意様なので、彼女と時たま言葉を交わす。  私が彼女にどうして記憶を売るのかと尋ねると、その問いに彼女はいつも答えられない。彼女は困ったような顔をして、「どうしてだったでしょう」と首を傾げるのだ。  しかし、私は本当は彼女が記憶を売り続ける理由を知っている。  彼女はほんの数年前まで、この広い家に夫と共に暮らしていた。  別れたのか、はたまた死別してしまったのか。彼女の夫だった彼がどうしたのかは、隣に住んでいる私でさえ定かではない。ただ確かなことは、彼女の夫の姿をここ数年前からさっぱり見なくなったということだけだった。  彼女が記憶を売るようになったのは、その頃からだ。彼女が最初に売ったのは、彼女の夫の記憶だった。  それが悲しいとか寂しいとか、そう言う立場に私はいない。彼女が忘れたいと思うのならそれはきっと正しい。だって、不在を思い出して辛い思いをするぐらいなら、忘れてしまった方がずっといい。そう思うのも、分かる気がする。  私が彼女のお得意様になったのは、この時気まぐれにいくつか記憶を買ってからだ。私は彼女の夫がどういう人間だったのか、話したこともないのに知っている。  彼女にもう、夫と暮らしていた記憶はない。彼女は夫の記憶を全部売り払ってしまうと、今度は様々な日常の記憶を売るようになった。  彼女は、彼と動物園に行ってシマウマを見たかもしれない。祭りで、りんご飴を買ったかもしれない。何となく、そう思う。  人間の記憶は何処に保存されているんだろう。彼女に夫の記憶はもうないのに、彼女は記憶を売り続ける。  家に帰って、私は彼女の捨ててしまった空の記憶を見る。  彼女が彼と見上げた空は、今まで見たどの空よりも美しい。
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